第15話
見張りに出た二人が戻ってきた。
一人は石切り場へ入るなり、片手を上げる。
「地竜を確認! こちらへ向かっています!」
「距離は」
カレンが尋ねる。
「歩いて二百ほど。速くはありません。右の前脚を引きずっています」
私がつけた傷は、残っている。
けれど、地竜を止めるほどではなかった。
「石切り場へ入るとは限りません」
私は入口の向こうを見た。
「通り過ぎるなら、追わずに見送れますか」
「できます」
指揮官が答えた。
「こちらを見つけなければ、ですが」
カレンが全員を振り返る。
「弩の後ろへ六名。射手の指示なしに弦へ触れないこと。残りは左右の岩陰へ。地竜が入口を外れたら、音を立てずに待つ」
「地竜が入ってきた場合は?」
兵の一人が尋ねた。
「第一射を胸へ。外れた時は南へ退く。剣や槍で正面を止めようとしないで」
迷いのない声だった。
グランが私の隣へ来る。
「領主様は、左の岩陰へ」
「カレンと同じ場所ですね」
「ええ。前へ出る必要が生じても、一人では出ませぬように」
「分かりました」
私は返事をした。
逃げ道も、仲間の位置も確かめる。
南へ続く石の隙間には、ルクスと担架を持つ人たちがいる。
彼の姿は、ここから半分しか見えなかった。
それでよい。
地竜からも、見えにくい場所だった。
*
木が折れる音がした。
次いで、地面がわずかに揺れる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
重い足音は、ゆっくりと近づいてきた。
石切り場の入口から、鳥が飛び込んでくる。逃げ道を見失ったように上空を一周し、南側へ抜けていった。
私は岩へ背を寄せた。
手袋の中で、指を一度開く。
剣を抜くのは、まだ早い。
やがて、木々の向こうに灰色の背が見えた。
岩のような突起が、枝を押し分けて進んでいる。
地竜は石切り場の入口まで来ると、足を止めた。
低い頭が、左右へ動く。
鼻先が土へ近づき、深く息を吸った。
私たちの匂いに気づいたのだろうか。
黄色い目が細くなる。
地竜は右の前脚を少し浮かせたまま、入口の外側を進もうとした。
通り過ぎる。
そう思った時、荷台から下ろした道具の一つが、風に押されて転がった。
小さな木の楔だった。
石へ当たり、乾いた音を立てる。
地竜の頭が、こちらを向いた。
誰も動かない。
長い尾が、地面を擦った。
地竜は鼻先を上げ、石切り場の中を見た。
その視線が、組み上がった弩で止まる。
「来る」
カレンが小さく言った。
地竜の前脚が、一歩、窪地へ入った。
次の一歩で土が沈む。
負傷した右脚を庇い、体がわずかに左へ傾いていた。
「まだ」
射手の声が聞こえる。
弩の矢は地竜へ向いている。
けれど、正面からでは胸の鱗が重なる。
地竜が、さらに中へ入った。
人の気配を探すように、頭を左右へ振る。
そして、弩の後ろにいる兵を見つけた。
喉の奥から、低い音が上がる。
「左へ寄るぞ!」
射手が叫んだ。
地竜が地面を蹴った。
負傷していても、速い。
巨体が迫り、石切り場そのものが揺れた。
「射て!」
太い弦が鳴った。
矢が空気を裂き、地竜の胸へ飛ぶ。
しかし、突進の直前に体が傾いた。
矢は胸の中央を外れ、左の肩へ突き刺さる。
鱗が割れる音がした。
地竜が吠える。
足を止めるどころか、怒りのまま弩へ向かった。
「退け!」
兵たちが弩の後ろから離れる。
地竜の頭が、太い木の台へぶつかった。
弩が片側から持ち上がり、地面へ倒れる。
固定していた楔が飛んだ。
私は岩陰から出かけ、止まった。
今、近づいても、頭にも尾にも届かない。
「南へ!」
カレンが指示を飛ばす。
兵たちが退路へ走る。
その一人へ、地竜の尾が振られた。
「伏せろ!」
グランの声に、兵が地面へ身を投げる。
尾は頭上を通り、積まれていた石へ当たった。
石が崩れる。
伏せた兵の脚が、落ちた石の下に挟まった。
「動けません!」
二人の兵が戻ろうとする。
「待って!」
私は地竜を見た。
