第14話
朝食の席には、焼いた薄いパンと、昨日の粥より少し固めに煮た麦が並んでいた。
館に泊まっている家族は、すでに食事を終えたらしい。食堂の端では、二人の女性が使った器を重ねている。
「お手伝いいただいたのですか」
私が声をかけると、一人が頷いた。
「何もしないで座っている方が、落ち着かなくて。水を使いすぎないよう、先に布で拭いてあります」
「ありがとうございます。けれど、無理はなさらないでくださいね」
「はい。できる時だけにします」
その答えに、私は少しだけ安心した。
ここにいる人たちは、助けられるだけの人ではない。
けれど、役に立たなければ泊まれない場所でもない。
その二つを、どちらも忘れないようにしたかった。
ルクスと向かい合って座る。
彼はパンへ手を伸ばしかけ、卓の端に置かれた封書を見た。
「先に読みますか」
「いいえ。まず朝食です」
私が答えると、彼は少し笑った。
「昨日の約束を、きちんと守られるんですね」
「男の子にも、眠ると約束しましたもの。食べることも同じです」
「では、僕も守ります」
パンを一つ取り、半分に割る。
その片方を私の皿へ置かれ、私は目を瞬いた。
「ルクスの分では?」
「まだあります。それに、こちらの方がよく焼けていますから」
見ると、彼の皿に残った方は、端が少し焦げていた。
私は自分の皿の半分と見比べる。
「では、交換しましょう」
「どうしてですか」
「私も、端が香ばしいものは好きです」
「昨日まで、伺っていませんでした」
「今、お話ししました」
焦げた方へ手を伸ばすと、ルクスも同じものを取ろうとした。
指先が触れ、二人とも止まる。
「……半分ずつにしますか」
「ええ。それが公平ですわ」
さらに二つへ割り、分け直す。
向こうで器を運んでいた女性が、静かに視線を逸らした。
私は何も見なかったことにして、麦の椀を手元へ引き寄せた。
*
朝食を終えて開いた封書には、本隊の現在地が記されていた。
兵は十二名。
重い弩が二基と、それを運ぶ荷車が二台。
山道へ入る前に車輪を点検したため少し時間を取られたが、昼過ぎには領内へ入る見込みだという。
「予定通りですね」
ルクスが地図へ指を置いた。
「ただ、北の村へ直接向かわせると、道が細くなります。まず館の前で荷を確かめてから、石切り場へ運ぶ方が安全です」
「休ませる馬も必要です」
セバスチャンが言った。
「厩には、あと四頭分しか空きがございません。村から預かっている馬を南の納屋へ移せば、場所は作れます」
「持ち主の方に、先にお話しします」
ルクスが書き留める。
カレンは、弩を運ぶ荷車の幅を尋ねた。
封書に寸法はない。
「石切り場へ入る曲がり角が狭いのです。通らなければ、途中から人の手で運ぶことになります」
「朝のうちに、幅を測ってまいります」
セバスチャンが紐と棒を用意するよう、使用人へ声をかけた。
私は地図を見た。
人が来る。
武器も届く。
それでも、地竜が都合よく石切り場へ入るとは限らない。
「見張りからの報告は?」
「夜の間に、大きな動きはありません」
グランが答えた。
「ただ、明け方に一度、山の鳥がまとまって飛び立ったそうです。地面の揺れは感じなかったと」
「傷を負って、穴の中に戻っているのでしょうか」
「そうであればよいのですがな」
カレンは首を振った。
「姿が見えない時ほど、決めつけない方がよいでしょう。巣を変えることもあります」
部屋の空気が引き締まる。
「確認に行きますか」
私が尋ねると、カレンは少し考えた。
「尾根までなら。ただし、昨日と同じ場所には立ちません。地竜は、あそこに人がいたと覚えているかもしれませんから」
「では、人数を減らしましょう」
グランが地図の別の道を示した。
「猟師とわしで、東の高みから見る。領主様とカレン殿には、本隊の受け入れを頼みたい」
私はすぐには答えなかった。
自分の目で確かめたい気持ちはある。
けれど、昨日追われた私が加われば、また地竜を刺激するかもしれない。
