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第10話

大工は、廊下の先の小部屋で待っていた。


 卓には、細長い板に描いた家の見取り図が並んでいる。屋根へ印がついたものが四枚。そのうち一枚には、梁の位置まで書き込まれていた。


「明日は、こちらから取りかかります」


 大工の指が、梁のある図を叩いた。


「屋根を開けてみないと、隣の材まで傷んでいるか分かりません。二日で終わるか、三日かかるか」


「住んでいる方は、その間、どうなさるのでしょう」


「今夜から、娘夫婦のところへ移るそうです。荷物を運ぶ手も、村で出してもらえます」


 私は頷いた。


 館の雨樋を直す予定は、その後へ移されていた。


「こちらは、遅れても大丈夫なのですね」


「受け金を一つ留めれば、しばらく持ちます。そっちは弟子にやらせます」


「では、その順でお願いします。途中で材が足りなくなったら、早めに教えてください」


 大工は短く返事をし、板を重ねた。


 扉を出る時、ふと思い出したように振り向く。


「領主様。猪の出た畑の柵も、余った端材で少し直せそうです」


「まあ。ありがとうございます」


「あそこが通れないと、こっちも木を運べませんから」


 そう言って、彼は帰っていった。


 私は机の上に残った木屑を指で集めた。


 一つの仕事が進むと、ほかの仕事にも手が届くようになる。


 明日、屋根の下で眠れる人がいる。


 そのことを考えながら、私は翌日の予定へ修繕の印をつけた。


     *


 北の村から使いが来たのは、翌朝だった。


 まだ朝食の器が食卓に残っている頃で、入口から聞こえる声に、私もルクスも顔を上げた。


 やって来た男性は、息を切らしていた。


 セバスチャンが椅子と水を勧める。


 男性は杯を受け取ったものの、座る前に口を開いた。


「水が、止まりまして」


「村の井戸ですか?」


 ルクスが尋ねた。


「いえ。山から引いている方です。昨日の夕方までは出てたんですが、夜から細くなって、今朝はほとんど」


 私は椅子を引いた。


「村には、ほかに水を汲める場所がありますか」


「古井戸があります。ただ、量が少ない。飲む分は何とかなっても、家畜までは……」


「まず、お掛けになって。いつも水路を見ている方はいらっしゃいますか」


「石工の親父が。今朝、途中まで上がったんですが、石が落ちていて、戻ってきました」


 ルクスが地図を取りに行く。


 私は男性が水を飲むのを待ち、順に話を聞いた。


 水を引いているのは、山裾の泉。


 泉から石の樋を通し、村の水溜めへ落としている。冬には樋が凍ることもあるが、今年はまだそこまで冷え込んでいない。


「昨日、地面が少し揺れたそうです」


 男性が付け加えた。


「棚の椀が鳴るくらいで。崖が崩れたんじゃないかって」


 戻ってきたルクスが、地図を広げる。


「ここです。川までは歩くと遠いですね」


 村と川の間には、畑と緩い丘があった。


 水を一度運ぶだけならよい。


 けれど、それを毎日、何往復も続けるのは難しい。


「水を運ぶ車を手配できますか。空樽で、飲み水に使えるものを」


「倉庫番さんに確認します。馬は、昨日戻った二頭を休ませたいので、別の持ち主へ相談します」


「お願いします。量が限られるなら、まず飲む分を。家畜の水は、村の方と分けて考えましょう」


 私は地図の泉へ指を置いた。


「グランを呼んでください。現地を確かめたいです」


     *


 北の村へ出発するまでに、一刻ほどかかった。


 水を運ぶ車の手配を終え、ルクスも外套を着て入口へ現れた。


「あなたも?」


「はい。水溜めの大きさと、何軒で使っているのかを確認してきます。運ぶ量を決めるのに、僕も見ておいた方がよさそうなので」


 腰には、護身用の短剣があった。


 剣を下げた私の姿ばかり見ていたせいか、少し新鮮に感じた。


 ルクスは私の視線に気づき、柄へ軽く手を触れた。


「使わずに戻れれば、いちばんよいのですが」


「ええ。そのために、皆で参りましょう」


 同行するのはグランと、槍を持った警備の男性が二人。


 村では石工が待っている。


 私は門を出る前に、ルクスへ向き直った。


「お茶は、戻ってからでもよろしい?」


 彼は一度瞬き、それから少し笑った。


「覚えていてくださったんですね」


「約束しましたもの」


「はい。では、戻ってから」


 グランが前で咳払いをした。


「日暮れまでには、戻る予定でございます」


 私は慌てて前を向いた。


「ええ。もちろんです」


 隣で、ルクスが静かに口元を押さえていた。


     *


 村へ着いた時、水車ならぬ二つの大きな樽が、共同の水溜めの横に並べられていた。


 持ち寄ったらしい桶の形も、大きさも違う。


