第20話
翌朝、目を覚ますと、窓の外が白く霞んでいた。
雪かと思い、寝台から急いで降りかける。
けれど、地面はまだ茶色いままだった。
山から下りてきた霧が、館の庭を薄く覆っている。
冬が近い。
そう思っただけで、胸の中に残っていた眠気が消えた。
衣服を整えて一階へ下りると、執務室の前でセバスチャンと出会った。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、セバスチャン。北の村から、何か報告は?」
「仮水路からの水は、夜の間も途切れなかったそうでございます。水溜めは、今朝までに半分ほど満ちたと」
私は息を吐いた。
「よかった」
「ただし、仮の水路でございます。雪解けの水が増える春までには、石組みを直す必要がございましょう」
「ええ。今度は地竜がいませんから、皆で調べられますね」
答えたところで、セバスチャンの視線が私の足元へ落ちた。
「足首の具合はいかがでございますか」
「もう、ほとんど痛みません」
「ほとんど」
「……階段も、ゆっくり下りました」
「結構でございます」
満足してもらえたらしい。
執務室へ入ると、ルクスは既に窓辺の机で帳簿を開いていた。
「おはようございます、フィリア様」
「おはよう、ルクス」
卓上には、二つの杯と、小さな皿が置かれている。
昨夜作った林檎煮だった。
「朝食は、先ほどいただきましたけれど」
「これは朝食ではありません。昨日の壺を開けた後、どのくらい味が馴染んだかを確かめるためのものです」
「大切なお仕事なのね」
「はい。味見です」
ルクスは真面目に頷いた。
私は向かいの椅子へ座る。
「では、責任を持って務めます」
一匙すくって口へ入れると、昨日よりも香りが落ち着いていた。酸味は残っているが、蜂蜜の甘さとよく馴染んでいる。
「おいしいです」
「僕も、そう思います」
「これなら、冬の保存食として売ることもできないかしら」
ルクスの手が止まった。
甘いものを食べている時まで仕事の話をしたことを、咎められるかと思った。
けれど、彼は林檎煮をもう一匙確かめてから答えた。
「売れると思います。ただ、先に領内で冬を越す分を確保しましょう」
「ええ。傷のある林檎だけでは、毎年同じ量を作れるとは限りませんものね」
「蜂蜜も必要です。来年、森へ入れる範囲が広がれば、養蜂を増やせるかもしれません」
「作り方も、料理人だけが知っているのでは続きませんわ」
「北の村で、保存食を作っている方々にも相談しましょう。乾燥させる方が得意な林檎もあるそうです」
私たちは顔を見合わせた。
味見のはずだったのに、いつの間にか新しい紙が机へ広げられている。
「休むためのお茶ではなかったの?」
私が尋ねると、ルクスが瞬いた。
「フィリア様が、林檎煮を売れないかと」
「そうでしたわね」
「でも、僕もすぐ帳面を開きました」
「では、半分ずつ悪いのね」
「公平です」
昨日から、何でも半分になっている。
おかしくなって笑うと、ルクスも困ったように笑った。
そこへ、扉が叩かれた。
「領主様、王都からいらした査定人の方々が到着しました」
呼びに来た使用人の言葉に、私たちは同時に帳面を閉じた。
*
地竜の素材を見に来たのは、三つの工房から一人ずつ。
それに、北方史料研究会から老学者と伯爵夫人が同行していた。
老学者は私を見るなり、目を細めた。
「確かに、目元はアイリス殿によく似ておられる」
やはり最初に見られるのは、そこらしい。
私は礼を返した。
「祖母とご縁があったと伺っております」
「ええ。もっとも、初めてお会いした時には、魔物の骨を並べた机を勝手に使うなと叱られました」
「それは……何をなさったのですか」
「彼女の作戦地図が見当たらず、骨の標本を端へ寄せて広げておられまして」
