第13話
館へ戻る道で、私は夕食の後にすることを三つだけ考えた。
見張りからの報告を聞くこと。
明日の食糧の手配を確かめること。
そして、帳面を閉じること。
三つ目が、いちばん難しそうだった。
*
執務室では、ルクスが大きな紙へ部屋の配置を書き込んでいた。
館へ来た家族の寝場所を、少し替えるらしい。階段を上がるのが難しい人を下の部屋へ移し、空いたところへ子どものいる家族を案内するという。
「こちらのお部屋、夜は冷えませんか」
私が尋ねると、彼は頷いた。
「窓の下から風が入ります。セバスチャンさんに相談したら、使っていない厚手の幕を掛けられるそうです」
「では、今夜はそれで」
「はい。明日、隙間も見てもらいます」
紙の端には、すでに大工へ頼むことが書かれていた。
私は隣の椅子に座り、持ち帰った石切り場の略図を広げた。
ルクスが仕事の手を止め、こちらを見る。
「どうでしたか」
「弩を置けそうな場所は見つかりました。ただ、そこへ地竜を連れてこられるかは、まだ分かりません」
私はグランとカレンが話していたことを、できるだけ正確に伝えた。
ルクスは途中で一度だけ、怪我人を運ぶ道について尋ねた。
「南側へ抜けられます。石を片づけた後で、実際に担架を持って通れるか、確かめることになりました」
「では、そちらの道の先に、荷車を置ける場所も探してもらいます」
「お願いします」
彼が書き留める間、私は卓の上を眺めた。
食糧、寝具、水、見張りの交代。
今日、私がいなかった間にも、紙が何枚も増えている。
「ルクス。今夜、必ず終えなければならないのは、どれですか」
「必ず、ですか」
「ええ。できれば終えたいものは、ひとまず脇へ」
彼は少し考え、二枚の紙を引き寄せた。
「明朝に出す食糧と、今夜の部屋替えです」
「では、それを済ませたら、夕食にしましょう」
「その後は?」
「今日は、終わりです」
ルクスの視線が、残りの書類へ向かった。
私も、つられて見てしまう。
しばらく二人で黙った後、彼が小さく笑った。
「……見えないところへ置いた方が、よさそうですね」
「そうしましょう」
私は残りの紙を揃え、明日使う順に重ねた。
ルクスが棚の一段を空けてくれる。
二人でそこへ収め、扉を閉めた。
それだけで、少しだけ部屋が広くなった気がした。
*
食堂は、以前より賑やかだった。
館に泊まっている人たちが、椀や杯を運ぶのを手伝っている。厨房からは、鍋を置く場所について声が飛んでいた。
私とルクスも、空いていた席へ並んで座った。
隣の男の子が、匙を持ったまま眠そうに目を擦っている。
「もう、お腹いっぱい?」
尋ねると、男の子は首を振った。
「眠くない」
聞いたこととは、少し違う答えだった。
向かいにいた母親が、困ったように笑う。
「昨夜も、なかなか寝つけなくて。寝ている間に、また出発するんじゃないかと心配しているんです」
私は男の子を見た。
椅子の下には、小さな布袋が置かれている。
いつでも持って歩けるように、口が固く結ばれていた。
「今夜は、ここで眠りますよ」
「朝まで?」
「ええ。何かあっても、大人が起こします。寝過ごしたから置いていく、なんてことはありません」
男の子は私の顔をじっと見た。
「領主様も、寝る?」
「はい。今夜は、私も眠ります」
隣で、ルクスがこちらを見た。
私は彼へ顔を向ける。
「ルクスも、です」
「はい。僕も」
男の子は二人を見比べ、それからようやく匙を動かした。
母親が、小さく頭を下げる。
私は首を振り、自分の椀へ目を戻した。
人に約束したのだから、今夜は本当に眠らなければならない。
*
食後、私は少しだけ館の中を歩いた。
部屋替えが済んだことを確かめ、窓に掛けられた厚い幕の裾を整える。
廊下の奥では、先ほどの男の子が母親の膝へ頭を預けていた。
もう、目は閉じている。
私は足音を忍ばせ、そっと通り過ぎた。
小さな居間には、暖炉の火が残っていた。
その前で、ルクスが椅子へ座っている。
帳面は持っていなかった。
代わりに、上着を膝に広げ、袖口へ針を通していた。
「そちらも、お仕事?」
声をかけると、彼は顔を上げた。
「いえ。自分の服です。ずっと、直そうと思っていて」
隣の椅子へ腰掛け、手元を見る。
袖口の端が擦れ、裏の布が少し覗いていた。
初めて会った時から、何度も繕われた服だ。
「私に、できるところはありますか」
尋ねると、ルクスは少し迷った。
それから、針のついていない方の布をこちらへ寄せる。
「ここを押さえていただけると、助かります」
「こう?」
「はい。そのままで」
私は指で布を押さえた。
彼が針を通すたび、布がほんの少し引かれる。
暖炉の薪が崩れ、赤い火が見えた。
「昔から、ご自分で直していらしたの?」
「最初は、家で直してもらっていました。でも、自分でできれば、その分早いので」
「手袋も、そうして覚えたのですね」
「はい。あれは少し、張り切りました」
私は顔を上げた。
ルクスは針先を見たまま、続けた。
「領主様に使っていただくものだったので。指の長さを直しているうちに、思ったより時間がかかって」
