第11話
扉を叩く音に返事をすると、グランが古い革表紙の本を抱えて入ってきた。
細長い紙が、何枚も頁の間から覗いている。
「お邪魔いたします」
「何か、分かりましたか」
「似た記録がございます」
グランは空いている場所へ本を置き、慎重に開いた。
紙は黄ばみ、端が柔らかく擦り切れている。
描かれていたのは、翼のない竜だった。
短く太い四肢。重なった鱗。岩のような突起が並ぶ背。
前脚の先には、大きな爪が三本描かれていた。
「地竜です」
部屋が静かになった。
私は絵と、その横に記された文字を見比べた。
「泉にいたものが、これだと?」
「まだ断定はできません。ただ、岩を掘った傷と、地面へ伝わる振動。どちらも、この記録にある特徴と合います」
ルクスが灯りを近づける。
グランの指が、本文の一行をなぞった。
「冬前に岩穴へ入り、巣を広げることがあるそうです。泉の奥に古い穴があれば、そこへ入った可能性がある」
「穴を掘ったために、崖が崩れたのですね」
「そう考えれば、つじつまは合いますな」
私は地図を引き寄せた。
泉と村を結ぶ水路の線。
その周囲には、薪を集める林と、家畜を放す斜面が描かれている。
「村まで下りてくることは、ありますか」
「ございます」
グランは言葉を濁さなかった。
「人を食うためとは限りません。水場や餌場へ向かう道に家があれば、そのまま通ることもある」
私は村で見た、桶を抱える人たちを思い出した。
あの道を、この絵の体が通ったら。
「援軍を求めましょう」
口にすると、ルクスがすぐに紙を取った。
「近隣の領主と、王国の討伐を担当する役所へ。確認できたことと、まだ分からないことを分けて書きます」
「お願いします。地竜と決めつけず、その可能性があると」
グランが頷いた。
私はもう一度、本へ目を落とした。
討伐の記録には、人数も、装備も、犠牲者の数もあった。
剣一本でどうにかできる相手ではない。
そう思う一方で、描かれた前脚の関節から、目が離せなかった。
鱗の向きが変わるところ。
体を支えるために、動かさなければならない場所。
祖母と剣を交えた時、私はいつも、そこを見るように教わっていた。
「領主様」
呼ばれ、顔を上げる。
グランが私を見ていた。
「今夜、山へ上がられるおつもりではありませんな」
「ええ。私も、暗い中で竜を探したくはありません」
答えると、彼は深く息を吐いた。
「その点は、アイリス様より安心できます」
隣でルクスが、書きかけの紙から顔を上げた。
私は少し迷ったが、今夜は祖母の話を聞くのを諦めた。
「まず、村の方が逃げる道を確かめたいです。こちらも、今日の手配に加えてください」
*
その夜のうちに、早馬を二方向へ出した。
セバスチャンは近くの村で泊まれる家を調べ、ルクスは北の村の人数と、歩くのが難しい人の数をまとめた。
私はグランと、見張りを置く場所を決める。
泉へ近づく道は塞ぐ。ただし、見張りは岩壁の下へ置かない。
地面が揺れた時、木が倒れた時、見慣れない足跡を見つけた時。
どの段階で知らせを出すかも、一つずつ決めた。
最後の書類へ印を押すと、ルクスがそれを受け取った。
「北の村へは、明朝、僕から説明に行きます」
「私も参ります」
「はい。ただ、別々の家を回った方が早そうです。僕は村長さんと、水と荷車の相談を」
「では私は、避難先へ移る方のお話を聞きます」
決めてから、二人とも黙った。
机の上には、まだ地竜の本が開かれている。
「……怖いですか」
ルクスが尋ねた。
私は少し考え、頷いた。
「ええ。今日、あのまま泉を掘り返していたらと思うと」
「戻ってきてくださって、よかったです」
彼はそう言って、本を閉じた。
隠すような手つきではなかった。
明日また開けるよう、紙を挟み、端へ置く。
「ルクスも、あそこにいましたものね」
「はい」
「あなたが足元を教えてくれなければ、私は転んでいたかもしれません」
彼の手が止まった。
「それは、見えたので」
「ありがとう。まだ、きちんとお礼を言えていませんでした」
私は彼の目を見た。
