第1話
「フィリア。私は、君との婚約を破棄する」
楽団の演奏が途切れたのは、その言葉が大広間に響いてからだった。
私は手にしていた杯を、そばの卓へ置いた。硝子の底が小さな音を立てる。指先が震えなかったことに、少しだけ安堵した。
アルフレッド殿下の金髪が、燭台の明かりを受けて輝いている。見慣れたはずの緑の瞳は、こちらが何を言うか、警戒するように細められていた。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
「その態度だ。君はいつも、私に説明を求める」
殿下の傍らで、一人の令嬢が俯いた。
その人の表情を確かめるより先に、私は殿下へ視線を戻した。今ここでお話ししなければならない相手は、彼女ではない。
「私は君の婚約者であって、試験を受ける生徒ではない。何を言っても、予算はどうだ、手続きは済んでいるのかと……君には、可愛げというものがないのか」
先日お止めしたのは、収穫祭の予備費を使って、新しい狩猟用の馬を買うお話だった。
けれど、それを今申し上げても、きっと届かない。
私は一度、息を吸った。
「こちらの件は、陛下もご承知なのでしょうか」
「また、そうやって!」
強くなった声に、周囲のざわめきが静まった。
胸の奥が痛んだ。
殿下と親しくなろうと、お好きだという菓子を調べたこともあった。お疲れに見える日に、用意していた話を取りやめたこともある。
そうしたことは、何も残らなかったのだろうか。
悲しいと思った。
それでも、引き留めたいという言葉は出てこなかった。
「……承知いたしました。正式なお手続きについては、後日、両家を通して確認させてください」
膝を折り、頭を下げる。
何百回と繰り返した礼は、こんな時にも私を支えてくれた。
*
婚約解消の書類が整ってから三日後、父は私に屋敷を出るよう命じた。
「王家の婚約者でもなくなったお前を、いつまでもここへ置いてはおけん」
執務机の向こうで、父は書類から目を上げなかった。
「北に領地があるだろう。母上から譲られた、お前の土地だ。そちらで暮らすとよい」
「……はい」
「今後、公爵家からの援助は当てにするな」
私は膝の上で重ねた手に、そっと力を込めた。
北の領地。
お祖母様が、遺言で私に遺してくださった土地。
春になると丘に白い花が咲き、夏の朝には、森の匂いが窓から入ってくるという。
私はその土地を持ちながら、一度も訪れたことがなかった。
王都での教育を優先し、代官から届く報告に目を通すだけで、領主の務めを果たしているつもりになっていた。
「出発の準備をいたします」
父の返事は、短いものだった。
廊下に出ると、セバスチャンが待っていた。
「お部屋へ、お茶をお持ちいたしましょうか」
「ありがとう。でも、先に荷物をまとめなくては」
「お荷物でしたら、私もお手伝いいたします」
私は彼を見上げた。
「……北へ、一緒に来てくれるの?」
セバスチャンは、白い眉をわずかに上げた。
「そのつもりで、旅用の外套を出してまいりましたが」
「けれど、お父様にお仕えしていれば、これまで通りに暮らせるでしょう。向こうには、何があるかも分からないのよ」
「存じております。ですから、まずは確かめに参りましょう」
いつもと同じ落ち着いた声だった。
それが、ひどくありがたかった。
私は頷こうとして、うまくできず、少し俯いた。
「……ありがとう、セバスチャン」
「はい。では、温かいお茶を一杯召し上がってから、始めましょう」
部屋へ戻ると、寝台の横に置いていた剣箱を開けた。
中には、飾りの少ない一振りの剣が収められている。
柄に触れると、掌によく馴染んだ。
お祖母様の手は、私の手より少し大きく、指の付け根が硬かった。幼い頃、握り方を直してもらうたび、その硬さが頼もしく思えた。
『肩に力が入りすぎですよ、フィリア』
思い出の声に促されるように、私はゆっくり肩を下ろした。
剣と、必要な衣類と、領地に関する書類。
まずは、それを持っていこう。
*
北へ進むにつれ、馬車の窓から見える木々の色が変わっていった。
王都ではまだ秋の花が咲いていたのに、こちらでは枝先の葉が風に散り、道の端に薄く積もっている。
膝に広げた収支報告書を、私はもう一度読み直した。
報告ごとに形式が違う。備蓄量が記されていない月もあれば、修繕費がまとめて計上され、何に使ったのか分からない月もあった。
以前は、収支の不足について照会状を出し、返事を待つうちに次の教育や行事に追われていた。
その繰り返しを、私は今になって恥じていた。
「お嬢様。そろそろ到着いたします」
顔を上げると、丘の向こうに屋根が見えた。
石造りの小さな館と、その下に寄り添う家々。いくつかの煙突から煙が上がっている。
馬車が近づくと、道沿いの家の窓から人がこちらを見た。
私は思わず姿勢を正した。
館の前には、二人の男性が待っていた。
