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第22話

館へ戻る頃には、雪は少しだけ強くなっていた。


 地面へ落ちた端から消えていた白い粒が、屋根や柵の上に薄く残り始めている。


「今夜、積もるでしょうか」


 私が尋ねると、御者は空を見上げた。


「この雲なら、夜半には止むと思います。積もっても指一本ほどでしょう」


「明日の荷に影響は?」


「朝のうちに溶ければ問題ありません。ただ、橋の上は凍るかもしれませんな」


 御者が答えるより先に、護衛の一人が橋を確認する役を引き受けた。


 館へ着くと、大工は車輪へついた泥を調べ、どの道が凍りやすいかを確かめている。


 私たちが契約を結んでいる間にも、冬を迎える準備は進んでいた。


「お帰りなさいませ」


 門の前では、セバスチャンに代わって館を守っていた料理人たちが待っていた。


「ただいま戻りました」


 私は馬車を降りようとした。


 差し出された手へ、いつものように自分の手を重ねる。


 地面へ足をついてから、相手を見上げた。


 ルクスだった。


「滑りませんでしたか」


「ええ。ありがとう」


 彼は新しい手袋をはめている。


 私の手にも、彼が選んでくれた手袋留めがあった。


 料理人の女性が、それぞれの手元を見て目を細める。


「よくお似合いですね」


「手袋が?」


 私が尋ねる。


「ええ。どちらも」


 彼女はそれだけ言うと、馬車から荷を下ろす者たちの手伝いへ向かった。


 どちらも。


 手袋と、手袋留めのことだろう。


 そう思ったのに、隣を見ると、ルクスも少し落ち着かない顔をしていた。


「中へ参りましょうか」


「はい」


 私たちは、ほんの少し距離を空けて歩いた。


 けれど、雪で湿った石畳に差しかかると、ルクスは自然に私の側へ寄る。


 私も、離れなかった。


     *


 買い付けた品がすべて届くまでには、数日かかる。


 その間に、共同倉庫の場所を空ける必要があった。


 古い穀物を手前へ移し、新しく届く麦と混ざらないよう札をつける。


 豆と塩は、館の倉庫だけでなく、三つの村へ分けて保管する。


 薬草は湿気を避けるため、暖炉から離れた二階の部屋を使うことになった。


「袋を積み上げるのは、この線までにしてください」


 倉庫番が床へ印をつける。


「壁に寄せすぎると、雪解けの時期に湿気が籠もります」


「板を一枚挟むだけでは足りませんか」


 私が尋ねると、彼は首を振った。


「壁との間へ、人が横向きで通れるくらいの隙間が要ります。鼠の跡も確かめられますから」


「分かりました。では、その分も含めて置き場所を計り直しましょう」


 若者たちが縄を張り、袋を置ける範囲を測る。


 料理人は一袋を開ける順番を決め、使い切るまでの日数を計算した。


「麦の配給量を冬中同じにすると、春先に不足します」


 彼女が言う。


「寒さの厳しい時期は食べる量も増えます。今から少し減らすのではなく、豆や根菜を組み合わせたいです」


「子どもと、体調を崩している方には?」


「別にします。家ごとの人数だけで分けると、必要なところへ届きません」


 私は頷いた。


「村ごとに、冬の間も人数と体調を確かめる方が必要ですね」


「北の村では、既に二人が引き受けてくれています」


 ルクスが名簿を開く。


「ほかの村も、村長さんに選んでいただきましょう。一人へ任せきりにせず、二人ずつで」


「帳簿も二人で確認しましょう」


 倉庫番が言った。


「袋を出す者と、書く者を分けた方が間違いが少ない」


 誰かが病気になっても、仕事が止まらない。


 間違いがあれば、互いに確かめられる。


 領地を支えるのは、特別に強い一人ではない。


 一つの仕事を分け合える、多くの手だった。


     *


 夕方になると、雪は予想通り弱くなった。


 私は執務室で、買い付けの契約書を整理していた。


 麦。


 豆。


 塩。


 干した根菜。


 薬草。


 屋根板。


 一つずつ、支払う時期と到着予定日を別の紙へ写す。


 半分ほど終えたところで、扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたルクスの手には、裁縫箱があった。


