第12話
ルクスの手は、思っていたより冷たかった。
山から戻る私たちを、外で待っていてくれたのだろう。
私は歩幅を落とし、彼の隣を歩いた。
「あなたも、手が冷えていますね」
「少し風が出てきたので」
「中へ入ったら、温めましょう。二人とも」
ルクスは私を見て、それから頷いた。
村長の家までの短い道を、そのまま手を借りて歩く。
戸口に着いて、ようやく離した時、掌に残った温かさを確かめるように、私はそっと指を曲げた。
*
地竜を見たことを伝えると、村長は膝の上で両手を握り合わせた。
「本当に、いたんですか」
「はい。泉の奥の穴にいます。今は山の中へ戻ったようですが、村へ来ないとは言い切れません」
私は地図を広げた。
グランが、姿を確認した場所と、追われた道を示す。
「見張りは下げます。山道へ残しておいても、あの体を止めることはできません」
「村の鐘を鳴らす者だけ、こちらへ置きましょう」
ルクスが村の入口を指した。
「山裾が見えて、南の道へすぐ出られるところです。交代の人も、先に決めておきます」
村長が頷く。
私は彼の顔を見た。
「今日のうちに、皆さんに村を出ていただきたいです」
炉の薪が、かすかに鳴った。
「家を、空けるんですか」
「ええ。近くの村と、館で受け入れます。家畜も、動かせるものは一緒に」
「ですが、畑も、家も……」
「はい」
私は地図から手を離した。
「離れたくないことは、分かります。けれど、昨日のうちに少しずつ移り始めてくださったから、今なら、日が暮れる前に残りの方も動けます」
村長は口を閉じた。
すぐに納得してもらえるとは思わなかった。
私が昨日ここで眠ったわけではない。
この家の柱を立てたのも、畑へ種を播いたのも、私ではなかった。
「戻れる日を、今、約束することはできません」
言葉を選びながら続ける。
「ただ、家を空けていただいている間の食事と寝場所は、領主の責任で用意します。村を守るために何をしているかも、知らせを届けます」
ルクスが受け入れ先の紙を差し出した。
家ごとの人数と、移動先。
まだ決まっていない欄もある。
村長はそれを長く見つめた後、立ち上がった。
「……私から、皆を集めます」
*
鐘の音を聞いて集まった人々の顔には、不安が浮かんでいた。
私は村長と並んで立ち、同じ説明を繰り返した。
地竜の姿を確かめたこと。
すでに援軍を求めていること。
その間、村を離れてほしいこと。
話し終えると、後ろにいた男性が声を上げた。
「竜に、火をつけられるんですか。家を燃やされるなら、水を残して――」
「火を吐く姿は見ていません」
グランが答えた。
「ただ、家の壁や柵で防げる大きさではない。物を取りに戻る時も、一人では来ないように」
「冬の干し草を、全部運ぶのは無理だ」
「うちの母は、荷車でも道の揺れに耐えられるか……」
声が重なった。
私は一つずつ聞き、ルクスと村長へ相談していった。
干し草は、家畜を移す先へ必要な分を先に。
体の弱い老婦人には、袋に藁を詰めたものを敷き、道の平らな方を回る。
その相談の途中で、一人の老人が、固く結んだ麻袋を抱えて来た。
「これは、持っていってもよいでしょうか」
「もちろんです。何が入っていますか」
「春に播く種です」
私は袋を見た。
老人の手は、その口を強く握っていた。
「食べる分とは、別にしてあるんです。間違われないようにと思って」
「印をつけましょう」
私はルクスへ顔を向けた。
彼はすでに、荷札にする木片を取り出していた。
「家のお名前と、種用と書きます。預け先でも、別の場所へ置いてもらいますね」
老人の指が、少し緩んだ。
私は袋の下へ手を添え、荷車まで一緒に運んだ。
これを置いて逃げてほしいとは、言えなかった。
ここへ戻り、また種を播くために持っていくものだった。
*
最後の家を回り終える頃には、空が薄い灰色に変わっていた。
戸を閉めた女性が、鍵を掌へ収める。
隣では子どもが、布に包んだ器を胸へ抱えていた。
「重くない?」
私が屈んで尋ねると、子どもは首を振った。
「自分で持つ」
「そう。では、落とさないように、ゆっくりね」
母親に手を引かれ、南の道へ歩いていく。
私は戸口を振り返り、窓が閉まっていることを確かめた。
見張り役の男性が、村長へ合図をする。
残っていた家からも、人が出た。
誰もいない通りを、風が抜けた。
さっきまで桶の音や家畜の声がしていた場所が、急に広く見える。
「領主様。こちらも出ましょう」
グランに促され、私は頷いた。
その時、家の脇で、ルクスが紙を見つめているのに気づいた。
「ルクス?」
彼は顔を上げたが、すぐに紙へ視線を戻した。
「家畜の数が、合わなくて」
