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第19話

国王がその名に気づいたのは、地竜討伐の報奨を確認していた時だった。


 討伐に加わった者だけでなく、避難と救護、物資の手配を担った者についても、レインズワース領から詳しい名簿が届いている。


 その中に、若い補佐官の名があった。


『ルクス・クランベール。十六歳。避難者名簿の作成、水と食糧の輸送、負傷者搬出の指揮を担当』


 国王の指が、その家名の上で止まった。


「クランベール……」


 小さく口にすると、遠い記憶が戻ってきた。


 淡い亜麻色の髪。


 静かな青い目。


 華やかな舞踏会より、数字の並んだ帳面を眺める方が好きだと笑った娘。


「陛下?」


 向かいにいた書記官が顔を上げる。


「この補佐官について、もう少し詳しい記録はあるか」


「領内の職員名簿を確認いたします」


「それから、クランベール男爵家の記録も」


 書記官は僅かに首を傾げた。


「男爵家、でございますか」


「古い家だ。王都ではなく、北方の会計監査を担っていた」


 もう、何年もその名を耳にしていない。


 けれど、忘れたことはなかった。


     *


 エレナ・クランベールと出会った時、国王はまだ王太子だった。


 エレナは、小さな男爵家の令嬢だった。


 父に代わって領地の収支をまとめることがあり、王都へ持ち込まれた北方の税収記録について、数字の誤りを見つけた。


 その指摘を聞いた若い王太子が、本人を呼んだ。


 最初の会話は、恋とはほど遠いものだった。


「この数字が誤りだと?」


「はい。収穫量に対する税の割合が、途中から変わっております」


「不正があったというのか」


「まだ決められません。記録を写す時に、一桁を誤った可能性もございます」


 エレナは、誰かを疑う前に原本を確かめるべきだと答えた。


 実際、原因は書き写しの間違いだった。


 誰かを罰して終わることを望まず、事実を確かめようとする彼女の姿勢を、王太子は好ましく思った。


 それから、北の物資や会計について、幾度か意見を聞くようになった。


 会う回数が増えるにつれ、仕事以外の話もした。


 エレナは酸味の強い林檎が好きだった。


 旅の本を読み、行ったことのない土地の料理を想像するのが好きだった。


 王太子は、彼女と話す時間を待つようになった。


 エレナもまた、王太子を肩書きだけで見なかった。


 間違えれば指摘し、疲れていれば休むように言った。


 その率直さを、当時の彼は愛していた。


 けれど、王太子の婚姻は、国同士の関係を支えるものだった。


 相手は既に決められていた。


 今の王妃である。


 エレナは、妾として残ることを望まなかった。


『私は、誰かのいない時間だけをいただくために、あなたのおそばへいたいわけではありません』


 別れの日、彼女は泣かなかった。


 王太子も、引き止めなかった。


 引き止めれば、彼女が大切にしている誇りを、自分の願いで傷つけると分かっていたからだ。


 エレナは北へ戻った。


 その後、同じ土地で会計実務に携わっていた青年と結婚したと聞いた。


 夫がクランベール家へ入り、二人で家の仕事を継いだところまでは知っている。


 それ以上を調べることはしなかった。


 それが、別れる時に交わした約束だった。


     *


 戻ってきた書記官は、古い記録を数冊抱えていた。


「クランベール男爵家は、十数年前に爵位を返上しております」


「返上?」


「当主が病で亡くなり、領地の大半は親族へ分割されました。ご令嬢のエレナ様は、爵位の継承を求めず、夫君とともにレインズワース領の会計職へ」


 国王は頁をめくった。


 そこに、婚姻と出産の記録がある。


「息子が一人」


「ルクス・クランベール。十六歳。地竜討伐の報告にある補佐官と、同一人物で間違いございません」


 エレナの息子。


 そう分かった途端、名簿に記された短い文章が、先ほどまでとは違って見えた。


 避難者の数を最後まで確かめたこと。


 水と食糧を必要な場所へ分けたこと。


 功績として派手なものではない。


 けれど、一つ間違えれば人の命に関わる役目だった。


「エレナは、今も北に?」


 書記官は答える前に、僅かに目を伏せた。


「四年前、流行り病で亡くなられております。夫君も、その前年に事故で」


 国王は、開かれた記録へ目を落とした。


 最後に会った時のエレナは、まだ十九歳だった。


 記憶の中では、今もそのままだ。


「ルクスは十二歳で両親を亡くしたのか」


「はい。その後は親族のもとへ移らず、両親が勤めていたレインズワース領に残っております。十四歳頃から会計の手伝いを始め、前任代官が去った後は、村長や倉庫番とともに物資管理を」