「分かりました。お願いします」
グランが頷く。
私は少しだけ息を吐いた。
剣を持って向かうことだけが、自分の仕事ではない。
*
本隊が到着するまでの間、石切り場へ運ぶ物を整えた。
担架。止血用の布。水筒。縄。
石工たちは南側の退路から石片を除き、実際に人を載せた担架を運んで道幅を確かめてくれた。
「ここだけ、肩を斜めにしないと通れません」
戻ってきた若者が言った。
「担架の柄を短いものへ替えれば、もっと楽です」
「作れますか」
「大工に頼めば。今ある柄を切らずに、付け替える方がいいでしょう」
大工は話を聞き、その場で寸法を取った。
荷車についても、村の男性たちが曲がり角まで棒を運び、車幅を模して通してみる。
「車輪が外側へ寄ると、溝へ落ちます」
「石を一列置いて、目印にしよう。御者から見える高さで」
私が指示をする前に、必要な作業が決まっていく。
私は報告を聞き、使う木材と人手を確かめた。
皆が自分の知ることを持ち寄っている。
地竜を倒す方法はまだ決まっていないけれど、生きて帰るための道は、少しずつ整っていた。
*
昼を過ぎた頃、見張り台から角笛が聞こえた。
本隊の到着を知らせる音だった。
館の前へ出ると、街道の先から兵と荷車が現れる。
先頭の騎手に続き、太い車輪の荷車がゆっくり進んでいた。荷台には、木と鉄で組まれた大きな弩が固定されている。
普通の弓よりもずっと太い弦。
腕ほどの長さがある矢。
それを見た避難中の人々が、道の端へ寄った。
私はカレン、ルクス、セバスチャンと並び、一行を迎えた。
指揮を執るらしい壮年の男性が馬を降りる。
「レインズワース女伯爵閣下。隣領の命により、地竜討伐の援軍として参りました」
「遠いところを、ありがとうございます。人と馬を先に休ませてください。状況は、その間にお伝えします」
男性は一礼した後、私の腰の剣を見た。
「地竜へ傷を負わせたのは、閣下ご自身だと聞きましたが」
「皆が逃げる間、前脚を一度斬っただけです」
「……一度」
彼は何かを確かめるようにカレンを見た。
カレンは平然と頷く。
「詳しい話は、私からもします。先に荷を」
兵たちが動き始める。
ルクスは馬と人数を確認し、休める場所へ案内していった。
私は荷車のそばへ寄り、弩を見上げた。
地竜へ届く武器。
けれど、運ぶにも、据えるにも、多くの手が要る。
「これを二基とも、石切り場へ?」
「その予定です」
カレンが答えた。
「車が通れば、ですが」
そこへ、道幅を測りに行っていたセバスチャンが戻ってきた。
「曲がり角は、荷車の幅より僅かに広うございます。ただし、積んだままでは上部が岩へ当たる恐れがあるとのことです」
「弩だけ下ろす必要がありますね」
指揮官が荷台を見た。
「分解はできます。ただ、組み直しと調整に半刻はかかる」
「石切り場で組み直す場所はあります」
私は答えた。
「雨を避ける屋根はありませんが、今夜の天気は?」
「雲は出ますが、降らないでしょう」
猟師の一人が空を見て言う。
指揮官は皆の話を聞き、頷いた。
「では、一基を先に運びます。道と作業時間を確かめてから、二基目を」
カレンが地図を開く。
人が集まり、配置と順番が決まっていく。
私もその輪へ入ろうとした時、袖が軽く引かれた。
振り向くと、ルクスが立っていた。
「フィリア様。少しだけ」
彼が示したのは、館の壁際だった。
「どうしました?」
「手袋を」
言われて、自分の手を見る。
急いで外へ出たため、素手のままだった。
「弩を触るおつもりでしたよね」
「持ち上げるくらいなら、お手伝いできるかと」
「だからです」
ルクスは腕に掛けていた私の手袋を差し出した。
「部屋へ取りに戻ってくださったの?」
「入口に置いてありました。きっと、お忘れになると思って」
受け取り、手を入れる。
指の長さが、ぴたりと合った。
「ありがとう。これで、お手伝いできます」
「無理に持つ必要はありませんよ」
「持てる場所で、皆さんと一緒に持ちます」
「それなら」