頭は倒れた弩へ向いている。
けれど尾は、まだ大きく左右へ動いていた。
今、兵を引き出そうとすれば、まとめて払われる。
「こちらへ向けます。尾が離れてから救助を」
「どうやって」
カレンが私を見る。
私は入口側に残された縄を見た。
弩を運ぶために使った、太い縄だった。
「右脚へは近づけます。昨日の傷があります」
「一人では行かせません」
カレンがすぐに答えた。
「私が頭を見る。グランは尾を」
「承知した」
二人とも、止めはしなかった。
止める代わりに、一緒に動く方法を選んでくれた。
*
グランが岩を槍の柄で叩いた。
地竜の頭が音へ向く。
カレンは反対側から飛び出し、肩へ刺さった矢の近くへ短槍を投げた。
穂先は鱗へ弾かれたが、地竜の注意が揺れる。
「今です!」
私は縄を持って走った。
正面には入らない。
右側から、地竜の視界の端を進む。
負傷した前脚は、地面へ深くつけられていない。
昨日斬った場所には、乾いた血がこびりついていた。その周りの鱗が僅かに開いている。
地竜の頭が私へ動いた。
「領主様、止まるな!」
グランの声。
私は地面を蹴り、頭の向きと同じ方へ走る。
地竜の首は太く、急には曲がらない。
鼻先が追いつく前に、右の前脚へ近づいた。
剣を抜く。
昨日と同じ場所を狙っても、今は脚が上がっていない。
私は斬らず、縄の端を傷の上へ投げた。
縄が脚を越える。
向こう側にいた兵が、その端を拾った。
「岩へ回して!」
石工が残した大きな石柱の根元へ、縄を回す。
脚を縛りつけるためではない。
そんなことをすれば、縄の方が切れる。
動く方向を、ほんの少し変えるためだった。
地竜が脚を引いた。
縄が張る。
「放せ!」
私は叫んだ。
兵がすぐに手を離す。
縄は石柱の周りを滑り、地竜の脚から外れた。
けれど、突然引かれた右脚を庇い、地竜の体が左へ寄る。
尾も一緒に動いた。
「今だ、引き出せ!」
グランの声が響く。
挟まれていた兵のもとへ、二人が駆け寄る。
石を動かし、腕の下へ手を入れる。
南側では、ルクスたちが担架を持って待っていた。
「こちらへ! 足元の石は退けてあります!」
ルクスの声が聞こえる。
兵が運び出される。
それを確かめるより先に、地竜がこちらを向いた。
黄色い目が、私を捉える。
私は剣を構えた。
倒すためではない。
退くために、相手の動きを見る。
地竜が前脚を上げた。
傷ついている右ではなく、左。
爪が届く前に、後ろへ跳ぶ。
地面へ叩きつけられた脚が、石を砕いた。
欠片が頬をかすめる。
私はさらに距離を取った。
「フィリア様!」
ルクスの声がした。
「大丈夫です!」
答えながら、左へ回る。
地竜が私を追う。
その後ろで、倒れた弩へ兵たちが戻っていた。
壊れてはいない。
片側の脚が外れただけだ。
「起こせるぞ!」
「弦は生きている!」
三人が台を起こし、石工が外れた脚の下へ別の石を差し込む。
大工が楔を打ち込んだ。
一射目を放ってから、まだ幾らも経っていない。
それでも、一人では決してできない速さで、弩が再び形を取り戻していく。
「矢を!」
「巻き上げる!」
地竜の尾が動いた。
私はその場から退く。
尾の先が外套をかすめ、風圧で体が傾いた。
片手を地面へつく。
手袋が石との間で、掌を守ってくれた。
「領主様!」
グランが地竜の横から槍を突き出す。
穂先は鱗の隙間へ届かない。
それでも、地竜の頭が彼へ向いた。
私は立ち上がる。
右脚。
左肩には弩の矢。
地竜は両方を庇い、体の向きを変えるのに時間がかかっていた。
「胸が見えます!」
私が叫ぶ。
地竜がグランを追おうと、左の前脚を踏み出す。
右脚が支えきれず、肩が沈んだ。
重なっていた胸の鱗が開く。
「射線を空けろ!」
カレンがグランを引いた。
私も地面へ伏せる。
「射て!」
二度目の弦音が響いた。
矢は開いた鱗の間へ入り、半ばまで突き刺さった。
地竜の体が大きく震える。
咆哮が石切り場へ響き渡った。
巨体が後ろへ下がり、尾が無秩序に振られる。