「十六歳の少年に、任せすぎではないのか」


 思わず出た言葉に、書記官が困った顔をした。


「記録を見る限り、彼一人で担ったわけではございません。ですが、正式な領主が王都におられた間、かなりの負担があったものと思われます」


 正式な領主。


 フィリアのことだった。


 今は彼女が北へ赴き、その補佐官とともに領地を立て直している。


 国王は、報告書を読み直した。


 フィリアが地竜と戦っている間、ルクスは退路で負傷者を受け入れていた。


 最後まで、自分の役目を離れなかったという。


「陛下」


 書記官が慎重に尋ねた。


「ルクス・クランベールについて、王城へ召すご予定でしょうか」


「いや」


 国王はすぐに答えた。


「その必要はない」


 エレナの息子だからと、突然呼びつけるべきではない。


 彼には既に、北で積み重ねてきた暮らしと仕事がある。


「ただ、報奨の分配が正しく行われるか確認してくれ。補佐官個人へも、働きに応じた額が届くように」


「承知いたしました」


「私がエレナを知っていたことは、記録しなくてよい」


 書記官が一礼し、資料を閉じた。


 国王は最後にもう一度だけ、名簿の名を見た。


 ルクス・クランベール。


 似ているのは家名だけかもしれない。


 それでも、必要な数字を確かめ、誰かが困る前に物資を動かす働き方は、エレナを思い出させた。


     *


「クランベール家の記録を調べたそうですね」


 その夜、王妃は国王の私室を訪れた。


 隠すつもりはなかったが、伝わるのが早い。


「書記官から聞いたのか」


「いいえ。あなたが古い北方貴族の記録を三冊も取り寄せたと聞きました」


 王妃は向かいの椅子へ座った。


「ルクス・クランベール。エレナ様のご子息だったのですね」


「知っていたのか」


「エレナ様がご結婚されたことまでは」


 王妃は静かに答えた。


 王太子の婚約者となった頃、彼の心に別の女性がいたことを、王妃は知っていた。


 エレナを憎んだことはない。


 王太子との関係を利用しようともせず、自分の望む生き方を選んで北へ帰った女性だった。


「亡くなっていた」


「……そうですか」


「四年前だ。息子は十二歳だった」


 王妃は少し黙った。


「だから、ルクスを気にかけるのですか」


「それではいけないか」


「いけないとは申しません」


 王妃は国王の目を見る。


「けれど、あの子にエレナ様の面影だけを求めてはなりません」


 国王は、昼間に読んだ記録を思い出した。


「分かっている。北から呼ぶつもりもない」


「ならば、よいのです」


「地竜討伐の報奨が、正しく届くよう確認させるだけだ」


「フィリアの時にも、そのくらい注意深ければよかったのですけれど」


 穏やかな声だった。


 だが、痛いところを正確に突かれた。


 国王は返事をせず、茶へ手を伸ばす。


「それから」


 王妃が続けた。


「フィリアとルクスの関係へ、余計な口出しをなさらないように」


 国王の手が止まった。


「関係?」


「報告書を読んだのでしょう。私より先に」


「領主と補佐官だろう」


「ええ。今のところは」


 王妃は微笑んだ。


「あなたは、昔から人の心の機微に疎いところがございますね」


「報告書に、そのようなことは書かれていなかった」


「公文書に書くはずがないでしょう」


 国王は報告書の内容を思い返した。


 フィリアが討伐へ加わり、ルクスが退路を整えた。


 負傷したフィリアは担架で戻った。


 そこに、特別な記述はない。


「何を根拠に」


「勘です」


「それだけか」


「それで十分です」


 王妃は立ち上がった。


「二人とも、誰かの期待に応えるために働きすぎるところがあるようです。支え合えるのなら、よいことではありませんか」