ルクスは一度視線を下げ、それから小さく頷いた。
「……明日も、見えるところは見ています」
「私もです」
そう答えると、彼の口元が少し緩んだ。
*
翌朝、北の村では、すでに家畜を移す支度が始まっていた。
村長が私たちの話を聞く前に、山へ上がらなくて済むよう、放牧の場所を変えてくれていたのだ。
「昨日、言われましたから。あちらへ近づかせないようにと」
村長はそう言い、山の方を見た。
「そんな大きなものが、いるかもしれないんですか」
「はい。今日は、遠くから姿を確かめます。村の皆さんには、泉の道へ入らないでいただきたいのです」
私の隣で、猟師が頷いた。
彼は今朝早く、山の反対側から戻ってきていた。
「上の尾根から、岩壁の前が見える。昔、鹿を探す時に使った場所です。近くへ下りなくても、様子は見られます」
グランが道の位置を確かめる。
泉へ続く狭い道とは別に、山の肩へ出る古道があるらしい。
向かうのは、私とグラン、猟師、警備の二人。
ルクスは村へ残り、避難の準備を続ける。
私は、近くの村へ先に移る老婦人の荷物を荷車へ載せてから、彼のところへ行った。
「行ってきます」
「はい」
ルクスは私の剣ではなく、靴と外套の裾を見た。
「昨日のような道なら、足元にも気をつけて」
「ええ。今日は、止まってから帳面を開きます」
「そこは、ずっとお願いします」
少し真面目に言われ、私は笑った。
彼も笑いかけたが、すぐに表情を戻す。
「フィリア様」
声が低くなる。
周りには人がいたけれど、その呼び方を間違いだとは思わなかった。
「戻ったら、村で分かったことを聞かせてください」
私が言うと、ルクスは頷いた。
「お待ちしています」
*
古道は、長く使われていないようだった。
枝をよけ、積もった葉の下の地面を探りながら進む。
猟師が先に立ち、私たちは間隔を空けて続いた。
やがて木々が途切れ、岩の多い尾根へ出る。
「ここからは、低く」
猟師がしゃがんだ。
私も膝をつき、岩の陰から覗く。
昨日の泉が、眼下に見えた。
崩れた土砂。途切れた樋。水の染み出す低い窪み。
その奥の岩壁に、黒い裂け目がある。
昨日は、あれをただの岩陰だと思っていた。
裂け目の縁に、何かが引っかかっていた。
濃い灰色。
丸い石に似ているが、表面に細かな筋がある。
私は息を詰めた。
それが、動いた。
岩陰から、太い脚が現れる。
三本の爪が地面へ食い込み、土を掻いた。
続いて、低い頭。
鼻先が泉へ向き、重い体が少しずつ外へ出てくる。
本の挿絵よりも、ずっと大きかった。
背の突起には土が詰まり、肩の鱗は岩と擦れて白くなっている。
長い尾が穴の中から滑り出すと、地竜は腹を沈め、泉の水へ口をつけた。
誰も声を出さなかった。
私は、息を吐く音まで小さくしようとしていた。
地竜が頭を上げる。
喉が動き、低い音が響いた。
昨日聞いたものと、同じ音だった。
グランの指が、私の袖へ触れた。
私は頷いた。
見えた。
これ以上、近づく必要はない。
ゆっくりと体を引き、岩の陰へ戻ろうとした時だった。
尾根の下から、鋭い鳥の声が上がった。
地竜の頭が動く。
太い前脚が持ち上がり、泉の縁へ置かれた。
岩が割れる音がした。
その衝撃で、私たちの足元の小石が転がった。
「下がれ」
グランの低い声。
私は膝を浮かせ、後ろへ重心を移した。
しかし、警備の一人が手をついた石が、縁から外れた。
鈍い音を立て、斜面を落ちていく。
地竜が、こちらを見た。
黄色い目が、岩の上の私たちを捉える。
「道へ。間を空けろ!」
グランが声を上げた。
私たちは一斉に身を起こした。
尾根から古道へ戻る。
背後で、木が折れる音がした。
私は振り向いた。
地竜が、斜面へ前脚を掛けていた。
登れるのだ。
あの重い体で、岩へ爪を食い込ませながら。
「走り続けるな。足を取られる!」
グランが叫ぶ。
猟師が先頭で道を選ぶ。警備の二人が続く。
私は最後尾のグランへ、距離を合わせた。
また、地面が揺れた。
左の斜面から石が落ちる。
私はグランの腕を引き、木の幹の陰へ入った。
頭ほどもある石が、すぐそばを跳ねて通り過ぎた。