「岩陰へ!」
私は立ち上がろうとして、足元が揺れた。
地竜の尾が石積みへ当たる。
崩れた石が斜面を転がってきた。
避けようとしたが、一つが靴の横へぶつかった。
足が取られる。
体が地面へ傾いた。
腕を掴まれた。
グランが私を引き、カレンが背を押す。
三人で岩陰へ滑り込む。
直後、石が目の前を通り過ぎた。
「お怪我は」
カレンが尋ねた。
「足首を、少し。立てます」
力を入れると痛みはあったが、骨が折れたようなものではない。
「少し、は後で確かめます」
聞き覚えのある言葉が、岩の向こうから飛んできた。
ルクスだった。
担架の人たちを退かせた後、入口近くまで戻ってきている。
「そこから出ないで!」
私が言うと、彼は足を止めた。
「はい。ですから、フィリア様も一人で出ないでください!」
こんな時なのに、返す言葉に詰まった。
カレンが一瞬だけ私を見たが、何も言わなかった。
*
地竜は、まだ倒れていなかった。
胸に矢を受けたまま、四肢を踏ん張っている。
口元から荒い息が漏れる。
一歩進もうとするたび、右の前脚が沈んだ。
「三射目は?」
カレンが弩の方へ叫ぶ。
「弦が傷んでいる! 張り直しには時間が要る!」
地竜の頭が、石切り場の出口へ向いた。
「逃げるつもりです」
私は言った。
追うべきではない。
けれど、向かう先には北の村と、館へ続く道がある。
地竜が一歩、入口へ進む。
胸の矢が揺れた。
そこから暗い血が流れている。
「南の道へ全員を下げますか」
グランが尋ねた。
カレンは地竜と、倒れた弩を見比べた。
「この傷なら、長くは動けない。けれど、村へ入るまで持つ可能性はある」
私は胸の矢を見た。
深くは入っている。
けれど、心臓へ届いたかは分からない。
地竜の首の下。
頭を上げるたび、鱗が大きく動く場所がある。
昨日、前脚へ剣を入れた時と同じだった。
硬い部分と張り合う必要はない。
けれど、あそこへ近づくには、頭の正面を通らなければならない。
「私が――」
「一人では、行かせません」
カレンが遮った。
グランも槍を握り直す。
「わしが左へ。カレン殿は右へ。領主様は、地竜が頭を上げた時だけ」
「下げたままなら、退きます」
私は答えた。
「無理に届かせません」
二人が頷いた。
私たちは岩陰から出た。
*
グランが左から槍を構える。
カレンは右に回り、地面に落ちていた短槍を拾った。
私は中央より少し右へ立つ。
地竜は入口へ向かいかけ、私たちの気配に頭を戻した。
口が開く。
牙の間から熱い息が漏れた。
火はない。
けれど、あの顎だけで、人の体など容易に砕ける。
グランが石へ槍を打ちつけた。
カレンも反対側で声を上げる。
地竜の頭が迷う。
私は動かなかった。
自分から間合いへ入れば、相手は頭を下げたまま突進できる。
待つ。
お祖母様との稽古で、何度も待てずに打ち込んだ。
そのたびに剣を落とされた。
『怖いからと先に動けば、相手に時を渡します』
怖くないわけではない。
足首は痛み、喉は乾いている。
それでも、今は一人ではなかった。
地竜がグランへ頭を向けた。
カレンが右肩へ短槍を突き出す。
傷んだ鱗へ穂先が触れ、地竜が吠えた。
頭が上がる。
首の下が見えた。
「領主様!」
私は踏み込んだ。
一歩。
もう一歩。
地竜の前脚が動く。
右脚は遅い。
左脚が私を払おうと持ち上がる。
そこへグランの槍が入った。
止めることはできなくても、軌道がわずかに外れる。
爪が肩の横を通った。
私は両手で柄を握り、首の下の鱗の隙間へ剣を入れた。
刃が沈む。
硬いものへ当たり、止まりかける。
無理に押し込まない。
地竜が頭を下げる力に合わせ、横へ引く。
傷が開いた。
熱い血が手袋と袖へかかる。
「離れて!」
カレンの声。
私は剣を抜き、後ろへ跳んだ。
地竜の顎が、直前まで私のいた場所へ落ちる。
地面が揺れた。
私は足をついたが、痛めた方が耐えきれない。
膝をつく。
地竜が、もう一度頭を持ち上げようとした。
