第17話
地竜討伐の翌々日、王都へ送る報告書が整った。
討伐に加わった者の名。
避難した領民の人数。
負傷者の容体。
使用した弩と矢、破損した器具。
地竜を発見してから討伐に至るまでの経緯も、グランとカレンの証言を照らし合わせて記してある。
私は最後の頁を読み、ペンを止めた。
「こちらの一文ですけれど」
「どこでしょう」
ルクスが椅子を寄せる。
私は、討伐者について書かれた箇所を指した。
「『レインズワース女伯爵が地竜へ致命傷を与えた』とあります」
「事実です」
「けれど、重弩の矢が胸へ入っていなければ、私は近づけませんでした。それに、グランとカレンが脚と頭を止めてくださらなければ」
「次の行に記してあります」
ルクスの指が、文章を辿る。
「隣領から派遣された討伐隊、領内の警備を担う者、猟師、石工、大工、村人たちの協力によって討伐に至った、と」
「それなら、よいのですけれど」
私はもう一度、文章を読み直した。
自分の名だけが大きく残ることには、まだ落ち着かなかった。
「討伐の記録には、最後に傷を与えた方の名前を明記する決まりがあるそうです」
ルクスが説明する。
「魔石や素材の所有権を確かめるためでもあります。ただ、今回の費用や分配については、別紙に全員分を記載しました」
「負傷した兵の治療費も?」
「はい。弩の修繕費と、隣領への謝礼も」
私は頷き、報告書の末尾へ署名した。
レインズワース女伯爵、フィリア。
その下へ、伯爵家の印章を押す。
王都で婚約者として過ごしていた頃、この名を公文書へ記す機会はほとんどなかった。
けれど今は、祖母から受け継いだ土地について、私自身の名で報告している。
「王都へは、どのくらいで届くかしら」
「道が順調なら、六日ほどです」
「雪が降る前に、返事が届くとよいのですけれど」
「地竜の素材を王都で売るとは限りません。返事を待たずに、近隣の商人からも見積もりを取りましょう」
「ええ。比べてから決めましょう」
ルクスが報告書を封筒へ収める。
私は手を伸ばしかけ、足台の上で姿勢を崩した。
ルクスがすぐに封蝋をこちらへ持ってくる。
「動かなくても、届きます」
「……ありがとう」
「足は、まだ治っていませんから」
彼の言う通りだった。
私は大人しく、差し出された封蝋へ印を押した。
*
報告書が王城へ届いたのは、七日後だった。
北からの早馬が運んだ封書は、魔物討伐を扱う部署で確認された後、軍務を預かる大臣のもとへ送られた。
そこまでは、通常の手順だった。
問題となったのは、討伐された魔物の種類と、報告書に記された名前である。
「地竜?」
大臣は、同じ文字を二度読んだ。
「レインズワース領に現れたものを、一日で討伐したというのか」
「発見からは数日かかっております。領民の避難と地形の調査を行い、隣領から重弩を借り受けています」
書記官が答えた。
「討伐戦そのものは?」
「日暮れ前の、短い時間で」
大臣は次の頁をめくった。
重弩による二射。
倒れた弩の復旧。
負傷者の救出。
最後に地竜の首下へ剣を入れた者。
「フィリア・レインズワース女伯爵」
「はい」
「ローゼンベルク公爵の娘ではなかったか」
「婚約解消後は、継承済みのレインズワース家名を使用しております」
「剣の記録など、あったか」
「公的な大会への出場歴はございません。ただ、故アイリス・レインズワース伯爵から、幼少より直接指導を受けていたとの証言が」
大臣の手が止まった。
「アイリス殿から?」
その名を知らない者は、軍務に関わる古参の中にはいなかった。
北の国境を守り、幾度も魔物の群れを退けた女騎士。
引退後は表立って剣を取らなかったが、彼女の名は今も古い記録に残っている。
「陛下へお見せする」
「王妃陛下にも、でしょうか」
大臣は報告書へ視線を落とした。
少し考えてから、深く息を吐く。
「……隠した方が、後で恐ろしい」
*
王妃は、午後の茶を一口も飲まなかった。
開かれた報告書を前に、背筋を伸ばしたまま座っている。
向かいには国王と軍務大臣がいた。
誰も、先に口を開こうとはしなかった。
「確認いたします」
王妃が静かに言った。
「この報告書にあるフィリア・レインズワース女伯爵とは、アルフレッドの元婚約者だったフィリアで間違いありませんね」
「間違いない」
国王が答えた。
「では、彼女は婚約解消後、祖母から受け継いだ北の領地へ移ったのですね」
「ああ」
「私が聞いていたのは、王家との婚約を解消し、本人の希望によって領地経営へ専念する、という話でした」