「お祖母様が?」
「アイリス殿が」
どちらが叱られたのか分からなくなった。
伯爵夫人が扇で口元を隠す。
「研究会の話は後になさいませ。今日は取引のために参ったのでしょう」
「そうでした」
老学者は、少しも反省した様子なく頷いた。
倉庫では、解体に携わった職人たちが待っていた。
採取した部位ごとに鱗が分けられ、乾燥を防ぐ処置も済んでいる。
査定人たちは、まず職人へ解体方法を尋ねた。
「刃を入れたのは、鱗の間からか」
「背は無理だ。先に腹側を開き、内側から外した」
「この青みは保存油の色ではないな」
「元からだ。光が横から当たると出る」
鱗を布で拭い、厚さを測り、縁の欠けを確かめる。
私とルクスは邪魔にならない場所で、その様子を見守った。
すぐに値段が告げられるわけではなかった。
一枚ずつ用途を決め、加工に耐えられるものと、粉にして使うものへ分けていく。
「背の鱗は近衛の盾に使える」
「硬すぎる。王都へ丸ごと運ぶより、ここで大きさを揃えた方がよい」
「誰が切るんだ。普通の鋸では歯が負けるぞ」
査定人同士の意見も分かれた。
解体職人が、使った道具を持ってくる。
石工は鱗を固定する台の形を考え始めた。
大工は、運搬用の木箱を一枚ずつ作るより、鱗の間へ板を挟んでまとめる方が軽いと提案した。
「雪が来る前に運びたいなら、荷車の台数も要る」
倉庫番が言う。
「だが、村へ食糧を運ぶ荷車は使えない。あちらが先だ」
「隣領から戻る荷車を借りられないか、聞いてみましょう」
ルクスが帳面へ書き留める。
「帰りが空になる便だけなら、費用も抑えられます」
伯爵夫人が頷いた。
「王都側からも荷車を出せます。けれど、山道に慣れた御者はこちらで手配した方がよろしいでしょうね」
「領内の御者へ確認します。ただし、一人に何度も往復させないようにいたします」
「それがよろしいでしょう」
話は、素材の値段だけでは終わらない。
加工。
保存。
梱包。
運搬。
護衛。
多くの人の働きが必要だった。
その分の費用も、最初から見積もりへ含める。
地竜を倒した日と同じように、誰か一人の力だけでは進まなかった。
*
査定が終わったのは、昼を過ぎてからだった。
三人の査定人は別々に数字を出し、最後に用途ごとの表へまとめた。
背の鱗は防具工房へ。
腹側の鱗と皮は、耐熱具を作る職人へ。
牙と爪は一部だけを先に売り、残りは値上がりを待って保存する。
魔石は分割せず、王都と近隣の魔道具工房から、もう一度入札を取る。
骨の一部は救護院へ。残りは研究用と、領内での利用を調べるために保管する。
「全部を今売る必要はありません」
老学者が言った。
「地竜の素材は腐りやすい肉や内臓を除けば、適切に保存するほど価値が落ちにくい。冬を越すために必要な額を得たら、残りは急がぬことです」
「保管する場所にも費用がかかります」
ルクスが答える。
「それも含めて比べます。高くなるまで待った結果、保管費の方が多くなっては困りますから」
「よい判断です」
老学者は嬉しそうに頷いた。
「若い頃のエレナ殿も、同じようなことを――」
ルクスが顔を上げた。
「母をご存じなのですか」
「エレナ・クランベール殿なら、一度だけ。北方の税記録を調べるために、王都の資料室へ来られました」
老学者は懐かしむように目を細めた。
「必要な頁をすべて写し終えるまで、一度も数字を間違えなかった。大した集中力でした」
「母らしいです」
ルクスは静かに笑った。
母親の話を聞けたことが嬉しいのだろう。
けれど、すぐに帳面へ視線を戻す。
「その話は、後で伺ってもよろしいでしょうか。今は、支払いの順番を確認したいので」
「もちろんです」
老学者は少し驚いた後、さらに嬉しそうに頷いた。