けれど、上がらなかった。
前脚が折れ、胸が地面へ落ちる。
尾が大きく一度だけ振られた。
「下がれ!」
グランが私の前へ出る。
皆が距離を取る。
地竜の爪が土を掻いた。
やがて、その動きも弱くなった。
低い息が、一度。
長く吐き出される。
それきり、巨体は動かなかった。
*
誰も、すぐには近づかなかった。
指揮官が長槍を持つ兵を二人選び、離れた位置から反応を確かめさせる。
目。
鼻先。
前脚。
何度確かめても、地竜は動かなかった。
「……討伐を確認」
指揮官の声が響いた。
石切り場に、深い息を吐く音がいくつも重なった。
私は剣先を下ろした。
手が震えていた。
握る力を緩めると、剣を落としそうになる。
グランが鞘を支えてくれた。
「収められますか」
「はい」
一度では入らず、刃が鞘の口へ当たった。
息を整え、もう一度。
今度は、最後まで収まった。
「フィリア様!」
ルクスが南側から走ってくる。
途中で石を避け、私の前まで来ると、膝をついた。
「どこを怪我されました?」
「足首を少し捻りました。それから、頬に石が」
「ほかには?」
「ありません」
「本当に?」
青い目が、私の顔から肩、腕、手袋へ動く。
袖についた地竜の血を見て、表情が固まった。
「これは、私の血ではありません」
「……先に、そう言ってください」
「ごめんなさい」
ルクスは大きく息を吐いた。
私の足へ触れる前に、顔を上げる。
「靴を脱がせてもよろしいですか」
「ええ。お願いします」
彼は留め具を外し、痛む場所を確かめた。
触れられるたびに少し痛んだが、指先は慎重だった。
「腫れ始めています。歩かない方がいいです」
「でも、怪我をした兵の方が」
「そちらは、もう担架で運び始めています」
ルクスが南の道を示す。
兵は仲間たちに運ばれ、先に荷車へ向かっていた。
「担架は、もう一つあります」
「私は座って帰れます」
「ここから荷車まで、歩くおつもりですか」
「肩を借りれば――」
「フィリア様」
静かな声だった。
けれど、譲ってくれる声ではない。
「あなたが強いことと、僕が心配することは、別ですよ」
私は口を閉じた。
以前なら、まだ動けると答えていたと思う。
けれど今は、彼が待っていると言ってくれた場所まで戻ってきた。
そして彼は、私を休ませるためにここにいる。
「……では、お願いします」
答えると、ルクスの肩から僅かに力が抜けた。
「はい」
担架が運ばれてくる。
そこへ座る前に、私は地竜を振り返った。
倒れた巨体のそばで、兵たちが周囲の安全を確かめている。
石工は崩れた場所を見て、今夜のうちに近づいてよい範囲へ印をつけていた。
カレンは矢の本数と壊れた弩を調べ、グランは見張りの配置を決めている。
私一人で倒したのではない。
私一人で、守ったのでもない。
「ルクス」
「はい」
「皆さん、戻れますね」
彼は石切り場を見渡した。
「はい。怪我をした方も、意識はあります。全員、帰れます」
その言葉を聞いて、ようやく担架へ体を預けた。
ルクスが私の外套を畳み、背中と木枠の間へ入れてくれる。
「痛くありませんか」
「大丈夫です」
「今度は、本当ですね?」
「ええ。本当に」
彼はようやく、少しだけ笑った。
私も笑い返した。
山の向こうには、夕暮れの光が残っている。
地竜のために止まっていた泉を直す仕事も、村へ人々を戻す仕事も、これからだった。
それでも今日は、皆で帰ることができる。
担架が持ち上がる。
ルクスはそのすぐ隣を歩き始めた。
私は手袋をはめた手を伸ばし、彼の繕われた袖口をそっとつまんだ。
ルクスが振り向く。
「どうされました?」
「……ここにいらっしゃるか、確かめただけです」
彼は一度目を見開いた。
それから、歩調を緩める。
「はい。ここにいます」
私は袖から手を離さなかった。
ルクスも、離してほしいとは言わなかった。
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