彼は私の手首の留め具を見た。
片方が少し緩んでいる。
「失礼します」
断ってから、革紐を締め直してくれた。
指先が手首へ触れる。
昨日、火の前で一緒に袖口を押さえた時より、ずっと短い時間だった。
それなのに、周囲に人がいるせいか、落ち着かない。
「きつくありませんか」
「……大丈夫です」
「フィリア様?」
「はい。ちょうどよいですわ」
ようやく答えると、ルクスは不思議そうに私を見た。
その向こうで、カレンがこちらを待っている。
私は咳払いをし、手袋をはめた手を握った。
「行きましょう」
「はい」
並んで皆のところへ戻った。
*
一基目の弩を石切り場へ運び終えたのは、日が傾き始める前だった。
荷車から下ろし、太い棒へ縄を掛け、八人で持つ。
私は後ろ側の棒へ入り、兵と石工に歩調を合わせた。
重さはある。
けれど、一人で背負うものではない。
「右、石があります」
「少し上げるぞ」
「せえの」
声を掛け合い、曲がり角を越える。
石切り場へ着くと、弩はカレンが選んだ平らな場所へ下ろされた。
兵たちがすぐに組み立てへ入る。
石工は脚を固定する地面を調べ、大工は木の楔を削った。
私は少し離れ、置かれた位置から窪地の入口を見る。
ここへ地竜が来れば、弩は正面を狙える。
けれど、外せば、太い尾が届くまで時間はかからない。
「女伯爵様」
カレンが呼んだ。
「昨日斬った場所を、もう一度教えてください。この高さで見えるか確かめたい」
地竜の体を、積まれた石で見立てる。
私は前脚が上がった時の位置を示した。
弩の射手が、狙いを合わせる姿勢を取る。
「低すぎるな」
「脚ではなく、胸の下を狙うなら?」
「正面からでは、鱗が重なる」
意見が交わされる。
私は地竜が斜面を登った時の姿を思い出した。
「右の前脚を庇っているなら、左へ重さが寄るかもしれません」
「動きを鈍らせられる?」
カレンの問いに、私は首を振った。
「分かりません。私が斬った傷の深さも、まだ確認できていませんから」
「その答えでいい」
彼女は地図へ印をつけた。
「推測と、見たことを分けておきましょう」
その時、石切り場の入口から馬の足音が聞こえた。
グランと猟師が戻ってくる。
二人とも馬を急がせてはいない。
けれど、グランの表情を見て、全員が言葉を止めた。
「地竜が、穴を出ました」
彼は馬から降り、地図の上へ指を置いた。
「泉にはおりません。足跡は西へ向いております」
西。
その先には、この石切り場がある。
「どのくらい前ですか」
カレンが尋ねる。
「新しい。わしらが尾根へ着いた時には、木の揺れる音が聞こえておりました」
遠くで、鳥の群れが飛び立った。
皆が同じ方角を見る。
山の木々の間から、低い音が響いた。
腹の底へ伝わる、岩を擦るような声。
私は剣の柄へ手を置いた。
「二基目は、間に合いませんね」
「ええ」
カレンが弩の組み上がりを確かめる。
「ここで戦うか、今すぐ退くか。決める必要があります」
指揮官が兵を見回した。
「一基目は、あと少しで射てる。退路も確かめてある」
「けれど、誘い込む支度はありません」
私は入口の向こうを見た。
地竜がこちらへ来ると決まったわけではない。
こちらから近づき、無理に戦うべきでもない。
「見張りを前へ出しすぎないでください。姿を確かめたら、すぐ戻るように」
「承知しました」
カレンが二人を選ぶ。
残った者たちは弩を仕上げ、退路へ担架と水を移した。
私も剣帯を確かめる。
隣にいたルクスが、私の手元を見た。
「フィリア様」
「ええ」
「僕は、南の道で怪我人を受けます。荷車の場所も、もう伝えてあります」
彼が戦う場所へ残るとは言わなかった。
自分のできることを選び、すでに準備していた。
「お願いします」
私は頷いた。
「あなたのところまで、戻ります」
ルクスは唇を結んだ。
やがて、真っ直ぐに私を見る。
「はい。お待ちしています」
山の奥で、もう一度、低い声がした。
先ほどより近い。