「何ですの、それは」


「お約束を果たしに来ました」


「約束?」


「手袋の繕い方をお教えします」


 私は契約書と裁縫箱を見比べた。


「もう始めるの?」


「嫌でしたか」


「いいえ。けれど、ルクスは到着した荷の一覧を確かめるのでは?」


「倉庫番さんに任せました。終わったら、明日の朝に報告をいただきます」


 以前の彼なら、自分で最後まで確かめに行っただろう。


「任せられたのですね」


「はい」


 少し照れたように答える。


「ですから、今夜は手袋を直します」


 ルクスは古い手袋を机へ置いた。


 指先だけでなく、手のひらにも擦れて薄くなった部分がある。


「ずいぶん使ったのね」


「母のものです」


「お母様の?」


「母には少し大きかったので、父が使っていました。僕が譲り受けた頃には、まだ指先が余っていましたけれど」


 何度も繕って使われてきた手袋。


 ただ古いから、替えた方がよいと思っていた。


 けれど、捨ててはいけない理由があったのだ。


「大切なものだったのですね」


「はい。でも、大切だから使わないというものでもありません」


 ルクスが手袋の縫い目を指でなぞる。


「父も母も、そうしていました」


「では、私も大切に直します」


「練習用の布からにしましょう」


「この手袋ではなく?」


「いきなり縫うおつもりですか」


「教えてくださるのでしょう?」


「僕にも、守りたいものがあります」


 きっぱり言われた。


 地竜へ向かう時より信用されていない気がする。


「針で穴を増やしたりはしません」


「剣を初めて持った日に、木剣ではなくお祖母様の剣を使われましたか?」


「……木剣でした」


「同じです」


 正しい。


 私は大人しく、渡された端切れを受け取った。


     *


「針は、真っ直ぐ下へ入れないでください。少し斜めに」


「こう?」


「反対です」


「こちら?」


「それでは、縫い目の幅が広すぎます」


「難しいですわ」


「ゆっくりで構いません」


 ルクスは私の隣へ椅子を移した。


 私の手元を覗き込み、糸を通す位置を指で示す。


 顔が近い。


 けれど、針先から目を離せば、今度こそ本当に余計な穴を開けてしまう。


「ここへ出します」


「ええ」


「糸を引きすぎると、革が寄りますから」


「このくらい?」


「もう少しだけ緩く」


 言われた通りに糸を引く。


 縫い目は少し曲がっていたけれど、布同士はつながった。


「できました」


「まだ二針です」


「二針も、です」


「そうですね」


 ルクスが笑う。


 私は続けて針を入れた。


 三針目。


 四針目。


 五針目で、糸が絡んだ。


「ルクス」


「はい」


「動かなくなりました」


「見せてください」


 彼が私の手を取る。


 指先が重なり、糸の輪を広げていく。


 先ほどまで縫い物だけを見ていたのに、触れられた途端、そこばかりが気になった。


「強く引かず、先に輪を緩めます」


「……ええ」


「フィリア様?」


「聞いています」


「針先を、こちらへ向けないでください」


「ごめんなさい」


 慌てて手を動かすと、指先へ小さな痛みが走った。


「あっ」


 針が、人差し指へ刺さった。


 血が小さな玉になって浮かぶ。


「お怪我を」


「これくらい、怪我には入りません」


「入ります」


 以前の私と同じ言葉だった。


 ルクスは針を安全な場所へ置き、清潔な布を取る。


「手を」


 私は素直に差し出した。


 彼は私の指先を布で押さえた。


 傷は小さい。


 けれど、手を包む指は慎重だった。


「剣では、あれほどお強いのに」


「針の方が細いので」


「大きさの問題ですか」


「相手が地竜なら、動きを見て避けられます」


「針は動きません」


「だから難しいのです」


 ルクスはしばらく黙った。


「フィリア様」


「何かしら」


「おそらく、針を扱う方の中で、今の説明をなさるのはフィリア様だけだと思います」


「褒めていませんわね」


「少しだけ、感心しています」


「少しだけ?」


「地竜より針を難しいと考える方は、初めてですから」


 彼はとうとう笑い出した。


 声を立てるほどではない。


 けれど肩が揺れ、青い目が柔らかく細められている。


 私も、自分の言ったことがおかしくなって笑った。


「でも、諦めません」


「もちろんです。次は指当てを使いましょう」


「最初から渡してくださればよかったのに」


「針を持つ前に、机へ置きました」


 見ると、裁縫箱の隣に小さな革の指当てがある。


「……気づきませんでした」


「地竜の鱗の隙間は見つけられるのに?」


「地竜の時は、もっと集中していましたから」


