第18話
翌朝、王妃の私室前には、予定にない来客が三人並んでいた。
一人は、白い口髭を整えた元近衛騎士。
一人は、北方の魔物に関する記録を何冊も編纂した老学者。
もう一人は、かつて王都の救護院を取り仕切っていた伯爵夫人だった。
三人とも、王妃へ面会を求めている。
用件を尋ねた侍従は、同じ答えを三度聞くことになった。
「アイリス様のお孫様についてです」
侍従は困り果て、王妃付きの侍女へ取り次いだ。
事情を聞いた王妃は、額へ手を当てる。
「……もう伝わったのですね」
「地竜討伐の報告を閲覧した者から、広がったようでございます」
「軍務に関わる記録でしょう。誰が口外したのです」
「皆様、口外ではなく、昔からの連絡網だと主張しておられます」
「同じことです」
王妃はため息をついた。
しかし、三人を追い返すことはしなかった。
「お通しなさい。別々に話を聞けば、日が暮れます」
*
三人は王妃の前へ通されると、礼儀正しく一礼した。
それぞれの身分も経歴も申し分ない。
普段であれば、若い貴族たちへ落ち着きの手本として紹介できる者ばかりだった。
ただし、アイリス・レインズワースの話となると、少しだけ事情が変わる。
「地竜を討ったというのは、真でございましょうか」
元近衛騎士が、挨拶を終えるなり尋ねた。
「正式な報告書が届いています」
「剣で、首下の鱗の隙間を?」
「報告では、そのように」
「やはり……」
老騎士は目頭を押さえた。
隣の学者も、何度も頷いている。
「関節や鱗の向きを見るのは、アイリス殿の剣そのものです。若い頃、彼女は岩蜥蜴を――」
「そのお話は、三度伺いました」
伯爵夫人が静かに遮った。
「今は、お孫様のお話を」
「失礼。ですが、あれは実に見事な――」
「四度目になりますよ」
王妃は三人を見渡した。
「あなた方がフィリアのことを心配しているのは分かります。ですが、まず一つ確認させてください」
三人が姿勢を正す。
「アイリス様を慕う会は、まだ解散していなかったのですか」
短い沈黙が落ちた。
「正式には、解散したことになっております」
学者が答えた。
「なっている、とは?」
「アイリス殿ご本人から、恥ずかしいからやめろと言われまして」
元近衛騎士が視線を逸らす。
「それで、名称だけを変更いたしました」
「何に?」
「北方史料研究会です」
「活動内容は?」
「アイリス殿の戦歴の整理、証言の収集、ゆかりの土地の保全、それから年に一度、皆で思い出を語る会食を」
「変わっていませんね」
王妃が言うと、三人は黙った。
伯爵夫人だけが、扇の陰で僅かに笑っている。
「若い者たちは、ファンクラブと呼んでおります」
「おやめなさい」
「王妃陛下も、名簿にお名前がございますけれど」
「……それとこれとは別です」
王妃は威厳を保ったまま答えた。
元近衛騎士が小さく咳払いをする。
「陛下は、二十七番でございましたな」
「番号まで口にしなくて結構です」
「アイリス殿から初めて剣帯をいただいた時のことを、会報へ寄稿してくださったのは――」
「本日の議題へ戻りましょう」
王妃の声が少し低くなった。
三人はすぐに口を閉じた。
*
アイリスを慕う者は、騎士ばかりではなかった。
北の戦で救われた商人。
負傷した兵のために薬を届けた治療師。
夫を亡くした後、家督を継ぐべきか悩んでいた時に励まされた女当主。
若い頃の王妃も、その一人だった。
アイリス自身は、集まりができたと知った時、ひどく困った顔をしたという。
『私を眺めている暇があるなら、一つくらい誰かの役に立ちなさい』
そう言われた結果、会の者たちは救護院へ寄付をし、兵の遺族を支え、北方の街道整備へ金を出した。
解散を命じられても完全には消えなかったのは、アイリスを褒め称えるだけの集まりではなくなっていたからでもある。
「私どもは、フィリア様が幼い頃から存じ上げております」
伯爵夫人が言った。
「直接お声をかけることは、ほとんどございませんでしたけれど」
「なぜです」
「アイリス様から、孫を自分の付属物として見るなと言われておりましたから」
その言葉に、王妃は静かに頷いた。
いかにもアイリスが言いそうなことだった。
「フィリア様が王子妃教育を始められてからも、陰ながら見守っておりました。救護院の帳簿について質問をくださったこともございます」
「私のところへは、北方の水路に関する古い資料を借りに来られました」
学者が続ける。
「返却期限より早く、傷一つつけずに返されました。読んでおられる間に、ご自身で要点を写されて」