私は査定表を受け取った。
予想される売却額から、解体と保存にかかった費用を引く。
隣領から借りた弩の修繕費。
兵たちへの謝礼と、負傷者の治療費。
運搬、護衛、荷車の借用。
泉の本修繕のために残す額。
それらを差し引いても、帳簿の下には、今まで見たことのない数字が残った。
「これは、本当に?」
「最低額で計算しています」
査定人が答えた。
「魔石が競りになれば、さらに上がるでしょう。ただし、それを当てにして先に使わない方がよい」
「ええ。確定した額だけで考えます」
私はもう一度、数字を確かめた。
冬の麦。
塩。
薬。
屋根と壁を直す木材。
雪の前に足りない分を運べる。
全員へ十分な暮らしを約束できるほどではない。
来年の畑が勝手に豊かになるわけでもない。
それでも、少なくとも、今年の冬を越すための道筋が見えた。
胸の奥に張りつめていたものが、ゆっくりと緩んでいく。
「これで、冬籠りの資金も大丈夫ですね」
私が言うと、倉庫の中が静かになった。
査定人の一人が、手にしていた鱗から顔を上げる。
伯爵夫人は、扇を閉じた。
老学者は何か言いかけて、隣の職人に袖を引かれている。
「……何か?」
私が尋ねると、ルクスが口元へ手を当てた。
「フィリア様」
「はい」
「地竜を討伐し、その素材がこれほどの額になったのです」
「ええ」
「もう少し、別の感想はありませんか」
私は考えた。
「泉の本修繕費も確保できそうです」
「そうではなく」
「弩の修繕費も、問題なく払えます」
「それは、とても大切ですが」
「負傷した方の治療費も」
「全部、大切です」
ルクスは頷いた。
「でも普通は、地竜を討ったこと自体へ、何か思うものではないでしょうか」
「皆で無事に帰れたことには、安心しています」
「それは聞きました」
私はさらに考えた。
「鱗は、思ったより青かったですわね」
とうとう、伯爵夫人が扇で顔を隠した。
肩が小さく揺れている。
笑われているらしい。
「私、何かおかしなことを申し上げたかしら」
「いいえ」
ルクスの青い目にも、笑みが浮かんでいた。
「フィリア様らしいと思っただけです」
*
その日の夕方、売却額の使い道を決めるため、村長や倉庫番、石工、料理人たちが館へ集まった。
冬までに必要なものを、暮らしている人の側から挙げてもらう。
「麦は欲しいが、全部を麦にするのは危ない」
倉庫番が言った。
「道が閉ざされると、粉を挽く水車まで行けない家もある。豆と、干した根菜も要る」
「塩は、共同倉庫だけでなく、村ごとに分けたいです」
料理人が続ける。
「雪で一つの道が塞がっても、別の倉から出せるように」
「屋根板は、北の村を先に」
大工が口を開いた。
「避難の時に急いで閉めた家がある。水が戻っても、雪が入れば住めない」
「薪は足りるの?」
私が尋ねる。
「今の備蓄では、厳冬が長引けば不足します」
グランが答えた。
「ただし、地竜がいなくなり、森へ入れる範囲は広がりました。無理に奥へ入らずとも、枯れ木を集められます。若い者だけで行かせず、組を作ります」
「伐った後のことも考えたいです」
ルクスが地図を広げた。
「今年だけ採り尽くせば、来年また困ります。森を知る方に、伐ってよい場所を決めてもらいましょう」
皆が自分の知っていることを話す。
私は聞きながら、優先する順番を紙へまとめた。
食糧。
薬。
屋根と窓の修繕。
薪の採取と運搬。
雪の前に街道へ置く目印。
地竜の戦果は、帳簿の上の大きな数字では終わらない。
袋に入った麦になり、屋根板になり、薬瓶になって初めて、暮らしを守る力になる。
「では、明日から近隣の町へ買い付けに向かいます」
ルクスが言った。
「麦と豆は、二つの商会へ分けて交渉します。一方の荷が遅れても、すべてが止まらないように」