「次からは、針にも同じくらい集中してください」


     *


 練習用の布を一枚縫い終える頃には、外は暗くなっていた。


 最初の縫い目は曲がっている。


 途中で一度糸が絡まり、最後の二針だけがルクスの見本と同じ幅になった。


「これなら、手袋を直せる?」


「もう一枚、練習してからにしましょう」


「まだ?」


「大切に直すと仰ったでしょう」


「ええ」


「急がないことも、大切にするうちです」


 その言葉に、私は縫い終えた布を見つめた。


 剣の稽古でも、同じだった。


 早く強くなりたくて、足運びを覚える前に打ち込もうとした。


 お祖母様は、何度でも最初の位置へ戻した。


『急いで身につけたものは、急いだ分だけ抜け落ちます』


 私は新しい端切れを取った。


「もう一枚、いたします」


「今日はここまでです」


 ルクスが裁縫箱の蓋を閉じた。


「でも、まだ」


「指を刺しました」


「一度だけです」


「手も疲れています」


 言われて初めて、針を持っていた指が強張っていることに気づいた。


「では、明日続きを」


「明日は買い付けた荷が届きます」


「夜に」


「夜は休む時間です」


「ルクスも、今まで夜に帳簿を見ていたでしょう」


「それを言われると、返す言葉がありません」


「では、お互いに一つずつ」


 私は提案した。


「明日の夜、練習を一枚だけ。帳簿の見直しも一頁だけ。それが終わったら、二人とも休むのはどうかしら」


「どちらが、どちらを見守るのですか」


「互いに」


「一枚と一頁で、本当に終われますか」


「私は終わります」


「僕も終わります」


 二人とも、すぐに答えた。


 そして、互いの顔を見た。


「……今の返事は、あまり信用できませんわね」


「僕も同じことを思いました」


「では、セバスチャンに見張っていただきましょう」


「会長ですから?」


「領主様を休ませる会と、補佐官を休ませる会の両方の」


 ルクスは少し考えた。


「補佐官を休ませる会もあるのですか」


「今、作りました。私が会長です」


「会員は?」


「セバスチャンと料理人と、倉庫番にも入っていただきます」


「もう僕より多いですね」


「グランも誘います」


「勝てる気がしません」


「よい会でしょう?」


 ルクスは困った顔をした。


 けれど、嫌だとは言わなかった。


「では、僕は副会長になります」


「なぜ?」


「会長が無理をしないように見張るためです」


「それでは、どちらの会か分かりませんわ」


「一つにすればよいのでは?」


「何という名前にするの?」


 彼は少し考えた。


「二人とも休ませる会」


「そのままですわね」


「分かりやすさは大切です」


「会員は、二人だけ?」


「まずは」


 ルクスが答える。


「お互いを見ていれば、分かりますから」


 仕事の疲れも。


 無理をしている時も。


 言葉にできない寂しさも。


 彼は本当に、私をよく見てくれている。


 私も、同じように彼を見ていたい。


「では、入会いたします」


「僕も」


「会長は?」


「交代で」


「公平ですわね」


「はい」


 結局、また半分ずつになった。


     *


 部屋を出ると、窓の外には薄く雪が積もっていた。


 廊下の灯りを受け、庭が白く光っている。


「明日の荷車は、少し遅れるかもしれませんね」


 ルクスが言う。


「でも、橋を確かめる方も、荷を受け入れる方も決まっています」


「はい。僕たちが今から何かしなくても、皆さんが動いてくださいます」


 それは、以前の私たちには難しかった言葉だった。


 今すぐ自分が働かなければ。


 自分が確かめなければ。


 そう思わずに、誰かへ任せること。


 任せた後で、休むこと。


「今夜は、もう仕事をいたしません」


 私が宣言する。


「僕もです」


「裁縫も」


「帳簿も」


 私たちは廊下の分かれ道で立ち止まった。


 私は淡い青の手袋留めを、外套から外して腕へ掛けている。


 ルクスの手には、私が贈った新しい手袋があった。


「おやすみなさい、ルクス」


「おやすみなさい、フィリア様」


 彼が数歩離れたところで、私は呼び止めた。


「ルクス」


「はい?」


「明日、古い手袋を縫う時は、そばにいてくださる?」


「もちろんです」


 すぐに返事が来る。


 それだけで、明日の楽しみが一つ増えた。


「では、また明日」


「はい。また明日」


 役に立つ約束ではない。


 領地を救うような、大きな約束でもない。


 それでも、明日も同じ場所で会えると思えることが、私には嬉しかった。

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