「……大切に使っています」
「分かっています」
彼はそこで私を見た。
「帰ってこられた時、いつも、ちゃんと持っていらっしゃるので」
私は布を押さえる指へ目を落とした。
そんなところまで、見ていたのだ。
嬉しいのに、すぐには言葉が見つからなかった。
「明日も、使いますね」
「はい」
ルクスがまた針を動かす。
私は、縫い目の邪魔をしないよう、少しずつ指の位置を変えた。
*
繕い終わった袖を、ルクスが軽く引いて確かめた。
「ありがとうございます。できました」
「私、押さえていただけですわ」
「その分、縫いやすかったです」
上着を畳み、彼は椅子の背へ掛けた。
もう、膝の上には何もない。
私も両手を重ねた。
廊下の方から、誰かが扉を閉める音がする。
その後は、暖炉の音ばかりになった。
「静かですね」
「皆さん、早く休まれたようです」
ルクスの声も、自然と小さくなる。
私は火を見つめた。
何も持たずに座っていると、山で聞いた地竜の声が、ふと戻ってきた。
剣を入れた時の手応え。
倒木の軋む音。
私は膝の上で、指を握った。
「フィリア様」
呼ばれ、隣を見る。
ルクスは何も尋ねなかった。
ただ、少しだけ椅子の向きを変えた。
私も火から顔を離し、彼を見る。
「……考え始めると、止まらなくなりますね」
「はい」
「眠る前くらい、忘れていたいのに」
ルクスは頷いた。
「僕は、羊をもう一度数えそうです」
思わず、笑いが漏れた。
「十一頭でした」
「はい。村を出たのは十一頭です」
「残りの一頭は、弟さんのお宅」
「そうでした」
二人で確かめ合うと、彼も笑った。
私は重ねていた手をほどいた。
「……ルクスは、眠れない時、どうなさるの?」
「本を読むことが多かったです。最近は、開く前に眠ってしまいますけれど」
「どんな本を?」
「旅の話です。街の名前と、そこで食べられるものが書いてあるような」
「お料理がお好きだから?」
「それもあります。自分が知らない暮らしを読むのが、面白くて」
私は彼の横顔を見た。
帳簿と物資の一覧を開く姿は、よく知っている。
けれど、旅の本を楽しむ彼は、まだ知らなかった。
「いつか、一緒に読んでもよろしい?」
「声に出して、ですか」
「ええ。今度は、小麦の数ではなくて」
ルクスの表情が柔らかくなる。
「それなら、僕も続きを聞きたくて、眠れなくなるかもしれません」
「では、途中でやめます」
「いちばん気になるところで?」
「明日も読む約束が、できますもの」
口にしてから、私は少し照れた。
明日も。その次の日も。
そんなふうに、気軽に先のことを話したくなっていた。
「……本を、探しておきます」
ルクスの返事は、優しかった。
*
やがて、廊下の時計が鳴った。
私たちは顔を見合わせた。
どちらからともなく立ち上がる。
ルクスが上着を手に取り、私は暖炉の前へ戻りかけた椅子を整えた。
「お部屋まで、お送りします」
「同じ廊下ですもの。一緒に参りましょう」
並んで歩く。
灯りは昼間より少なく、窓には暗い庭が映っていた。
自分の部屋の前で立ち止まると、ルクスも足を止めた。
「明朝、急ぎの知らせが来ていなければ、少し遅めの朝食でよいそうです。セバスチャンさんが」
「あなたも?」
「はい。僕も」
私は頷き、扉の取っ手へ手を掛けた。
けれど、まだ開けなかった。
「ルクス」
「はい」
「今日は、そばにいてくださって、ありがとう」
彼がわずかに目を見開く。
「石切り場には、ご一緒していませんが」
「今のお話です」
私は、少しだけ笑った。
「お仕事が終わってからも、一緒にいてくださったでしょう」
ルクスは私を見つめた。
それから、上着を抱える腕に少し力が入る。
「……僕も、もう少しお話ししていたかったので」
胸の奥が、温かくなった。
私だけが、あの椅子に座っていたかったわけではなかった。
「では、また明日」
「はい。おやすみなさい、フィリア様」
「おやすみなさい、ルクス」
部屋へ入り、扉を閉める。
私はしばらく、その場に立っていた。
廊下を遠ざかる足音が聞こえる。
隣の部屋の扉が開き、静かに閉まった。
私は窓辺の机を見た。
朝のうちに読み返そうと思っていた書類が、重ねてある。
そのままにして、寝台へ向かった。
*
目を覚ますと、窓の向こうが明るかった。
いつもより、よく眠ったらしい。
身支度を整えて廊下へ出ると、ちょうど隣の扉が開いた。
ルクスが私を見つけ、立ち止まる。
「おはようございます」
「おはよう、ルクス」
昨日より、目元がすっきりして見えた。
私も、きっと同じなのだろう。
彼が少し安堵したように笑う。
「眠れましたか」
「ええ。あなたは?」
「はい。羊を数える前に」
私は笑った。
その時、階下からセバスチャンの声がした。
「お二人とも、朝食のご用意ができております」
続いて、使いから届いた知らせがあると告げられる。
本隊は予定通り進んでいるという。
私はルクスと目を合わせた。
「まず、朝食を」
「はい。その後で、皆さんと」
二人で階段を下りた。
繕われた彼の袖口が、私の手のすぐそばで揺れていた。