 水溜めの底には、泥が薄く溜まっている。流れ込む樋の口から、時々、水滴が落ちていた。


 ルクスは村長と話し始めた。


 私はグランとともに、石工へ道の様子を尋ねる。


「泉の少し手前です。落ちた石が樋へ当たっていました。大きいのは、わし一人じゃ動かせません」


 石工は灰色の髭を撫でた。


「ただ、樋が割れただけなら、ここまで水が減るのは妙なんです。下の沢へ流れている様子もなくて」


「泉そのものを、確かめる必要があるのですね」


「ええ」


 彼は道具袋を持ち上げようとした。


 重そうだったので手を貸すと、首を振られる。


「これは孫に持たせます。領主様は、足元を見て歩いてください。滑るところがありますから」


 呼ばれて出てきた若者が、袋を背負った。


 私は素直に手を引いた。


「では、道を教えてください」


 しばらくして、ルクスもこちらへ戻ってきた。


「家畜を分けて川へ連れていけるそうです。飲み水の方は、届いた分を村長さんに管理していただきます」


「ありがとう。泉まで上がりますけれど、あなたは村で――」


「樋に貯められる分も見ておきたいです。途中まで、ご一緒してもよろしいですか」


 私はグランを見た。


「今朝、人が通ったところまでは問題ないでしょう。ただ、その先は様子を見てからです」


 ルクスも頷く。


 私たちは石工の案内で、山道へ入った。


     *


 道は狭かった。


 一列に並び、崖側へ寄りすぎないように進む。


 石の樋は道に沿って続いていた。ところどころ木の蓋が被せられ、落ち葉が入らないようになっている。


 そのうちの一つを石工が持ち上げた。


 底は濡れている。


 けれど、水の流れる音はしない。


「ここまでは、割れていませんな」


 彼の孫が頷き、蓋を戻した。


 私は斜面の上を見た。


 木々の根元に、小さな石が散っている。土の色が新しく、落ち葉を押しのけた跡もあった。


 グランが手を上げる。


「少し、間を空けてください」


 前方には、道を半分ほど塞ぐ岩があった。


 樋の一部が、その下で潰れている。


 石工が息を吐いた。


「これです」


 私は岩の上を見た。


 斜面には、それが転がった跡が長く残っていた。


 まだ頭上に不安定な石がないか、グランと警備の男性が確かめる。私たちは少し離れた場所で待った。


「動かせそうでしょうか」


 尋ねると、石工は首を傾けた。


「道具と人手があれば。ただ、先に水が来ない理由を見た方がいい。直した後で、上を壊すことになっても困ります」


「そうですね」


 足を進めかけた時、ルクスが私の袖を引いた。


 昨日、私がしたのと同じくらいの、ごく軽い力だった。


「そこ、石が浮いています」


 見下ろすと、落ち葉に半分隠れた平石がある。


 靴先で触れると、ぐらりと動いた。


「……ありがとう」


 私は足を置き直した。


 ルクスはすぐに手を離し、後ろへ道を譲る。


 その仕草が丁寧で、こんな場所なのに、少し胸が落ち着かなくなった。


     *


 泉は、岩壁の下にあった。


 本来なら澄んだ水を湛えているはずの窪みは、半分ほどが新しい土砂に覆われていた。


 樋へ水を送る取水口も埋まっている。


 石工が腰を下ろした。


「……これは、下だけ直しても駄目ですな」


 少し離れた位置から、泉の縁を見ていく。


 水は、完全になくなってはいなかった。


 崩れた土の間から染み出し、取水口とは逆側の低い方へ流れている。


「あちらを通っていますね」


 ルクスが示した先に、小さな筋があった。


 苔を削りながら、斜面の下へ消えている。


「流れを戻せば、村へ送れますか」


 石工はしばらく地形を見ていた。


「元通りにするのは、崖の上を確かめてからです。ですが……手前で水を受けて、木の樋へ流すくらいなら」


「仮の水路ですね」


「ええ。冬前ですから、凍らないように覆いも要りますが」


 私は安堵しかけた。


 その時、グランが私の前へ腕を出した。


「お待ちを」


 彼が見ていたのは、泉の向こうの岩だった。


 苔の上に、白い筋が三本走っている。


 石が落ちた傷だろうか。


 そう思って目を凝らすと、筋は同じ間隔で、深く岩へ食い込んでいた。


「……爪ですか」


 私の問いに、グランはすぐには答えなかった。


 警備の男性へ目配せをし、全員を手招く。


「今日は、ここまでにしましょう。道と泉の様子は分かりました」


「ですが、水路を作る場所を――」


 石工が言いかけた時だった。


 靴の裏へ、微かな震えが伝わった。


 水面に、小さな輪がいくつも浮かぶ。


 頭上で、砂がさらさらと落ちた。


「下がれ!」


 グランの声が響く。


 私はルクスの肩へ手を添え、岩壁から離した。


 次の瞬間、泉の奥から、低い音が聞こえた。