「まだ十六歳だぞ」


「フィリアも十八歳です。急かす必要も、引き離す必要もありません」


 王妃は扉へ向かい、振り返った。


「静かに見守る、ということを覚えてくださいませ」


 国王は何も言えなかった。


 それは、エレナと別れた時にも、フィリアが北へ去った時にも、できなかったことだった。


     *


 北では、その日の午後、厨房いっぱいに林檎の香りが広がっていた。


 地竜の素材の査定を待つ間にも、冬支度は続く。


 傷のついた林檎をそのまま置けば、雪が降る前に傷んでしまう。


 食べられるところを切り分け、煮て保存することになった。


 私は長椅子へ腰掛け、料理人に教わりながら林檎を切っていた。


 足首はほとんど治っている。


 それでも、立ったまま長く作業をすることは、まだ許されなかった。


「今日は、複雑な形になっていませんね」


 向かいで皮を剥いていたルクスが言う。


「私も上達したのです」


 手の中の林檎を見せる。


 前よりも、食べられる部分を多く残せていた。


「それに、皮はあなたが剥いてくださっていますもの」


「では、僕の手柄でもありますね」


「半分ずつです」


「公平ですね」


 以前と同じ言葉に、二人で笑う。


 切った林檎は大鍋へ入れられ、少量の水と蜂蜜で煮られていく。


 料理人が木の匙を動かすと、甘い湯気が立った。


「香りをつける葉を入れるなら、今ですよ」


 ルクスが小さな布袋を持ってくる。


「こちらは?」


「母がよく使っていた葉です。少しだけ入れると、林檎の酸味が柔らかくなります」


「お母様の」


 私は袋の中を覗いた。


 細く乾いた葉が入っている。


「ルクスのお母様も、お料理がお得意だったの?」


「得意というより、無駄にしないのが上手でした」


 彼は葉を少しだけ鍋へ入れた。


「傷んだ林檎が多い年は、煮る日を決めて、家中の鍋を使っていました。父は帳簿を見ながら火の番をして、よく鍋底を焦がして」


「帳簿と鍋を同時に見るのは、難しそうですわね」


「母にも、どちらかにしなさいと言われていました」


 ルクスが懐かしそうに笑う。


 私は、その表情を静かに見つめた。


 彼から両親の話を聞くのは、初めてだった。


「お母様のお名前を、伺っても?」


「エレナです。エレナ・クランベール」


 王都で国王が同じ名を口にしたことを、私たちは知らない。


 ルクスは木の匙を受け取り、鍋をゆっくりとかき混ぜた。


「母の実家は、昔は小さな男爵家だったそうです。でも、僕が生まれた頃には、家名だけに近くて」


「それでも、クランベールのお名前を大切になさっているのね」


「はい。父が、母の家へ入ったので」


 湯気の向こうで、青い目が少し細くなる。


「二人とも、もういませんけれど」


「……ルクス」


「四年前です。母が先ではなく、父が先でした。その次の年に、母も」


 彼の声は落ち着いていた。


 悲しみがないのではない。


 長い間、自分の中で何度も話してきたことなのだろう。


「それから、僕はここに残りました。両親がしていた仕事を、少しでも続けたくて」


「十四歳から?」


「正式に帳簿を任されたのは、その頃です。それまでも、数字を写すくらいは」


 私は持っていたナイフを置いた。


「寂しくは、ありませんでしたか」


 ルクスの手が止まる。


「寂しかったと思います」


 少ししてから、彼は答えた。


「でも、皆が仕事をくれました。倉庫番さんは袋を数える方法を。村長さんは、家ごとの人数を覚えることを。料理人には、食事も」


「仕事をしていない時は?」


 ルクスが私を見る。


 すぐには答えが返ってこなかった。


 私は、少しだけ問い方を変えた。


「何もできない日にも、ここにいてよいと言ってくださる方は、いらした?」