「近衛の訓練場では、アイリス様の古い剣術書を探しておられました」
元近衛騎士が言う。
「お教えしようかと申し上げましたが、祖母に習っておりますので、と丁寧に断られました」
「それは、何歳の頃ですか」
「十歳です」
老騎士は胸を張った。
「実に凛々しくていらした」
三人とも、フィリアがアイリスに似ているから目をかけていた。
けれど、似ているところを見つけるたびに、同じ人物ではないことも知っていった。
アイリスは迷えばまず現場へ足を運ぶ人だった。
フィリアは、現場へ行く前に必要な記録を揃えようとする。
アイリスは声が大きく、人を引っ張っていく。
フィリアは相手の話を最後まで聞き、静かな声で結論を出す。
剣筋や目元は似ていても、フィリアはフィリアだった。
「それなら、なぜ公爵家を出された時に、誰も気づかなかったのです」
王妃の問いに、三人の表情が曇った。
「私どもも、正式な婚約解消だと聞いておりました」
伯爵夫人が答えた。
「フィリア様は、既にご自身の領地をお持ちでした。北へ移られたのも、領主としての判断なのだと」
「本人の意思を尊重するつもりで、確かめなかったのです」
学者が膝の上で手を握る。
「見守っていると思っていたのは、こちらだけだったのかもしれません」
王妃は責める言葉を口にしなかった。
自分も同じだった。
フィリアは礼儀正しく、いつも求められた役割を果たしていた。
だから、助けを求めていないように見えた。
見えたのではない。
そう思い込んでいただけだ。
「それで、今日は何を望んでいるのです」
王妃が尋ねると、三人は顔を見合わせた。
最初に口を開いたのは伯爵夫人だった。
「北へ押しかけることはいたしません」
「賢明です」
「求められていない縁談を持ち込むことも」
「当然です」
「地竜を討った記念の像を建てることも」
「それは誰の案ですか」
元近衛騎士と学者が、同時に目を逸らした。
「許可しません」
「まだ場所も決めておりませんが」
「場所の問題ではありません」
王妃はきっぱりと言った。
フィリアが、自分の像を見上げて困り果てる姿が容易に想像できた。
「では、冬支度に必要な品を、正当な取引として購入できないかと考えております」
学者が新しい紙を差し出す。
「地竜の素材を欲しがる工房は多い。ですが、知識のない商人へ一括で売れば、買い叩かれる恐れがあります。私どもの知る工房から、それぞれ見積もりを出させます」
「救護院では、地竜の骨粉と魔石の一部を研究用に求めています」
伯爵夫人も続けた。
「代金は適正に。運搬費も、購入側が負担する形で」
「私は、近衛で防具を作る職人へ鱗を見せたい」
元近衛騎士が言う。
「売買が成立すれば、北へまとまった金が入る。もちろん、女伯爵が売却を望まれる場合に限ります」
王妃は差し出された紙を読んだ。
ただ金銭を贈るのではない。
フィリアが守った土地の資源を、正しい価値で取引するための提案だった。
「よいでしょう。ただし、王妃やあなた方の名を使って、承諾を迫ることは許しません」
「承知しております」
「見積もりは複数。素材の一部を領内に残す選択肢も明記すること。解体と保存に携わった者への支払いを先に確保するように」
三人が一斉に頷いた。
その動きが妙に揃っていて、王妃は目を細めた。
「……会合の時も、そのように揃うのですか」
「乾杯の時だけでございます」
伯爵夫人が答えた。
「掛け声は?」
王妃が尋ねると、元近衛騎士が口を開きかけた。
伯爵夫人の扇が、その腕を軽く打つ。
「申し上げなくて結構です」
「賢明ですね」
*
その日の午後、ローゼンベルク公爵マルクスが王城へ登った。
案内された部屋には、王妃だけでなく、法務を預かる官吏と、古い相続記録を管理する書記官もいた。
卓上には、アイリスの遺言書の写しが置かれている。
マルクスは一礼し、席へ着いた。
「お呼びとのことでしたが」
「フィリアが公爵家を出た時のことを伺います」
王妃が告げた。
「婚約を解消された娘を、いつまでも公爵家へ置いておくわけにはまいりません。本人には、既に領地がございましたので」
「その領地は、あなたが用意したものではありません」
「承知しております」
「では、フィリアへ旅費や護衛をつけましたか」
マルクスは一瞬、黙った。
「家令が一人、同行を望みました」
「それはセバスチャン本人の意思ですね。あなたが命じたのではない」
「……はい」
「領地の財政状況を調べ、引き継ぎを整えましたか」