「お怪我は」
「ありません。前へ!」
私は頷いた。
息が熱い。
喉の奥が乾く。
けれど、道を間違えてはいけない。
前を行く猟師が、急に立ち止まった。
その先には、折れた木が横たわっていた。
行きには、なかったものだった。
「回れるか!」
「上側は崩れる。下なら――」
猟師が斜面を見下ろす。
人一人が通れる隙間はある。
ただし、枝を潜り、体を横へ向けなければならない。
背後で、爪が石を掻いた。
私は剣を抜いた。
「先に通ってください」
グランがこちらを見る。
「領主様」
「私も、すぐに続きます。木を越えて来るところだけ、止めます」
彼の目が、私の立つ位置を確かめた。
太い幹のこちら側。
両足を置ける、硬い地面。
地竜を追うための場所ではない。
皆が通り抜ける数息を作るための場所だった。
「わしは、こちらにおります」
グランが木の端へ立つ。
私は頷いた。
地竜の頭が、枝の向こうに見えた。
鼻先が幹を押す。
木が、軋んだ。
前脚が持ち上がる。
私は爪を見なかった。
鱗の重なり、その向きが変わるところを見る。
お祖母様と稽古をした、冷たい朝。
何度も打ち落とされた剣。
『相手の硬いところと、張り合う必要はありません』
地竜の脚が、幹へ乗った。
重みがかかる直前。
私は踏み込み、脚の内側へ刃を走らせた。
鈍い手応えがあった。
剣先が抜ける。
直後、地竜が吠えた。
耳の奥が震え、胸へ重い音がぶつかる。
私は身を引いた。
前脚が幹から滑り落ちる。
「今です!」
グランの声に、私は剣を引きつけたまま木の端へ走った。
枝の下へ体を滑らせる。
背後で、幹が大きく動いた。
グランが私の外套を引き、立たせてくれる。
「行きますぞ!」
「はい!」
猟師の声を追って、道を下った。
*
地竜が追ってこなくなったのは、山の肩を回り込んでからだった。
それでも私たちは足を止めず、見張りを置いた場所まで戻った。
人の声が聞こえる。
その声に、ようやく剣を持つ手から力が抜けた。
グランが全員を確かめる。
転んだ時に掌を擦った者はいたが、大きな怪我はなかった。
私は木へ背を預け、呼吸を整えた。
「……地竜で、間違いありませんね」
「ええ」
グランはそう答え、私の剣へ目を落とした。
刃には、暗い色の血が薄く残っている。
「前脚は、動いていましたか」
「少なくとも、木を押す時には使っておりませんでした」
「深さが、分かりません。倒せるような傷ではありませんでした」
私は刃を見つめた。
斬れる。
けれど、届かせるためには近づかなければならない。
あの頭と、尾と、もう片方の脚が動く中で。
「……皆を集めて、すぐ討伐に向かうことはできません」
声に出した。
グランが頷いた。
「今日、それが分かったことも報告せねばなりませんな」
「はい。それから、村の準備を早めましょう。怪我をさせた以上、動きが変わるかもしれません」
私は木から背を離した。
膝はまだ重かった。
けれど、村へ戻って伝えなければならない。
グランが、私の前へ水筒を差し出した。
「その前に、一口」
私は受け取り、少しずつ飲んだ。
飲み終えるまで、彼は急かさなかった。
*
村の入口へ戻ると、ルクスが走ってきた。
すぐに速度を落とし、私たちの前で止まる。
「見張りから、戻られると聞いて」
「ええ。地竜を確認しました。追われましたが、全員戻っています」
私は先に伝えた。
ルクスの視線が、皆の顔を確かめる。
その後で、私へ戻った。
「お話は、座ってから。村長さんも呼びます」
彼が道を空ける。
私は歩き出しかけ、少しだけ立ち止まった。
「ルクス」
「はい」
「戻りました」
報告とは別に、言っておきたかった。
彼は私の顔を見た。
それから、いつもよりゆっくり頷いた。
「……お帰りなさい、フィリア様」
私はその声を聞いて、ようやく大きく息を吐いた。
ルクスが手を差し出す。
私は一度、その手を見下ろした。
そして今度は、迷わず借りた。
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