 岩が擦れ合うような。


 けれど、途切れた後に、長く息を吐くような響きが残った。


 剣の柄へ手が伸びる。


 私は、その場で止めた。


 何がいるのか分からない。


 こちらには、石工と、その孫がいる。


「戻ります。先ほどの広いところまで」


 声に出すと、ルクスが頷いた。


 誰も走らず、けれど足を止めずに下がった。


 私は最後尾のグランと距離が開かないよう、時々振り返った。


 岩の間に、姿は見えない。


 ただ、水面の震えは、まだ続いていた。


     *


 落石のある場所を越えてから、ようやく足を止めた。


 石工の孫が、道具袋を下ろす。


 呼吸は荒かったが、怪我はなかった。


「グラン」


 私が呼ぶと、彼は斜面の上を見たまま答えた。


「岩を掘る魔物は、何種類かおります。ただ、あの傷の幅は……」


 そこで言葉を切る。


「今の情報だけでは、決められません」


「では、泉の修繕は待った方がよいですね」


「ええ。人を上げるべきではありません」


 私は泉へ続く道を見た。


 水を戻すために、来た。


 けれど今、分かっていないもののそばへ、人を送り込むわけにはいかなかった。


「村へ戻りましょう。水の運搬は、数日続けられるように手配します。その間に、調べる方法を考えたいです」


 石工がゆっくり頷いた。


 ルクスは鞄から紙を出しかけ、手を止める。


「書くのは、村へ下りてからにします」


「ええ」


 私は彼の足元を確かめてから、歩き出した。


     *


 村では、届いた水樽を囲んで人々が働いていた。


 桶へ移す人、家へ運ぶ人、井戸の水量を確かめる人。


 泉を直せなかったことを伝えるのは、気が重かった。


 村長は私の話を聞き終えると、山の方を見た。


「では、あちらへは誰も入らせません。子どもにも、よく言っておきます」


「お願いします。水を運ぶ費用と、明日からの順番はこちらで――」


「車を出せる家なら、二軒あります。全部を館から運ばせるより、川からここまで分けてやった方が早いでしょう」


 ルクスが顔を上げた。


「その二軒の方と、お話しできますか。車だけでなく、運ぶ人も交代できれば」


「呼んできましょう」


 村長が出ていく。


 私は卓へ地図を広げた。


 川への道を、ルクスと一緒に指で辿る。


 今日のうちに水を戻すことはできなかった。


 それでも明日、村が水なしで朝を迎えないようにする仕事は、ここにあった。


     *


 館へ戻った頃には、廊下の灯りがともされていた。


 グランは泉で見た傷を古い討伐記録と照らし合わせると言い、セバスチャンに書庫の鍵を借りた。


 私は執務室で、水樽の数と運搬の予定をもう一度確かめた。


 ルクスが最後の書類を重ねる。


「明日の朝の分は、これで動かせます」


「ありがとう」


 返事をして、椅子へ背を預ける。


 泉の奥で聞いた音が、まだ耳に残っていた。


 その時、ルクスが私の方を見た。


「……お茶は、どうなさいますか」


 私は時計を見た。


 約束した時刻は、とうに過ぎている。


 けれど、彼は忘れていなかった。


「飲みたいです。あなたと」


 口にしてから、少しだけ頬が熱くなった。


 ルクスは視線を落とし、頷く。


「では、お湯をいただいてきます」


「私も参ります。淹れるのは、私のお約束でしょう?」


 二人で厨房へ向かった。


 昨日と同じ木箱を開け、匙で茶葉を量る。


 一杯と、半分。


 今度は、こぼさずに入れられた。


 部屋へ戻り、杯へ注ぐ時、指先が僅かに震えた。


 ルクスが茶器の受け皿を支えてくれる。


「泉のことを、考えていらっしゃいますか」


「……ええ」


 私は茶器を置いた。


「明日、何をすればよいのか。何をしてはいけないのか、まだ分からなくて」


「グランさんも、記録を調べてくださっています」


「そうね」


「今夜、全部分からなくても、明日の水は届きます」


 私は彼を見た。


 ルクスは自分の杯を両手で包み、静かに続けた。


「僕たちが今日、決めた通りに」


 同じ予定を、何度も確かめた。


 それは無駄ではなかったのだと、彼の言葉でようやく思えた。


 私はお茶へ口をつけた。


 昨日より、温かい。


「……おいしく淹れられた気がします」


「はい。僕も、そう思います」


 ルクスが微笑む。


 私はその顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 廊下の向こうで、書庫の扉が閉まる音がした。


 グランの足音が、こちらへ近づいてくる。


 私は杯を卓へ置いた。


 今度は、指先は震えなかった。

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