第21話
買い付けへ出発する朝、館の前には二台の荷車が並んでいた。
一台は私たちが乗るための幌付きの車。
もう一台には、町から持ち帰る品の見本と、道中で使う縄や修理道具が積まれている。
購入した食糧の大半は、商会の荷車で後から運んでもらう予定だった。
「車輪の留め具は確かめたか」
「左右とも締め直しました。予備もあります」
御者と大工が車体の下を覗き込み、最後の確認をしている。
グランは先に街道を調べ、夜明け前に戻ってきていた。
「倒木が一本ありましたが、通れる幅は確保してあります。新しい魔物の痕跡もありません」
「ありがとうございます、グラン」
「道の脇に霜が残っております。馬車を降りる時は、足元へお気をつけください」
最後の言葉だけが、私個人へ向けられているように聞こえた。
「足首は、もう治っています」
「治った足も、滑れば捻ります」
「……はい」
反論できない。
グランの隣では、セバスチャンが外套や水筒を確かめている。
「お嬢様。手袋を」
「持っています」
私は両手を上げて見せた。
以前、ルクスに留め具を締めてもらった革の手袋だ。
「今回は忘れませんでしたわ」
「結構でございます」
褒められたことが少し嬉しくて、ルクスを見る。
彼も手袋をはめていたが、右手の人差し指の脇が白い糸で繕われている。
袖口だけではなかったらしい。
「ルクス、その手袋は」
「まだ使えます」
尋ね終える前に答えられた。
「穴は塞がっていますし、帳簿をめくる時には外しますから」
「そういう問題でしょうか」
「そういう問題です」
彼は澄ました顔で荷物の確認へ戻る。
けれど私は、繕われた指先を覚えておくことにした。
*
町までの道は、馬車で二刻ほどだった。
館を出てしばらくは、森の間を通る。
地竜がいなくなったとはいえ、警戒を解くことはできない。前後にはグランが選んだ護衛がつき、御者も曲がり角では速度を落とした。
私は幌の隙間から、街道の脇を眺める。
霜を受けた草が白く光っていた。
「寒くありませんか」
向かいに座るルクスが尋ねる。
「大丈夫です」
「本当に?」
「今日は本当ですわ」
私は外套の襟を見せた。
厚い布の下には、セバスチャンが用意してくれた毛織りの肩掛けもある。
「ルクスの方こそ、眠そうです」
「昨夜は、きちんと休みました」
「旅の本を読んだ後、買い付けの数字を見直したでしょう」
彼が黙った。
図星らしい。
「どのくらいまで?」
「上限額を、もう一度だけ」
「それから?」
「荷車一台あたりの積載量を」
「それから?」
「……麦と豆の配分を少し」
「全部、昨夜の会議で決めましたわね」
「確かめただけです」
彼が私に言う時と、よく似た言葉だった。
「町へ着くまで、休んでください」
「馬車の中では、書類を広げられませんから」
「休む理由としては弱いです」
「では、何をすればよいでしょう」
「眠るのです」
ルクスは幌の外へ目を向けた。
「揺れていますから、難しいと思います」
「試してもいないのに?」
「フィリア様も、眠ってはいないでしょう」
「私は、昨夜きちんと休みました」
今度は彼が黙る番だった。
少し考えた後、私は長椅子の端へ寄った。
「こちらへいらして」
「隣へ、ですか」
「向かいより揺れが少ないそうです」
本当かどうかは知らない。
御者台に近い側の方が安定しているような気はした。
ルクスは迷ってから、私の隣へ移った。
肩が触れない程度の隙間を空けて座る。
「目を閉じるだけでもよいのです」
「フィリア様は?」
「外を見ています。何かあれば起こします」
「それでは、フィリア様が休めません」
「私は今、元気です。支える役を交代するだけでしょう?」
彼は私を見た。
やがて、観念したように長椅子へ背を預ける。
「町へ着く少し前に、起こしてください」
「約束します」
ルクスが目を閉じる。
馬車が小さな窪みを越え、車体が揺れた。
眠りかけた彼の頭が、こちらへ傾く。
一度は自分で戻した。
二度目には、私の肩へそっと触れた。
私は動かなかった。
思っていたより、近い。
