第16話
石切り場を出る頃には、空の端が赤く染まっていた。
先に運ばれた兵は、荷車の上で脚を固定されている。石に挟まれた箇所は腫れていたが、指先は動き、感覚もあるという。
私の担架は、その荷車の後ろを進んだ。
道の狭いところでは、石工の若者が先に立つ。
「次、右へ傾きます」
声がかかるたび、担架を持つ人たちが歩調を揃えた。
ルクスは私の左側にいる。
曲がり角へ来ると、先に進んで石を除け、また元の位置へ戻ってきた。
私が袖口を放してからも、遠くへは行かなかった。
「ルクス」
「はい」
「少し、休んでくださってもよいのよ」
「僕は担架を持っていませんから」
「けれど、ずっと歩いています」
「フィリア様も、ずっと座っています」
思いがけない返事に、私は瞬いた。
「……座っている方が、楽なのでは?」
「怪我をして担架に乗っている方へ、それは申しません」
ルクスは真面目な顔をしていた。
けれど、口元には僅かに笑みがある。
私も少し笑った。
「では、館へ着いたら、二人とも休みましょう」
「はい。今度は、きちんと見届けます」
「私も、あなたが休むところを見届けますわ」
答えると、彼は困ったように目を伏せた。
「それでは、どちらも先に休めませんね」
「一緒にお茶を飲んでからなら、どうかしら」
「それなら」
ルクスは頷いた。
「約束できます」
*
館の門が見えると、待っていた人々が一斉にこちらを向いた。
誰かが討伐成功を伝えたのだろう。
安堵の声が広がりかけ、先頭の荷車に怪我人がいると分かると、すぐに道が開けられた。
「湯を用意してあります」
「下の部屋を空けました。寝台もあります」
館に身を寄せていた人たちが、次々に声をかける。
怪我人は館の一階へ運ばれた。
村で家畜の手当てをしてきた女性が、兵の脚を診てくれる。カレンもそばに付き、いつ、どのように挟まれたかを説明した。
私の担架は、その隣の小部屋へ入れられた。
「お嬢様」
セバスチャンが扉の前で待っていた。
頬の傷と、血のついた袖を見る。
いつもと変わらない表情だったが、両手が一度だけ強く組まれた。
「この血は、地竜のものです」
私は先に伝えた。
「左様でございますか」
セバスチャンは静かに頷いた。
「では、お嬢様のお怪我を、順に伺いましょう」
ルクスが私の隣で小さく息をつく。
「僕も、同じことを言われました」
「大切なことですもの」
「はい。僕も、そう思います」
二人の意見が揃ってしまった。
私は大人しく、頬と足首を診てもらうことにした。
*
頬の傷は浅かった。
洗う時に少し沁みたけれど、細い布を当てれば済むという。
足首には、冷たい水へ浸した布が巻かれた。
「今夜は、なるべく高くして休んでください」
手当てをしてくれた女性が言う。
「明日の朝、腫れが増えていなければ、少しずつ足をついてもよいでしょう。ただし、山へは行かないでください」
「泉の様子を――」
「行かないでください」
「……はい」
女性は私の返事を聞いてから、ようやく手を離した。
ルクスが隣で頷いている。
「ルクスまで、そのようなお顔をなさらなくても」
「どのような顔ですか」
「よく言ってくださった、というお顔です」
「その通りです」
迷いなく答えられ、私は口を閉じた。
手当てをした女性が笑いをこらえるように俯く。
領主として命令を出す時より、休むように言われた時の方が、どうして返事に困るのだろう。
「地竜の確認は、グランさんたちがしてくださいます」
ルクスが言った。
「今夜は兵の方が見張りに残ります。泉へ入るのは、明るくなってからです」
「分かっています」
「本当に?」
「……先ほども、同じことを聞きましたわね」
「今度は、山へ行かないという意味で」
「行きません」
私が約束すると、ルクスはようやく椅子の背へ体を預けた。
そこで初めて、彼の顔にも疲れが残っていることに気づいた。
私は手当てをしてくれた女性へ礼を言い、部屋を出る背中を見送る。
セバスチャンも、汚れた服を替える準備をすると言って退室した。
部屋には、私とルクスだけが残った。
「手を見せてくださる?」
「僕のですか」
「ええ」
彼は不思議そうにしながら、両手を差し出した。
掌には細かな土が入り、指の付け根が赤くなっている。
担架の用意や、道の石を退けた時についたものだろう。
「擦れています」
「これくらいなら、怪我には入りません」
「あなたが強いことと、私が心配することは、別です」
同じ言葉を返すと、ルクスが目を見開いた。
私は卓に残っていた清潔な布を取り、水差しの水で湿らせる。
「こちらへ」
「フィリア様は、足を動かさないでください」
「では、あなたが近くへ来てくださる?」
ルクスは少し迷った後、椅子を私のそばへ移した。
私は彼の手を取り、指についた土を拭った。
掌は冷たかった。
「石切り場でも、冷たかったのですか」
「分かりません。あの時は、あまり」
「怖かった?」
尋ねると、彼は黙った。
私は答えを急かさず、もう片方の手へ布を移す。
「……怖かったです」
やがて、ルクスが言った。
「地竜が出てきた時も。弩が倒れた時も。フィリア様が岩陰から出られた時も」
「ええ」
「何度も、行ってはいけないと思いました」
彼の指が僅かに曲がる。