私は手袋をはめた手で、剣の柄を握り直した。 朝食の席には、焼いた薄いパンと、昨日の粥より少し固めに煮た麦が並んでいた。
館に泊まっている家族は、すでに食事を終えたらしい。食堂の端では、二人の女性が使った器を重ねている。
「お手伝いいただいたのですか」
私が声をかけると、一人が頷いた。
「何もしないで座っている方が、落ち着かなくて。水を使いすぎないよう、先に布で拭いてあります」
「ありがとうございます。けれど、無理はなさらないでくださいね」
「はい。できる時だけにします」
その答えに、私は少しだけ安心した。
ここにいる人たちは、助けられるだけの人ではない。
けれど、役に立たなければ泊まれない場所でもない。
その二つを、どちらも忘れないようにしたかった。
ルクスと向かい合って座る。
彼はパンへ手を伸ばしかけ、卓の端に置かれた封書を見た。
「先に読みますか」
「いいえ。まず朝食です」
私が答えると、彼は少し笑った。
「昨日の約束を、きちんと守られるんですね」
「男の子にも、眠ると約束しましたもの。食べることも同じです」
「では、僕も守ります」
パンを一つ取り、半分に割る。
その片方を私の皿へ置かれ、私は目を瞬いた。
「ルクスの分では?」
「まだあります。それに、こちらの方がよく焼けていますから」
見ると、彼の皿に残った方は、端が少し焦げていた。
私は自分の皿の半分と見比べる。
「では、交換しましょう」
「どうしてですか」
「私も、端が香ばしいものは好きです」
「昨日まで、伺っていませんでした」
「今、お話ししました」
焦げた方へ手を伸ばすと、ルクスも同じものを取ろうとした。
指先が触れ、二人とも止まる。
「……半分ずつにしますか」
「ええ。それが公平ですわ」
さらに二つへ割り、分け直す。
向こうで器を運んでいた女性が、静かに視線を逸らした。
私は何も見なかったことにして、麦の椀を手元へ引き寄せた。
*
朝食を終えて開いた封書には、本隊の現在地が記されていた。
兵は十二名。
重い弩が二基と、それを運ぶ荷車が二台。
山道へ入る前に車輪を点検したため少し時間を取られたが、昼過ぎには領内へ入る見込みだという。
「予定通りですね」
ルクスが地図へ指を置いた。
「ただ、北の村へ直接向かわせると、道が細くなります。まず館の前で荷を確かめてから、石切り場へ運ぶ方が安全です」
「休ませる馬も必要です」
セバスチャンが言った。
「厩には、あと四頭分しか空きがございません。村から預かっている馬を南の納屋へ移せば、場所は作れます」
「持ち主の方に、先にお話しします」
ルクスが書き留める。
カレンは、弩を運ぶ荷車の幅を尋ねた。
封書に寸法はない。
「石切り場へ入る曲がり角が狭いのです。通らなければ、途中から人の手で運ぶことになります」
「朝のうちに、幅を測ってまいります」
セバスチャンが紐と棒を用意するよう、使用人へ声をかけた。
私は地図を見た。
人が来る。
武器も届く。
それでも、地竜が都合よく石切り場へ入るとは限らない。
「見張りからの報告は?」
「夜の間に、大きな動きはありません」
グランが答えた。
「ただ、明け方に一度、山の鳥がまとまって飛び立ったそうです。地面の揺れは感じなかったと」
「傷を負って、穴の中に戻っているのでしょうか」
「そうであればよいのですがな」
カレンは首を振った。
「姿が見えない時ほど、決めつけない方がよいでしょう。巣を変えることもあります」
部屋の空気が引き締まる。
「確認に行きますか」
私が尋ねると、カレンは少し考えた。
「尾根までなら。ただし、昨日と同じ場所には立ちません。地竜は、あそこに人がいたと覚えているかもしれませんから」
「では、人数を減らしましょう」
グランが地図の別の道を示した。
「猟師とわしで、東の高みから見る。領主様とカレン殿には、本隊の受け入れを頼みたい」
私はすぐには答えなかった。
自分の目で確かめたい気持ちはある。
けれど、昨日追われた私が加われば、また地竜を刺激するかもしれない。