柔らかな亜麻色の髪が頬のすぐそばにある。
胸の音まで聞こえてしまうのではないかと心配になった。
けれど、起こしたくなかった。
彼が私を待ってくれた時のように、今は私が、安心して休める場所になれたらよいと思った。
向かいに座るセバスチャンが、窓の外を見たまま口を開く。
「町へ着くまでは、まだ一刻ほどございましょう」
「ええ」
「お嬢様も、背を預けてはいかがですか」
「でも、ルクスを起こす役が」
「私もおります」
私は少し迷った。
それから、肩へかかる重みを動かさないよう、そっと背を預けた。
「では、少しだけ」
「はい」
目を閉じる。
馬車の音と、隣にいる人の温かさを感じながら、私はいつの間にか眠っていた。
*
目を開けると、窓の外には町の門が見えていた。
最初に気づいたのは、肩へかかっていた重みがなくなっていることだった。
隣では、ルクスが既に起きている。
「どうして起こしてくださらなかったの?」
「フィリア様も眠っていらしたので」
「町へ着く前に起こす約束でしたのに」
「セバスチャンさんが、門までなら休ませてよいと」
向かいを見ると、セバスチャンは何事もなかったように座っている。
「お二人とも、よくお休みでございました」
「私もルクスも?」
「はい」
「どのくらい?」
「半刻ほどでございます」
それほど長く、肩を貸していたのだろうか。
ルクスの耳が少し赤い。
私の頬も熱くなった。
「……首は痛くありませんか」
私が尋ねると、彼は小さく首を動かした。
「大丈夫です。フィリア様の肩は、思ったより寝やすかったので」
「思ったより?」
「いえ、そのような意味では」
「どのような意味ですの?」
「僕にも、よく分かりません」
仕事の交渉なら、これから幾つでも言葉が出るはずなのに。
肩一つの話で、二人とも困ってしまう。
セバスチャンは助けてくれなかった。
ただ、町の門が近づいたことを教えてくれた。
*
最初に訪れた商会では、麦と豆の値を確かめた。
今年は南部の麦が不作で、王都から買い付ける品は値上がりしている。
けれど、この町の周辺で採れた豆は例年より多かった。
「麦を全量こちらで揃えると、この価格になります」
商会の主人が示した数字へ、ルクスが目を落とす。
「運搬費は別ですね」
「雪の前は荷車が足りませんので」
「荷下ろしは領内で行います。帰りに地竜の鱗を積む荷車と同じ便にできれば、片道分を減らせませんか」
主人の眉が上がった。
「地竜の鱗?」
「売買契約を結ぶ工房へ運ぶものです」
「噂は本当だったのですか。女伯爵様が地竜を?」
主人が私を見る。
「私だけではありません。隣領の討伐隊と、領内の皆で倒しました」
「それでも、最後に剣を入れたのは女伯爵様だとか」
「首の鱗の間が開いたので」
「開いたからといって、普通は剣を入れに行きません」
「放置すれば村の方へ向かう可能性がありましたから」
主人は何か言いかけた。
けれど、ルクスが静かに麦の見本袋を持ち上げる。
「こちらは、昨年収穫されたものですか」
「あ、ああ。そうです」
話を戻してくれたらしい。
私は少しだけ安堵した。
商会の主人は麦の産地と保管状態を説明した。
倉庫番が粒を噛み、水分を確かめる。
御者は一袋の重さを持ち上げ、荷車へ何袋積めるかを計算した。
「全量を麦にする予定はありません」
私は主人へ伝えた。
「こちらでは麦を必要量の六割と、豆を購入したいと考えています。残りの麦は別の商会から買います」
「当商会を信用できないと?」
「いいえ。一つの荷が遅れても、すべてが届かなくなることを避けるためです」
主人は少し考えた。
「では、豆を多くお求めになるなら、こちらの運搬費を下げましょう。ただし、麻袋はこちらで回収させていただきたい」
「領内で中身を移した後、次の便でお返しします。袋の数は、出発時と荷下ろし時に双方で確認しましょう」
ルクスが条件を書き留める。
麦の値そのものは、大きく下がらなかった。
無理に値切れば、品質や運搬のどこかへ負担が移る。
代わりに、豆と帰路の荷を組み合わせ、総額を抑えた。