「でも、僕が走っていっても、邪魔になります。だから、怪我をした方を運ぶことだけ考えました」
「ありがとう」
「何も、できなかったわけではありません。でも……」
ルクスが視線を落とす。
「待っているのは、難しいですね」
私は彼の手を拭くのを止めた。
石切り場の南側で、彼は自分の役目を果たしていた。
退路を整え、怪我人を受け取り、荷車まで運ぶ手配をした。
それでも、私の姿を見ながら待つことは、きっと苦しかったのだ。
「私も、同じでした」
「フィリア様も?」
「あなたが担架を持って待っているのが見えました。あちらへ地竜が向いたら、どうしようと思っていました」
私は彼の掌を包んだ。
「だから、戻れてよかった」
ルクスが顔を上げる。
「あなたのところへ」
言葉にすると、胸の奥が少し熱くなった。
けれど、目は逸らさなかった。
彼も、しばらく私を見つめていた。
「……お帰りなさい」
小さな声だった。
「ただいま、ルクス」
彼の手が、私の手をそっと握り返した。
*
約束したお茶は、セバスチャンが運んでくれた。
着替えを済ませた私は、長椅子へ足を上げている。
ルクスは向かいではなく、すぐ隣の椅子へ座った。
茶葉を量る匙も、湯を注ぐ茶器も、今日は私たちの手元にはない。
「お嬢様もルクス殿も、本日は給仕される側でいらしてくださいませ」
セバスチャンはそう言い、二人分の杯を置いた。
小皿には、薄く切った林檎が並んでいる。
「少し酸味のある方を選びました」
家令が付け加える。
ルクスが私を見る。
「僕の好みを?」
「セバスチャンへ、お話ししたことはありません」
「厨房では、よく召し上がっておられましたので」
セバスチャンが答えた。
「人の好みというものは、案外、日々の中に表れるものでございます」
それだけ言って、彼は部屋を出ていった。
私は小皿とルクスを見比べた。
「皆、よく見ているのですね」
「……そうですね」
ルクスは林檎を一切れ取り、少し考えてから半分に割った。
片方を私へ差し出す。
「酸っぱい方も、召し上がりますか」
「ええ。半分なら」
受け取って口へ入れる。
予想していたより酸味が強く、思わず目を細めた。
「やはり、酸っぱかったですか」
「少しだけ」
「無理をして、僕に合わせなくてもよいんですよ」
「合わせたい時もあります」
答えると、ルクスの手が止まった。
私も、自分の言葉を聞いてから頬が熱くなる。
「全部ではありませんわ。好きなものが違っても、半分ずつなら一緒に味わえるでしょう?」
「……はい」
ルクスは残りの半分を食べた。
「では、甘く煮た林檎も、今度は半分ずつに」
「そちらは、私が多めでもよいかしら」
「公平ではありませんね」
「お茶を淹れる役をいたします」
「それなら考えます」
仕事の相談なら、もっと迷わず決められるはずなのに。
林檎一切れの分け方に、二人とも真剣な顔をしている。
それがおかしくて、私たちは小さく笑った。
*
翌朝、足首の腫れは少し残っていた。
けれど、昨日より痛みは軽い。
杖を借り、セバスチャンに付き添われて一階へ下りると、執務室にはすでに報告が届いていた。
地竜の死体は、夜の間も動かなかった。
周辺に別の地竜の足跡はない。
泉の崩落は広がっておらず、石工が遠くから見た限りでは、仮の水路を作れる可能性があるという。
「今日、泉へ入るのは、グランと兵の方、それから石工ですね」
「はい。カレンさんも同行します」
ルクスが答えた。
「僕は館で、地竜の素材を扱える人を探します。隣領の方が、解体に慣れた職人へ使いを出してくださいました」
「地竜は、あのまま運べませんものね」
「ええ。先に現地で分ける必要があります。鱗と皮、牙、爪、魔石。それぞれ扱い方が違うそうです」
私は報告書へ目を落とした。
討伐すれば終わりではない。
解体する人。
素材を保つための塩や油。
石切り場から運び出す荷車。
売却先までの護衛。
必要なものが、次々に浮かぶ。
「費用を先に見積もりましょう。売却額が出るまで、領内の支払いを止めるわけにはいきません」
「はい。魔狼の時より、ずっと大がかりになります」
「泉の修繕費も、別に取っておきたいです」
ルクスが新しい紙を広げる。
私も椅子へ座ろうとして、杖を壁へ立てかけた。
その時、彼が私の前へ足台を置いた。
「足を下ろしたままにしないでください」
「仕事がしにくくなりませんか」
「紙は僕が取ります」
「それでは、ルクスばかり動くことに」
「僕が疲れたら、お願いします」
「私に?」
「休むように言ってください」
私は彼を見た。
昨日までなら、冗談だと思ったかもしれない。
けれど、ルクスは本当に、自分から頼んでくれていた。
「分かりました。きちんと見ていますね」
「お願いします」
彼は柔らかく笑った。
私は足を台へ載せ、受け取った報告書を開く。
窓の外では、空の荷車が石切り場へ向けて出発するところだった。
地竜が残したものを、冬を越すための力へ変える。
そして、止まった水を村へ戻す。
守った後にも、仕事は続いている。
けれど今は、その仕事を一緒に担う人たちがいた。
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