国王の視線が、僅かに動いた。
王妃はそれを見逃さなかった。
「ほかに、私へ伝えていないことがあるのですか」
「婚約解消の発端となった宣言は、アルフレッドが許可なく行った」
「それは聞いております。正式な手続きの前に、夜会で別の令嬢を伴い、フィリアへ婚約破棄を告げたのでしょう」
王妃の声は、まだ穏やかだった。
「私はそれを、公の場における軽率な発言だと理解していました。フィリアへの侮辱については、既に本人へ謝罪したものと」
国王は答えなかった。
「していないのですね」
「正式な解消書類は届けた」
「書類が、謝罪の言葉を話すのですか?」
王妃は報告書を閉じた。
厚い紙が重なる音に、大臣の肩が僅かに揺れる。
「それから、ローゼンベルク公爵家を出されたと聞きました」
今度は大臣が顔を上げた。
その点は、報告書の付記に記されていた。
フィリアに同行した家令が一人。
公爵家からの金銭的な支援はない。
領内の当面の資金には、フィリア個人の装身具を売却した金が貸し付けられている。
「マルクスは、娘が継いだ領地を追放先にしたつもりなのでしょうか」
王妃の指先が、閉じた報告書の上へ置かれる。
「レインズワース領は、アイリス様が正式な遺言によってフィリアへ譲ったものです。ローゼンベルク公爵家の所有物ではありません。まして、父親が罰として与えたり、取り上げたりできる土地ではない」
「その通りだ」
「その通りだと理解していながら、なぜ誰も私へ知らせなかったのです」
国王は重く息を吐いた。
「婚約の解消だけでも、宮廷は混乱していた。お前は療養先から戻ったばかりだった」
「私を気遣ったと?」
「そういう面もある」
「では、お気遣いは無用でしたね」
王妃は立ち上がった。
声を荒らげたわけではない。
それでも室内の空気が、一段冷えたように感じられた。
「私はフィリアを、王子妃となる娘としてだけ見ていたのではありません」
王妃の脳裏に、幼い少女の姿が浮かんだ。
長い講義を終えた後でも、弱音を吐かずに次の書物を開く子だった。
問いを与えれば、答えだけでなく、なぜそう考えたかを話した。
褒めれば、嬉しそうに目を伏せる。
けれど自分の望みを尋ねると、いつも少し困った顔をした。
「私が若い頃、アイリス様にどれほど憧れていたか、陛下もご存じでしょう」
「ああ」
「北から王都へ戻られたあの方を、一度だけ、城の訓練場で拝見しました。白銀の髪を結び、泥のついた鎧のまま、兵たちの負傷について報告しておられた」
王妃は窓の外へ目を向けた。
「戦果ではなく、まず帰れなかった者の名を告げた方でした」
やがて王都の社交界で再会したアイリスは、剣を礼装へ持ち替えていた。
それでも、誰かの後ろへ隠れるような人ではなかった。
王妃がまだ王太子妃だった頃、怯まず意見を述べてくれた数少ない女性でもある。
「フィリアの目元は、アイリス様によく似ています」
「そうだな」
「似ているのは顔だけではなかったようですね」
王妃は、再び報告書を開いた。
住民を先に避難させたこと。
未知の魔物へ軽率に近づかなかったこと。
援軍を求め、土地を知る者の意見を集めたこと。
重弩を使ってもなお倒れなかった地竜へ、仲間とともに最後の一撃を与えたこと。
そして報告書の末尾には、自分以外の功績と負傷者への補償が細かく記されている。
「……本当に、よく似ておられます」
王妃の声から、わずかに怒りが抜けた。
代わりに、寂しさが混じった。
「それなのに私は、あの子が王都を去ったことすら、正式な書類でしか知りませんでした」
*
アルフレッドが呼び出されたのは、その日の夕刻だった。
母の私室へ入ると、卓上に北からの報告書が置かれていた。
「お呼びでしょうか、母上」
「座りなさい、アルフレッド」
王妃は息子へ椅子を勧めた。
笑みはない。
アルフレッドは腰を下ろしたが、報告書へ目を向けた。
「北で、地竜が討伐されました」
「地竜が?」
「レインズワース領で。領民は事前に避難し、死者は出ていません。負傷者も命に別状はないそうです」
「それは、喜ばしいことです」
「討伐に加わった領主は、フィリアです」
アルフレッドの表情が止まった。
「フィリアが?」
「ええ。剣を取り、地竜の首下へ致命傷を与えたとあります」
「何かの間違いでは」
思わず出た言葉に、王妃の目が細くなった。
「なぜ、そう思うのです」
「フィリアは剣士ではありません。王子妃になるため、礼儀や政務を学んでいた令嬢です」
「アイリス様から剣を学んでいました」