「この条件で、契約を」
私が言うと、主人は頷いた。
「承知しました。地竜を倒した方との取引なら、こちらも安心です」
「契約は、地竜ではなく、今お話しした条件をご確認の上でお願いいたします」
思わず言うと、主人が瞬いた。
隣でルクスが俯く。
肩が少し揺れている。
「笑っているの?」
「いいえ」
「先ほどから、皆さん地竜のお話ばかりなさるので」
「きっと、しばらく続くと思います」
「私は麦を買いに来ただけなのに」
「普通、地竜を討った方は、もっと長くその話をなさるものではないでしょうか」
「もう終わったことですもの。今は麦の方が大切です」
商会の主人まで、困ったように笑っていた。
*
二つ目の商会では、麦のほかに塩と干した根菜を買った。
薬種店では、冬に増える熱や咳に備え、保存できる薬草を選んでもらった。
薬師は領内に残っている薬草の量を聞き、不足するものだけを箱へ詰めた。
「同じ働きの薬草が森にあるなら、買う必要はないよ」
「春になったら、見分け方を教えに来ていただけますか」
私が尋ねると、薬師は頷いた。
「雪が解けた後ならね。ただし、似た毒草もある。覚えるまでは、採ったものを勝手に煎じないこと」
「必ず守ります」
薬師は私ではなく、ルクスを見た。
「本当に守るかね?」
「薬草については、守られると思います」
「薬草については?」
「森へ入られる時は、グランさんにも同行をお願いします」
私の信用は、分野によって異なるらしい。
けれど正しい判断なので、反論はしなかった。
*
必要な契約を終えた頃には、日が少し傾いていた。
帰りの馬車へ向かう途中、市場を通る。
冬を前にした店先には、厚い靴下や毛糸の帽子、革の手袋が並んでいた。
「少し、寄ってもよいかしら」
「何か買い忘れがありましたか」
「ええ。大切なものを」
私は革製品を扱う露店の前で足を止めた。
大きさの違う手袋が、紐へ吊るされている。
「ルクス、手を見せてくださる?」
「僕のですか」
「ええ」
彼は警戒するように、手を外套の後ろへ隠した。
「今の手袋は使えます」
「知っています。でも、雪が降って濡れた時、替えが必要です」
「一組あれば」
「夜の間に乾かなかったら?」
「火のそばへ置きます」
「近づけすぎると、革が固くなるでしょう」
店主の女性が、私たちのやり取りを聞いて頷いた。
「お嬢さんの言う通りだよ。冬の手袋は二組あった方がいい」
「では、二対一ですわね」
「店主を数に入れるのですか」
「専門家の意見です」
ルクスは困った顔をした。
「領費から、僕個人の手袋を買うわけにはいきません」
「私が贈ります」
言うと、彼の表情が止まった。
私も、少し遅れて言葉の響きに気づく。
手袋を贈る。
王都では、親しい相手への贈り物として選ばれることもあった。
「その……補佐官へ、冬の仕事に必要な品として」
「はい」
「でも、領費ではなく、私個人のお金から」
「はい」
「嫌でしたら、無理には」
「嫌ではありません」
ルクスはすぐに答えた。
今度は私が黙る。
店主の女性は何も言わず、目の前へ幾つかの手袋を並べてくれた。
厚いもの。
指を動かしやすいもの。
手首まで毛皮がついたもの。
「帳簿も扱うのなら、これがいいよ。指が曲げやすい」
勧められたのは、濃い茶色の革手袋だった。
裏地は柔らかな毛織りで、手首を紐で締められる。
「試してみてくださる?」
ルクスが古い手袋を外す。
新しいものへ手を入れると、指先が少し余った。
「一つ小さい方ですね」
私は別の組を受け取り、彼へ差し出した。
今度は、ほとんど隙間がない。
「きつくありませんか」
「大丈夫です」
「留め具を締めても?」
「はい」
私は手首の革紐へ指をかけた。
以前、彼が私の手袋を締めてくれた時と同じように。
「失礼します」
紐を引き、金具へ通す。
彼の手首へ、指先が僅かに触れた。
「苦しくありませんか」
「……大丈夫です」
「ルクス?」
「ちょうどよいです」
どこかで聞いた答えだった。
顔を上げると、ルクスも私を見ている。
二人とも、同じ場面を思い出したらしい。