 鍋の中で、林檎が小さく煮崩れる音がした。


「……分かりません」


 ルクスは正直に答えた。


「僕も、何かしていないと落ち着かなかったので」


 その言葉は、私にもよく分かった。


 役に立てなければ、居場所を失う気がする。


 そう思っていたのは、私だけではなかった。


「今日は、林檎を切らなくても、ここにいてよいのですよ」


「フィリア様もです」


「私は、もう切りましたわ」


「では、次の林檎は僕が切ります」


「そういう意味ではありません」


 思わず笑うと、ルクスも笑った。


 けれど、私はもう一度、彼へ伝えた。


「お仕事ができない日も、ルクスにはここにいてほしいです」


 彼の表情が止まる。


「補佐官だから、という意味ではなく?」


「ええ」


 胸の奥が落ち着かなくなる。


 それでも、言葉を引っ込めたくはなかった。


「私は、あなたとお茶を飲みたいし、一緒に林檎を煮たい。旅の本も、まだ読んでいただいていません」


「……そうでした」


「ですから、お仕事がなくても、いてくださらないと困ります」


 ルクスは視線を落とした。


 耳が僅かに赤くなっている。


「僕も、フィリア様にいてほしいです」


「私が何も倒さない日にも?」


 少しだけ冗談にすると、彼は顔を上げた。


「できれば、何も倒さない日の方が安心します」


「では、今日はよい日ですね」


「林檎は、たくさん倒されましたけれど」


「切っただけですわ」


 料理人が鍋の向こうで、とうとう吹き出した。


「すみません。続けてください」


 そう言いながらも、肩が揺れている。


 私とルクスは顔を見合わせた。


 どちらからともなく笑い、再び林檎へ手を伸ばした。


     *


 煮上がった林檎は、熱いうちに清潔な壺へ分けられた。


 大きな壺は共同の食事用。


 小さなものは、体調を崩している家や、幼い子どものいる家へ渡す。


 最後に、ほんの少しだけ余った分が皿へ載せられた。


「味見をどうぞ」


 料理人から渡され、私はルクスと窓際の卓へ移った。


 まだ温かい林檎を、小さな匙ですくう。


 甘さの奥に、僅かな酸味と、乾いた葉の香りがあった。


「おいしいです」


「母のものと、同じ味です」


 ルクスが言う。


「本当に?」


「少しだけ、こちらの方が甘いですけれど」


「私の好みに合わせてくださったの?」


「蜂蜜を入れたのは、料理人です」


「では、ルクスではないのですね」


「でも、止めませんでした」


 真面目に言われ、私は笑った。


「ありがとう」


 ルクスも匙を取る。


 しばらく、二人で同じ皿から味見をした。


 匙は別々なのに、なぜかいつもより近く感じる。


「今度、旅の本を持ってきます」


 ルクスが言った。


「約束を、まだ果たしていませんでしたから」


「林檎の出てくるお話はありますか」


「探してみます」


「お料理の話でもよいですわ」


「それだと、また作りたくなるかもしれません」


「一緒に作りましょう」


 私は答えた。


「上手くできなくても?」


「僕が教えます」


「ルクスも失敗したら?」


 彼は少し考えた。


「二人で食べます」


「焦げても?」


「焦げたところは、半分ずつに」


「公平ですものね」


「はい」


 窓の外では、北の村へ戻る荷車が、ゆっくりと門を出ていった。


 大きな仕事が一つ終わっても、暮らしは続く。


 水を運び、林檎を煮て、明日の食事を考える。


 そんな日々の中で、私は少しずつ、この土地に自分の居場所を見つけていた。


 そして隣には、何も倒さない日にも一緒にいてほしい人がいた。

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