「それは、子どもの頃の習い事でしょう」
「あなたは、フィリアがどのくらいの期間、剣を学んでいたか知っているのですか」
アルフレッドは答えられなかった。
「どのような剣を使うかは?」
沈黙が続く。
「毎朝、鍛錬を続けていたことは?」
「……知りません」
「では、なぜ間違いだと言えるのです」
王妃の問いに、アルフレッドは視線を落とした。
フィリアが剣の話をしようとしたことはあった。
幼い頃、祖母と稽古をしたと。
けれど自分は、王子妃となる者が武芸の話ばかりするものではないと、途中でやめさせた。
それ以降、彼女は剣について語らなくなった。
「母上は、フィリアを庇うのですか」
「庇う?」
王妃の声が低くなった。
「これは、あなたとフィリアのどちらが正しいかという話ではありません。あなたが、婚約者であった女性へ何をしたかという話です」
「私は、愛情のない婚約を続けるべきではないと思いました」
「婚約を見直したいと申し出ることと、公の場で相手を辱めることは同じではありません」
「ですが、フィリアは何にでも口を出し――」
「渇水に備えた井戸の整備を進言した時も?」
アルフレッドが言葉を止める。
「式典の警備費を削るべきではないと申した時も? 他国から買う麦の量を、収穫量が確定する前に減らすべきではないと申し上げた時も?」
「なぜ、それを」
「彼女の進言書を読んでいたからです。王子妃教育の一環として、私へ写しが届いていました」
王妃は一枚の紙を取り出した。
「彼女の予測通り、南部では井戸が不足しました。式典では警備を減らした門で騒ぎが起きた。麦の値も、今年は上がっています」
「それは結果論です」
「ええ。進言が常に正しいとは限りません。だから話し合うのです。耳に心地よくないという理由で、遠ざけるのではなく」
アルフレッドは唇を結んだ。
王妃は息子を見つめた。
「あなたは、フィリアに戻ってきてほしいと思いますか」
突然の問いに、アルフレッドが顔を上げた。
「それは――」
「よく考えて答えなさい。彼女が地竜を討ったからですか。領地を立て直し始めたからですか。失ってから惜しくなったからですか」
「私は、まだ何も」
「ならば、今は何もしてはいけません」
王妃は明確に告げた。
「謝罪は必要です。けれど、謝罪をしたからといって、彼女にあなたを許す義務も、再び選ぶ義務もありません」
「母上」
「フィリアの価値は、地竜を討ったことで生まれたのではない。あなたに選ばれ直すことで証明されるものでもありません」
アルフレッドは言葉を失った。
王妃は報告書を閉じた。
「まず、自分が彼女の何を知っていたのか、お考えなさい」
*
アルフレッドが退室した後、王妃は侍女へ新しい便箋を用意させた。
王家の紋章が入った公文書ではない。
淡い色の、私的な手紙に使う紙だった。
最初の一行を書き、王妃は手を止める。
フィリアへ何と呼びかけるべきか、少し迷った。
王子の元婚約者としてではなく。
アイリスの孫としてだけでもなく。
北の土地を自ら治める、一人の女伯爵として。
やがて、王妃はペンを動かした。
『親愛なるフィリア・レインズワース女伯爵へ』
地竜討伐を称える前に、王都を去る時に力になれなかったことを詫びる。
婚約を戻すような言葉は、一つも書かなかった。
代わりに、領民を守り、仲間とともに全員で帰ったことを誇りに思うと記した。
そして最後に、個人としての願いを添える。
『あなたがアイリス様から受け継いだ土地で、あなた自身の望む未来を選べることを願っています』
王妃は手紙を読み返し、封をした。
「この手紙は、明朝一番の便で北へ」
「かしこまりました」
「それから、地竜討伐に対する報奨金を確認してください。女伯爵個人だけでなく、参加者と負傷者へ正しく届く形で」
侍女が一礼する。
「ローゼンベルク公爵と、婚約解消の手続きを担当した者には、明日、登城するように伝えなさい」
「王妃陛下。公爵には、どのようなご用件と」
王妃は微笑んだ。
美しい、隙のない微笑みだった。
「フィリアが公爵家を出るまでの経緯を、詳しく伺いたいと」
侍女の背筋が伸びた。
「一言も省かずに、と付け加えてください」
王妃はようやく、冷めた茶へ手を伸ばした。
けれど一口飲むと、静かに杯を戻した。
「淹れ直していただける?」
「すぐに」
「今日は、少し濃いものを」
王妃の怒りは、まだ少しも冷めていなかった。
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