店主が、口元を緩めた。
「反対も締めてあげるかい?」
「自分でできます」
ルクスが少し早口で答える。
私は手を引いた。
「そうですわね。ご自分でできますものね」
「いえ、そうではなく」
「では、締めましょうか?」
「……お願いします」
結局、反対側も私が締めることになった。
革紐を通している間、彼はとても大人しくしていた。
「似合います」
「ありがとうございます」
「温かい?」
「はい」
ルクスは新しい手袋をはめた手を、しばらく見つめていた。
「大切に使います」
「たくさん使ってください。傷んだら、直しましょう」
「フィリア様が?」
「私も繕い物を覚えます」
「剣で切る方が得意では?」
「手袋を剣で直すことはできませんわ」
「安心しました」
「ルクス」
抗議すると、彼は笑った。
私もつられて笑ってしまう。
*
馬車へ戻る前に、ルクスが足を止めた。
「少しだけ、待っていてください」
「どちらへ?」
「すぐ戻ります」
彼は市場の奥へ向かい、しばらくして小さな包みを持って戻ってきた。
「こちらを」
差し出された包みを開くと、細い毛糸で編まれた手袋留めが入っていた。
左右の手袋を紐でつなぎ、外套の袖へ通して使うものだ。
「私に?」
「手袋を入口へ置き忘れていらしたので」
「あれは一度だけです」
「これから雪が降れば、外す機会も増えます」
「また忘れると思っていらっしゃるのね」
「心配しているだけです」
手袋留めは、白銀の髪にも合いそうな淡い青色だった。
端には、小さな白い花の模様が編み込まれている。
「この花を選んだの?」
「春になると、丘に咲く花に似ていたので」
お祖母様が話していた、白い花。
まだ私は、この土地で咲くところを見ていない。
「ありがとう、ルクス」
「手袋のお礼です」
「私が贈りたかっただけですから、お礼は必要ありませんのに」
「僕も、贈りたかったのです」
素直に言われてしまうと、何も返せなくなる。
私は手袋留めを胸元へ抱えた。
「……大切に使います」
「たくさん使ってください。傷んだら、直しましょう」
先ほど私が言ったのと同じ言葉だった。
「ルクスが?」
「僕は繕えますから」
「ずるいですわ」
「何がですか」
「私より先に、何でもできてしまうところが」
「地竜は倒せません」
「私は手袋を繕えるようになりたいのです」
「では、教えます」
「約束ですよ」
「はい」
新しい約束が、また一つ増えた。
*
町を出る頃、空から白いものが落ちてきた。
最初は灰かと思うほど、小さな粒だった。
けれど、馬車の幌へ触れると、すぐに水へ変わった。
「雪です」
私が言うと、ルクスも外を見る。
「初雪ですね」
まだ積もるほどではない。
道を閉ざすような雪でもない。
それでも、冬が本当に来たのだと分かった。
買い付けた食糧は、数日以内に領地へ届く。
屋根板も薬も、薪を運ぶための縄も確保した。
準備は終わっていない。
けれど、何も持たずに冬を待っていた頃とは違う。
私は新しい手袋留めを外套の袖へ通した。
左右の先へ、自分の手袋をつける。
「これで、忘れません」
「安心しました」
「ルクスも、古い手袋を捨ててはいけませんよ」
「替えとして使います」
「濡れたら、きちんと干してください」
「フィリア様もです」
「私は手袋留めがありますから」
「それは、干さなくてもよい道具ではありません」
「……そうでしたわね」
二人で窓の外を見る。
雪は静かに降っていた。
ルクスの新しい手袋と、私の手袋をつなぐ淡い青の毛糸。
別々のものなのに、どちらも相手が選んだものだった。
「春になったら」
私は口にした。
「はい」
「この模様と同じ花を、一緒に見に行きましょう」
ルクスは、私の手元の白い花を見た。
「丘まで、歩いて?」
「ええ。その頃には、私の足首も完全に治っています」
「今も治っているのでは?」
「念のためです」
彼が笑う。
「では、約束です」
「はい」
馬車は、雪の舞う街道を北へ進んでいく。
冬は長い。
けれど、その向こうに待つ春を、今は一人で思い描かなくてよかった。