「私も参ります」
答えると、部屋の視線が一斉に私へ集まった。
「足首は治っています」
「買い付けへ剣は必要ありません」
ルクスが静かに言う。
「分かっています。交渉のためです」
「本当に?」
「剣は持っていきますけれど、護身のためです」
「討伐の予定は?」
「ありません」
念を押されてしまった。
グランが低く咳払いをする。
「街道の安全は、わしらが先に確かめます。領主様が出られるのは、その後です」
「お願いします」
私は素直に頷いた。
すると、ルクスが少し驚いた顔をした。
「何ですの?」
「いえ。すぐ承知してくださったので」
「私も、学んでいるのです」
「それは失礼しました」
彼は頭を下げたけれど、口元は笑っていた。
「その代わり、ルクスも今夜は休んでください」
「買い付けの一覧を整えてから」
「それは皆で、今、整えました」
「商会へ示す上限額を――」
「私が確認します。あなたは夕食の後、旅の本を持ってくる約束でしょう?」
ルクスが言葉を止めた。
皆の前で、旅の本の約束を口にしてしまったことに、少し遅れて気づく。
村長は地図を見ている。
倉庫番は紙を揃えている。
誰もこちらを見ていない。
ただ、セバスチャンだけが、いつもより穏やかな顔をしていた。
「……はい」
ルクスが小さく答える。
「約束でした」
*
夕食後、ルクスは本当に一冊の本を持ってきた。
表紙は擦れ、角が丸くなっている。
「お母様の本?」
「はい。母が王都で買ったものだそうです」
窓辺の長椅子へ並んで座る。
卓にはお茶と、朝に味見をした林檎煮があった。
ルクスが本を開くと、頁の端に小さな書き込みが残っていた。
『蜂蜜は少なめでもよい』
『この町のパンは、本当にこれほど大きいのか』
『いつか食べる』
私は最後の文字を指で追った。
「お母様は、この町へ行かれたのかしら」
「分かりません。僕が聞いた旅の話には、ありませんでした」
「では、いつか私たちが確かめましょう」
口にしてから、私は動きを止めた。
私たち。
いつか。
あまりに自然に出てしまった。
隣を見ると、ルクスも頁へ目を落としたまま固まっている。
「……領地の視察として、という意味もありますわ」
「はい」
「もちろん、それだけではありませんけれど」
以前、彼が言った言葉を返す。
ルクスがゆっくりと私を見た。
「覚えていらしたのですね」
「忘れると思ったの?」
「いいえ。忘れてほしいとも、思っていません」
彼の声は小さかった。
けれど、きちんと聞こえた。
「僕も、いつか一緒に行きたいです」
「ええ」
「その前に、今年の冬を越さなくてはなりませんが」
「明日から、買い付けですものね」
仕事の話へ戻ると、二人とも少しだけ安心したように息をついた。
けれど、未来の約束は消えなかった。
ルクスが頁をめくる。
次の町では、香草を練り込んだ丸いパンが紹介されていた。
「これは、館の材料でも作れるでしょうか」
「香草が同じものなら」
「今度、料理人へ聞いてみましょう」
「一緒に作るのですよね」
「はい。焦がしたら半分ずつです」
私は林檎煮を一匙すくった。
「では、今日の甘いところも半分ずつに」
「甘いところだけですか」
「焦げたところを半分にするなら、公平ですわ」
「ずいぶん、フィリア様に都合のよい公平ですね」
そう言いながら、ルクスは皿を私の方へ少し寄せてくれた。
私は半分より、ほんの少しだけ多く取る。
彼は何も言わなかった。
窓の外では霧が晴れ、冷たい夜空に星が出ていた。
明日から、冬支度のための買い物が始まる。
きっと忙しくなる。
それでも今夜は、本の中の町を二人で歩いた。
まだ行ったことのない場所。
まだ来ていない春。
それらを隣にいる人と話せることが、私には嬉しかった。