「現地には代官がおりました」
「その代官は、既に職を離れていました」
書記官が記録を開く。
「最後の正式な報告は、女伯爵の到着より三月前です」
マルクスの眉が僅かに動いた。
「それは、私の管理する領地ではないため」
「その通りです」
王妃は静かに答えた。
「あなたに処分権はない。しかし、父として娘を突然家から出した経緯を問うています」
「フィリアは成人しております。女伯爵として、自立すべき立場です」
「自立と、見放すことを同じにしてはいけません」
王妃の声は穏やかだった。
「あなたは、フィリアが地竜を討ったことをご存じですか」
「今朝、聞きました」
「剣を扱えることは?」
「母上が、幼い頃に教えていたことは存じております」
「どの程度の腕かは?」
マルクスは答えなかった。
王妃は、昨日息子へしたのと同じ問いを、今日は父親へしていることに気づいた。
どちらも、フィリアが与えられた役割を果たすことだけを見ていた。
彼女が何を学び、何を好きで、何を恐れていたのか。
ほとんど知らなかった。
「アイリス様は、フィリアをただの後継者として選んだのではありません」
王妃が言う。
「自分の意思で人生を選べるように、土地と名を託されたのです」
「母上の考えは、私にもすべて理解できたわけではありません」
「理解しようとなさったのですか」
マルクスの口が閉じた。
王妃はそれ以上、感情に任せて責めなかった。
代わりに、法務官へ顔を向ける。
「公爵家から持ち出すことを許されなかったフィリア個人の品がないか、確認してください。母から娘へ贈られたもの、アイリス様から遺されたものも含めて」
「承知いたしました」
「所有権がフィリアにあると確認された品は、本人へ目録を送り、返還の意思を尋ねます。勝手に北へ送りつけてはなりません」
王妃はマルクスを見る。
「彼女のものを、今度こそ彼女自身に選ばせます」
*
王都でそのような話が進んでいる頃、私は地竜の鱗を前に、ルクスと一緒に首を傾げていた。
館の倉庫へ運ばれたのは、全体のごく一部だった。
それでも、大きなものは盾ほどもある。
表面は濃い灰色で、光の角度によって僅かに青く見えた。
「一枚で、どのくらいの価値になるのでしょう」
私が尋ねると、解体を担当した職人は腕を組んだ。
「大きさだけなら、かなり。ただ、傷の有無と、どこの鱗かで変わります。背のものは硬いが、加工が難しい。腹側は薄くて扱いやすい」
「魔狼の皮より、分け方が多いのですね」
「地竜一頭を丸ごと扱う機会なんて、そうありませんからね。わしも、一人では値を決められません」
「では、複数の方へ見積もりをお願いしましょう」
ルクスが帳面へ書き込む。
「保存に必要な費用も、先に教えてください。運び出すまでに傷めては意味がありません」
職人が頷いた。
私は倉庫の隅に置かれた木箱を見た。
牙と爪はそれぞれ布へ包まれ、採れた場所を書いた札がついている。
魔石は、隣領から来た兵とこちらの担当者が立ち会い、封印した箱へ収めた。
「売却額が決まるまで、まだかかりそうですわね」
「はい」
ルクスが答える。
「でも、急いで一括で売るよりよいと思います」
「ええ。冬は待ってくれませんけれど、安く手放して後悔する余裕もありませんもの」
私たちは倉庫を出た。
足首は、杖を使わなくても歩けるほどに回復している。
ただ、ルクスが隣で私の歩幅を見ているので、急ぐことはできなかった。
「もう、痛みません」
「知っています」
「では、もう少し速く歩いても」
「医師代わりをしてくださった方から、今日まではゆっくりと伺っています」
「いつの間に」
「朝です」
「私の知らないところで、連絡を取り合っていらっしゃるのね」
「フィリア様が無理をなさらないためです」
「皆さんの結束が、強すぎませんか」
私が言うと、ルクスは少し笑った。
「領主様を休ませる会です」
「そのような会は、解散してくださいませ」
「会員が多いので、難しいと思います」
「ルクスが会長なの?」
彼は少し考えた。
「セバスチャンさんかもしれません」
否定はしなかった。
私は困った顔のまま、彼の歩調に合わせた。
*
王都から最初の手紙が届いたのは、それから数日後だった。
王妃からの私信と、王家による討伐報奨の通知。
それとは別に、見覚えのない封蝋がついた手紙が三通あった。
「北方史料研究会?」
差出人を読み上げると、セバスチャンの眉が僅かに上がった。
「ご存じなのですか」
「ええ、まあ」