「分かりました。お願いします」
グランが頷く。
私は少しだけ息を吐いた。
剣を持って向かうことだけが、自分の仕事ではない。
*
本隊が到着するまでの間、石切り場へ運ぶ物を整えた。
担架。止血用の布。水筒。縄。
石工たちは南側の退路から石片を除き、実際に人を載せた担架を運んで道幅を確かめてくれた。
「ここだけ、肩を斜めにしないと通れません」
戻ってきた若者が言った。
「担架の柄を短いものへ替えれば、もっと楽です」
「作れますか」
「大工に頼めば。今ある柄を切らずに、付け替える方がいいでしょう」
大工は話を聞き、その場で寸法を取った。
荷車についても、村の男性たちが曲がり角まで棒を運び、車幅を模して通してみる。
「車輪が外側へ寄ると、溝へ落ちます」
「石を一列置いて、目印にしよう。御者から見える高さで」
私が指示をする前に、必要な作業が決まっていく。
私は報告を聞き、使う木材と人手を確かめた。
皆が自分の知ることを持ち寄っている。
地竜を倒す方法はまだ決まっていないけれど、生きて帰るための道は、少しずつ整っていた。
*
昼を過ぎた頃、見張り台から角笛が聞こえた。
本隊の到着を知らせる音だった。
館の前へ出ると、街道の先から兵と荷車が現れる。
先頭の騎手に続き、太い車輪の荷車がゆっくり進んでいた。荷台には、木と鉄で組まれた大きな弩が固定されている。
普通の弓よりもずっと太い弦。
腕ほどの長さがある矢。
それを見た避難中の人々が、道の端へ寄った。
私はカレン、ルクス、セバスチャンと並び、一行を迎えた。
指揮を執るらしい壮年の男性が馬を降りる。
「レインズワース女伯爵閣下。隣領の命により、地竜討伐の援軍として参りました」
「遠いところを、ありがとうございます。人と馬を先に休ませてください。状況は、その間にお伝えします」
男性は一礼した後、私の腰の剣を見た。
「地竜へ傷を負わせたのは、閣下ご自身だと聞きましたが」
「皆が逃げる間、前脚を一度斬っただけです」
「……一度」
彼は何かを確かめるようにカレンを見た。
カレンは平然と頷く。
「詳しい話は、私からもします。先に荷を」
兵たちが動き始める。
ルクスは馬と人数を確認し、休める場所へ案内していった。
私は荷車のそばへ寄り、弩を見上げた。
地竜へ届く武器。
けれど、運ぶにも、据えるにも、多くの手が要る。
「これを二基とも、石切り場へ?」
「その予定です」
カレンが答えた。
「車が通れば、ですが」
そこへ、道幅を測りに行っていたセバスチャンが戻ってきた。
「曲がり角は、荷車の幅より僅かに広うございます。ただし、積んだままでは上部が岩へ当たる恐れがあるとのことです」
「弩だけ下ろす必要がありますね」
指揮官が荷台を見た。
「分解はできます。ただ、組み直しと調整に半刻はかかる」
「石切り場で組み直す場所はあります」
私は答えた。
「雨を避ける屋根はありませんが、今夜の天気は?」
「雲は出ますが、降らないでしょう」
猟師の一人が空を見て言う。
指揮官は皆の話を聞き、頷いた。
「では、一基を先に運びます。道と作業時間を確かめてから、二基目を」
カレンが地図を開く。
人が集まり、配置と順番が決まっていく。
私もその輪へ入ろうとした時、袖が軽く引かれた。
振り向くと、ルクスが立っていた。
「フィリア様。少しだけ」
彼が示したのは、館の壁際だった。
「どうしました?」
「手袋を」
言われて、自分の手を見る。
急いで外へ出たため、素手のままだった。
「弩を触るおつもりでしたよね」
「持ち上げるくらいなら、お手伝いできるかと」
「だからです」
ルクスは腕に掛けていた私の手袋を差し出した。
「部屋へ取りに戻ってくださったの?」
「入口に置いてありました。きっと、お忘れになると思って」
受け取り、手を入れる。
指の長さが、ぴたりと合った。
「ありがとう。これで、お手伝いできます」
「無理に持つ必要はありませんよ」
「持てる場所で、皆さんと一緒に持ちます」
「それなら」
彼は私の手首の留め具を見た。