「何頭ですか」
「羊が一頭です。朝の控えでは十二、出発を確認したのが十一で……」
指が、何度も同じ行を辿っていた。
私は隣へ立ち、控えを覗き込んだ。
「朝、別に出した組には?」
「そちらには、入れていません。いないはずです」
「では、持ち主の方を呼びましょう」
私が声をかけると、近くの男性が振り向いた。
事情を聞き、すぐに眉を上げる。
「ああ、あの一頭は、昨日のうちに弟の家へやりました。脚を痛めていたので」
ルクスが顔を上げた。
「昨日?」
「すまない。今朝、訊かれた時は、うちで飼ってる数を答えたんだ」
ルクスはしばらく黙り、それから息を吐いた。
「分かりました。確認できてよかったです」
紙へ小さく書き込む。
男性が出発の列へ戻った後も、彼はしばらくその場を動かなかった。
私は、紙を持つ彼の手へそっと触れた。
「残っていなくて、よかったですね」
「……はい」
「一緒に、最後の人数を確かめましょう」
ルクスは目を伏せた。
「すみません。少し、考えが回らなくなっていました」
「私も、一人で数えていたら、同じところを何度も見ていたと思います」
彼から控えの片側を借りる。
「私が名前を読みます。顔を見て、教えてくださる?」
「はい」
二人で列の端へ向かった。
名前を呼ぶと、手が上がる。
その隣で、ルクスが印をつける。
最後の一人まで確かめてから、ようやく私たちも村を離れた。
*
館へ戻ると、入口から暖かな空気と、煮炊きの匂いが流れてきた。
セバスチャンが、使っていなかった部屋を二つ開けてくれていた。
親類の家へ行く人たちを見送り、ここへ泊まる家族を案内する。
寝具は足りなかったが、村から持ってきた毛布と、館の厚い敷布を合わせれば、今夜は何とかなる。
「続きは、私どもで」
最後の家族を部屋へ入れたところで、セバスチャンが言った。
「お二人とも、何か召し上がってくださいませ」
ルクスが頷きながら、廊下の窓へ目を向ける。
外は、もう暗かった。
私はその視線を追った。
「見張りの方も、決めた通りに交代します」
「はい」
「知らせが来たら、グランが受けてくださいます」
「……そうですね」
彼はようやく、窓から目を離した。
*
食堂の端には、二人分の椀が置かれていた。
私は向かいへ座り、ルクスが匙を取るのを待った。
温かい粥の上に、刻んだ葉野菜が散っている。
一口食べてから、彼は小さく息をついた。
「おいしいですね」
「ええ」
しばらくは、食器の音だけが続いた。
私も疲れていた。
けれど、向かいの彼が時々まぶたを閉じるのを見ていると、先に部屋へ戻る気にはなれなかった。
「ルクス。今夜の書き写しは、明日にしましょう」
「でも、今日移った方の控えだけは」
「その紙のままでも、読めます。私も読みました」
彼は口を開きかけ、それから閉じた。
「……はい」
私は椀を置いた。
「先ほど、羊を確かめてくださって、ありがとう」
「結局、初めからいなかった一頭でした」
「確かめるまで、分かりませんでしたもの」
ルクスの視線が上がる。
「あなたが名前を覚えていてくださったから、人の数も、早く確かめられました」
彼は返事をしなかった。
ただ、少しだけ、肩が下がった。
私は残りの粥へ匙を入れた。
「今度は、私が覚えますね。誰が、どの家の方なのか」
「……一度では、難しいと思います」
「ええ。何度でも教えてくださいませ」
ルクスが、ようやく小さく笑った。
*
近隣の領主から最初の返事が届いたのは、翌朝だった。
駆けつけたのは、灰色の外套を着た女性と、騎乗した二人の兵士だった。
女性は馬を降り、私へ一礼する。
「隣領より参りました、カレンと申します。主からの書状をお持ちしました」
差し出された封書には、援軍を編成中であることが記されていた。
本隊の到着までは、早くても二日。
先に送られたカレンは、地竜の討伐へ加わった経験があるという。
「助かります。詳しいことを、中で」
私が案内しようとすると、彼女は一度、館の入口へ目を向けた。
毛布を抱えた子どもが、母親と一緒に廊下を横切っていた。
「避難は?」
「北の村は、昨日のうちに。見張り以外は出ています」
カレンは頷いた。
「では、現地へ急ぐ前に、まず見たことを聞かせてください」
*
グランが地図を広げ、地竜を見た場所を示す。
私は体の大きさと、斜面を登ってきた動き、折れた木の前で前脚を斬ったことを話した。
カレンは途中で、何度か質問を挟んだ。
「斬ったのは、右の前脚ですか」
「地竜から見て、右です」
「その後、脚を引きずるところは?」
「確認できませんでした。こちらも退いていましたから」
彼女は頷き、紙へ書き込んだ。