一人は体格のよい老兵。もう一人は、書類を抱えた若い人だった。
馬車が止まる。
セバスチャンに続いて外へ出ると、冷たい風が頬に触れた。思っていたよりも、ずっと冷たい。
若い人が一歩進み、丁寧に頭を下げた。
「お待ちしておりました。領内の実務をお預かりしております、ルクス・クランベールと申します」
柔らかな亜麻色の髪が、風に揺れる。
整った顔立ちには、まだ少年らしさが残っていた。けれど青い瞳は落ち着いていて、私を見つめる時にも、曖昧に笑って取り繕うことはなかった。
「フィリア・レインズワースです。これまで、留守を守ってくださってありがとう」
自分で名乗った祖母の家名が、胸の中に静かに落ちた。
ルクスはわずかに目を見開き、それから再び頭を下げた。
「詳しいご報告は、お部屋へご案内してから。長旅でお疲れでしょう」
「その前に、一つだけ教えていただけるかしら」
「はい」
私は抱えていた書類を見下ろした。
「冬の備蓄は、今、どのくらい残っていますか」
風の音が、急にはっきりと聞こえた。
ルクスの隣にいた老兵が、腕を組み直す。
「……今の人数で、配給を減らしても二か月ほどです」
ルクスは、言葉を選ぶように続けた。
「塩と豆はあります。ただ、小麦が足りません。西の街から買い付ける予定でしたが、街道に魔狼が出るようになって、運び手が集まらず……詳しい数量は、中でお見せします」
二か月。
こちらの冬が、それで終わらないことくらいは知っている。
「教えてくださって、ありがとう」
私は彼の目を見た。
「これからは、不足しているものも、困っていることも、そのまま聞かせてください。すぐに答えを出せないこともあると思いますが……一緒に考えたいのです」
ルクスはすぐには返事をしなかった。
やがて、小さく頷いた。
「承知しました、領主様」
その呼び名に、胸が引き締まる。
けれど次の瞬間、彼は私の手元へ視線を落とした。
「ただ、最初のご相談は、中で手を温めていただくことになりそうです」
「手?」
「指が、赤くなっています」
言われて初めて、書類を持つ指先がかじかんでいることに気づいた。
私は慌てて外套の中へ手を引いた。
「このくらいは平気ですわ」
「北では、平気なうちに温めるんです。痛くなってからでは、仕事もしづらくなりますから」
叱る口調ではなかった。
ただ土地の習慣を教えるように言われて、私は素直に頷けた。
「……では、最初に教わることは、それですね」
「はい。僕も、こちらへ来たばかりの方には、まずそうお伝えしています」
ほんの少しだけ、彼の表情が和らいだ。
その笑みを見て、私もようやく息をついた。
*
案内された部屋では、暖炉に小さな火が入っていた。
卓に置かれた湯気の立つ器から、甘い玉葱の匂いがする。
「厨房をお借りして、スープを用意しました。お口に合うとよいのですが」
「あなたが作ってくださったの?」
「はい。料理人は今、共同倉庫の手伝いに出ているので」
私は勧められるまま椅子に座り、匙を取った。
小さく切った根菜と、柔らかく煮えた豆が入っている。口に含むと、温かさが喉を通って胸へ広がった。
それだけで、目の奥が熱くなった。
「……おいしい」
小さな声だったのに、ルクスには聞こえたらしい。
「よかったです」
彼はほっとしたように微笑み、隣の卓へ書類を並べ始めた。
私はその手を目で追った。
袖口には、細かく繕った跡がある。指には薄い墨の染みが残り、爪の端には土が入り込んでいた。
「ルクス」
「はい、領主様」
「あなたは、お昼を召し上がりましたか」
書類を置く手が止まった。
「……後ほどいただきます」
「では、今、一緒に」
「ですが、ご報告の準備が」
「私も、食事をしながらでは書類を汚してしまいますもの。報告は、その後にいたしましょう」
向かいの椅子へ目を向ける。
彼は少し迷い、セバスチャンを見た。
「私がもう一人分、お持ちいたします」
そう言って家令が部屋を出ていくと、ルクスはようやく椅子を引いた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。温かいお食事を、ありがとう」
二人分の匙の音が、静かな部屋に重なった。
窓の外では、風に吹かれた枯れ葉が石畳を滑っていく。
この土地の冬について、私はまだ何も知らない。
目の前の青年のことも、館の外で私を見ていた人たちのことも。
だからまず、食事を終えたら話を聞こう。
何が足りないのか。どこへ行けば買えるのか。街道のどこに、魔狼が出るのか。
空になりかけた器を両手で包むと、まだ少し温かかった。
「お代わり、いかがですか」
ルクスに尋ねられ、私は顔を上げた。
少し迷ってから、器を差し出す。
「……半分だけ、お願いしてもよろしい?」
「はい」
彼が嬉しそうに立ち上がったので、私も、ほんの少し嬉しくなった。