片方が少し緩んでいる。
「失礼します」
断ってから、革紐を締め直してくれた。
指先が手首へ触れる。
昨日、火の前で一緒に袖口を押さえた時より、ずっと短い時間だった。
それなのに、周囲に人がいるせいか、落ち着かない。
「きつくありませんか」
「……大丈夫です」
「フィリア様?」
「はい。ちょうどよいですわ」
ようやく答えると、ルクスは不思議そうに私を見た。
その向こうで、カレンがこちらを待っている。
私は咳払いをし、手袋をはめた手を握った。
「行きましょう」
「はい」
並んで皆のところへ戻った。
*
一基目の弩を石切り場へ運び終えたのは、日が傾き始める前だった。
荷車から下ろし、太い棒へ縄を掛け、八人で持つ。
私は後ろ側の棒へ入り、兵と石工に歩調を合わせた。
重さはある。
けれど、一人で背負うものではない。
「右、石があります」
「少し上げるぞ」
「せえの」
声を掛け合い、曲がり角を越える。
石切り場へ着くと、弩はカレンが選んだ平らな場所へ下ろされた。
兵たちがすぐに組み立てへ入る。
石工は脚を固定する地面を調べ、大工は木の楔を削った。
私は少し離れ、置かれた位置から窪地の入口を見る。
ここへ地竜が来れば、弩は正面を狙える。
けれど、外せば、太い尾が届くまで時間はかからない。
「女伯爵様」
カレンが呼んだ。
「昨日斬った場所を、もう一度教えてください。この高さで見えるか確かめたい」
地竜の体を、積まれた石で見立てる。
私は前脚が上がった時の位置を示した。
弩の射手が、狙いを合わせる姿勢を取る。
「低すぎるな」
「脚ではなく、胸の下を狙うなら?」
「正面からでは、鱗が重なる」
意見が交わされる。
私は地竜が斜面を登った時の姿を思い出した。
「右の前脚を庇っているなら、左へ重さが寄るかもしれません」
「動きを鈍らせられる?」
カレンの問いに、私は首を振った。
「分かりません。私が斬った傷の深さも、まだ確認できていませんから」
「その答えでいい」
彼女は地図へ印をつけた。
「推測と、見たことを分けておきましょう」
その時、石切り場の入口から馬の足音が聞こえた。
グランと猟師が戻ってくる。
二人とも馬を急がせてはいない。
けれど、グランの表情を見て、全員が言葉を止めた。
「地竜が、穴を出ました」
彼は馬から降り、地図の上へ指を置いた。
「泉にはおりません。足跡は西へ向いております」
西。
その先には、この石切り場がある。
「どのくらい前ですか」
カレンが尋ねる。
「新しい。わしらが尾根へ着いた時には、木の揺れる音が聞こえておりました」
遠くで、鳥の群れが飛び立った。
皆が同じ方角を見る。
山の木々の間から、低い音が響いた。
腹の底へ伝わる、岩を擦るような声。
私は剣の柄へ手を置いた。
「二基目は、間に合いませんね」
「ええ」
カレンが弩の組み上がりを確かめる。
「ここで戦うか、今すぐ退くか。決める必要があります」
指揮官が兵を見回した。
「一基目は、あと少しで射てる。退路も確かめてある」
「けれど、誘い込む支度はありません」
私は入口の向こうを見た。
地竜がこちらへ来ると決まったわけではない。
こちらから近づき、無理に戦うべきでもない。
「見張りを前へ出しすぎないでください。姿を確かめたら、すぐ戻るように」
「承知しました」
カレンが二人を選ぶ。
残った者たちは弩を仕上げ、退路へ担架と水を移した。
私も剣帯を確かめる。
隣にいたルクスが、私の手元を見た。
「フィリア様」
「ええ」
「僕は、南の道で怪我人を受けます。荷車の場所も、もう伝えてあります」
彼が戦う場所へ残るとは言わなかった。
自分のできることを選び、すでに準備していた。
「お願いします」
私は頷いた。
「あなたのところまで、戻ります」
ルクスは唇を結んだ。
やがて、真っ直ぐに私を見る。
「はい。お待ちしています」
山の奥で、もう一度、低い声がした。
先ほどより近い。
私は手袋をはめた手で、剣の柄を握り直した。