「何ですの、その間は」
「アイリス様とご縁のあった方々の集まりでございます」
「研究会なのですね」
「現在は、そのように名乗っておられます」
私は首を傾げた。
ルクスが一通目を開き、中の書類を確かめる。
「地竜の鱗について、三つの工房から見積もりを出したいそうです。加工前の状態を見てから、正式な額を決めると」
二通目には、救護院から魔石と骨の購入希望が書かれていた。
三通目は、防具職人を伴って訪問したいという申し出だった。
どれも、寄付や援助ではない。
必要な量、輸送費の負担、査定にかかる日数まで細かく記されている。
「ずいぶん、準備が整っていますね」
ルクスが言う。
「お祖母様のお知り合いだった方々なのでしょうか」
「お知り合いというよりは……」
セバスチャンが珍しく言葉を選んでいる。
「アイリス様を、熱心に慕っておられた方々です」
「熱心に?」
「お嬢様がお生まれになった時には、銀の匙が十二本届きました」
「十二本も?」
「全員、自分が最初に贈りたかったと」
私は手元の手紙を見つめた。
「私、何も存じませんでした」
「アイリス様が、お嬢様を勝手に会の象徴にするなと、厳しく申し渡されましたので」
「会の象徴……?」
セバスチャンは静かに目を伏せた。
その隣で、ルクスが口元を押さえている。
「笑っていらっしゃるでしょう」
「すみません。銀の匙が十二本というところで」
「私は一本しか使った覚えがありません」
「残りは、大切に保管しております」
セバスチャンが答えた。
「では、本当に十二本あるのですね……」
ルクスはとうとう小さく笑った。
私も、困りながら笑ってしまった。
*
王妃からの手紙は、執務を終えてから読んだ。
窓際の小さな卓へ、ルクスと向かい合って座る。
私信だから一人で読むべきか迷ったけれど、封を開ける前に、私は彼へ尋ねた。
「そばにいてくださる?」
「もちろんです」
手紙には、王都を去る時に力になれなかったことへの謝罪が記されていた。
婚約について、戻るよう求める言葉はなかった。
私が自分の望む未来を選べるよう願っている、とある。
読み終えた後も、私はしばらく紙から目を上げられなかった。
「王妃様は、私を気にかけてくださっていたのね」
「はい」
「王子の婚約者でなくなっても」
それが、いちばん胸へ残った。
婚約がなくなれば、王妃にとって私は、もう教える必要のない娘になると思っていた。
けれど、手紙は女伯爵としての私へ届いた。
「お返事を、書きたいです」
「では、便箋を」
ルクスが立ち上がりかける。
私は手を伸ばし、彼の袖をつまんだ。
「もう少しだけ、このままで」
彼は椅子へ座り直した。
「はい」
「嬉しいのです。でも、少しだけ、泣きそうで」
「泣いてもよいと思います」
「王妃様へのお返事が、滲んでしまいます」
「乾いてから書きましょう」
ルクスの答えは、とても真面目だった。
私は笑いながら、目元を指で押さえた。
「そうします」
しばらくして顔を上げると、彼はまだ同じ場所にいた。
何かを急かすこともなく、ただ待ってくれている。
「ルクス」
「はい」
「私、お祖母様に似ていますか」
彼はすぐには答えなかった。
「お会いしたことはありませんから、比べられません」
「そうね」
「でも」
ルクスは王妃の手紙と、研究会から届いた見積もりを見た。
「皆さんが大切になさっているアイリス様と、僕が知っているフィリア様は、同じではありません」
私は彼を見る。
「僕は、フィリア様だから、帰りを待ちました」
胸が大きく鳴った。
ルクスは自分の言葉に気づいたように、少し遅れて視線を逸らす。
「領主様として、という意味も、もちろんあります」
「……ええ」
「それだけでは、ありませんけれど」
今度は、私が返事をできなくなった。
仕事の話なら、すぐに言葉が見つかるのに。
私は卓の上へ置いていた手を、そっと彼の方へ動かした。
ルクスの指先が、迷うように近づく。
触れた後、どちらも手を引かなかった。
「お返事は、少し後にいたします」
「はい」
「今は、このままでよろしい?」
ルクスは頷いた。
「僕も、そうしたいです」
窓の外では、北の村へ戻すための荷車が準備されていた。
泉の仮水路は、今日中に村の水溜めへ届く予定だという。
王都から届いた手紙も、祖母を慕う人々の申し出もうれしかった。
けれど今、私の手に触れている温かさは、誰かに似ているから向けられたものではない。
そのことが、何よりも嬉しかった。