私の説明が終わると、少し考えてから尋ねる。
「使われた剣を、拝見できますか」
「ええ」
私は鞘ごと外し、卓へ置いた。
カレンは許しを得て抜き、刃を明かりへ向けた。
昨日、手入れの時に見つけた、小さな刃こぼれがある。
「鱗を割ったのではなく、内側へ入れたのですね」
「はい。脚を上げた時だけ、届きそうなところが見えたので」
彼女の目が、私へ戻った。
「……あの高さで、動いている脚に」
短く呟き、グランを見る。
彼は頷いた。
「わしも、その場におりました」
カレンは剣を鞘へ戻した。
「詳しく、動きを教えてください。負傷している場所が分かれば、こちらも考えられます」
私は立ち上がり、剣を抜かずに構えた。
足を置いた位置。
倒木の高さ。
爪が掛かり、体重が乗るまでの間。
思い出すほど、昨日の咆哮が耳の奥へ戻ってくる。
それでも、今は逃げながらではない。
私はゆっくりと動きを繰り返した。
カレンは最後まで見てから、口を開いた。
「私たちが使っていたのは、重い弩です。人が正面で受け止めることは考えていません」
彼女の指が地図へ戻る。
「本隊も、二基運んできます。ただ、泉の前では射つ場所を取れそうにありませんね」
「岩壁と、崩れた斜面に挟まれています」
グランが答えた。
「では、あそこへ攻め込むのは避けたい」
私は地図の下側を見た。
泉へ上がる道から少し外れたところに、四角い窪みの印がある。
「こちらは、何ですか」
「古い石切り場です」
グランが答える。
「今は使っておりません。村の石工なら、道も地形も知っているはずです」
カレンが、その印へ指を置いた。
「ここを、見せていただけますか」
*
石切り場は、村へ続く道より西にあった。
山裾を削って作られた広い窪地で、切り出したままの石が何列か残っている。
私たちは泉側へ近づかず、村から回り込む道を使った。
石工は足元を確かめながら、使われなくなった理由を話してくれた。
「奥の石に割れが多くてね。運び出す手間に合わなくなったんです。崖をこれ以上削らなければ、足場はしっかりしています」
カレンは岩の上へ立ち、周囲を見渡した。
グランがその隣へ上がる。
「奥に人を置けば、逃げ道がありませんな」
「ええ。ですから、置くならこちらです」
二人が場所を変えながら話す。
私は下に残り、地竜の体を思い描いた。
重い前脚。
地面を払う尾。
弩の矢が届いても、それだけで止まるとは限らない。
「外れた時は、どちらへ退くのでしょう」
私が尋ねると、カレンが振り返った。
石工が、窪地の南側を指す。
「人なら、あの石の間を抜けられます。車は通れませんが、向こうに道がある」
私は近くまで行き、隙間を見た。
昨日の倒木の下より広い。
けれど、怪我人を抱えれば通りにくい場所もある。
「この辺りの欠片を、先に片づけていただけますか。運ばれる方がいたら、足を取られそうです」
「それなら、できます」
石工が頷いた。
カレンは岩から下り、私の隣へ来た。
「女伯爵様。まだ、ここで戦うと決めたわけではありません」
「はい」
「ただ、本隊へ伝えられる候補はできました。泉へ入るしかないと思って来ましたから、それよりは、ずっとよい」
私は石切り場を振り返った。
何もない場所ではなかった。
ここを知る人がいて、重い石を運んだ道があり、今も使える足場が残っている。
「地竜が、ここへ来るかどうかも分かりませんね」
「ええ。それを確かめるところからです」
カレンは頷いた。
「今いる人数で、討ち取れると言うつもりはありません。でも、援軍が着いた時、すぐ動ける支度はできます」
私は鞘へ手を添えた。
昨日、あの巨体を前にして、何もできないと思った。
斬ることはできても、倒すための道筋が見えなかった。
今も、まだ見えてはいない。
けれど、私のほかにも、その道筋を探している人がいる。
「私にできることを、教えてください」
そう頼むと、カレンは私の剣へ一度だけ目を向けた。
「まず、昨日のお話を、本隊の者にも。その剣がどこまで届いたか、正確に知ってもらいます」
「分かりました」
「それから、今夜は眠っておいてください。昨日、追われた後でしょう」
私は少し困って、グランを見た。
彼は助けてくれなかった。
「わしからも、お願いいたします」
二人分の視線に、私は頷いた。
「……はい。ルクスにも、そう伝えておきます」
「ルクス?」
カレンが尋ねる。
「補佐官です。きっと、私と同じくらい眠っていないので」
グランが、深いため息をついた。
「では、二人とも、と伝えておきましょう」
私は返す言葉を探したが、見つからなかった。
その代わり、今夜は先に帳面を閉じようと決めた。
ルクスの分も、一緒に。




