第30話
共同巡回の試みが始まって三日目、最初の問題が起きた。
見回り役が館へ持ち帰った記録表には、丸が二つ、三角が一つ、それから見慣れない印が一つついていた。
「これは、何の印ですか」
私が尋ねると、御者は紙の端を指した。
「荷車でも馬でもなく、人が道から消えた時の印です」
「消えた?」
「南の街道を歩いていた薬草採りが、一人、戻っていません」
執務室の空気が変わった。
ルクスがすぐに立ち上がり、壁の地図を広げる。
「いつ、どこで最後に見られましたか」
「昨日の昼前です。南の村を出て、凍った沢の近くへ向かったそうです。夕方には戻る予定でした」
「届け出が今朝になったのは?」
「一人暮らしの男です。近所の者が、朝になって煙が上がっていないことに気づきました」
冬の薬草採りは、雪の下に残る根や、樹皮に生える苔を探す。
領内の治療師が使う大切な材料だ。
けれど、昨日の午後には短い吹雪があった。
足跡は既に消えているかもしれない。
「年齢と装備は?」
グランが尋ねた。
「四十七。名はオルン。灰色の外套に、背負い籠。山歩きには慣れています。小さな斧と、火打ち石も持っています」
「慣れた者ほど、予定を変えた時に見つけにくい」
グランは地図へ手を置いた。
「沢までの道は三つある。普段なら東の緩い道を使うが、雪崩の跡があれば森側へ回った可能性もある」
「一人で探すのは危険ですね」
私が言うと、彼は頷いた。
「捜索は三組。だが、先に天候を見る。夕方から風が強くなる」
ルクスが窓の外へ目を向けた。
「共同巡回の隣領側へも知らせます。南の分かれ道から先へ進んでいる可能性がありますから」
「狼煙では足りませんね」
「使者を一人出します。巡回中の兵へ会えれば、その場で伝えられます」
それぞれが必要なことを口にし、役目が分かれていく。
グランは捜索経路を決める。
村長は、オルンをよく知る者から行き先を聞く。
料理人は、温かい飲み物と携帯食を用意する。
倉庫番は縄、毛布、雪を掘る道具を出す。
「領主様は、館で連絡を」
グランが言った。
私は反射的に反論しかけた。
森なら、私も歩ける。
魔物が出た時には、剣を使える者がいた方がよい。
けれど、冬の森を知る者の方が、足跡や雪の危険を判断できる。
「……分かりました」
答えると、グランが私を見る。
「何ですの?」
「いえ。話が早くて助かります」
「私が行かない方がよい理由は、理解しています」
「それでも、行きたいのでしょう」
「ええ」
正直に認めた。
「ですから、戻った後で、見つけたものをすべて教えてください」
「承知しました」
グランは若者たちを連れ、部屋を出ていった。
*
私は館へ残った。
残ったけれど、何もしないわけではない。
捜索に出た者の名前と進路を、大きな紙へ書き出した。
戻る予定の時刻も記す。
誰かが帰らない時、探す者まで行方不明になってはいけない。
見張り台には、煙の合図を増やしてもらった。
発見は白い煙を二筋。
負傷者ありは黒い煙を一筋。
応援が必要なら、黒い煙を二筋。
「薪の残りは?」
私は尋ねた。
「見張り台には半日分です」
倉庫番が答える。
「予備を運びます。ただ、道を作る者が必要です」
「子どもたちの世話を交代した大人が、二人なら出られるそうです」
村の女性が言う。
「では、橇を使ってください。重いものを背負わないように」
「分かりました」
館にいても、できることはある。
それでも、窓の外を見るたびに胸が落ち着かなかった。
白い煙は、まだ一本だけ。
異常なしの合図だった。
「フィリア様」
隣で帳面をつけていたルクスが呼ぶ。
「何かしら」
「お茶が冷めています」
見ると、私の杯からはもう湯気が立っていなかった。
「飲むのを忘れていました」
「新しいものを持ってきます」
「ルクスの杯も冷めていますわ」
彼の手元を見る。
一度も口をつけていない。
「僕は、あとで」
「私にだけ飲ませるつもりですか」
「そういうわけでは」
「では、一緒に替えましょう」
私は二つの杯を盆へ載せた。
けれど、持ち上げる前にルクスが盆の反対側を持つ。
「半分ずつです」
「杯は二つしかありません」
「一人一つ持てばよいのでは?」
「今日は、同じ盆を持ちたい気分です」
そう言われると、断りにくい。
私たちは向かい合って盆を持ち、厨房まで運んだ。
「廊下が狭いですわ」
「横へ並ばなければ通れます」
「私が後ろ?」
「僕が後ろでも」
「前が見えません」
「では、少し斜めに」
仕事の相談なら、もっと難しい条件でもすぐにまとめられる。
けれど、二人で小さな盆を運ぶだけで、何度も足が止まった。
通りかかったセバスチャンが、静かに壁際へ寄る。
「お手伝いいたしましょうか」
「大丈夫です」
私とルクスの声が重なる。
「左様でございますか」
セバスチャンは、何も言わず道を譲った。
おそらく、一人で持った方が早いとは思っている。
私もそう思う。
けれど今は、早いことだけが大切ではなかった。
*
温かいお茶を淹れ直して執務室へ戻ると、南の村から新しい報告が届いていた。
オルンは、出発前に近所の子どもへ言葉を残していた。
『赤い苔が見つかれば、治療師へ持っていく』
「赤い苔?」
「冬赤苔です」
治療師が地図へ近づく。
「熱冷ましに使います。木の北側、湿り気の多い場所に生えますが、この辺りでは凍らない水の近くでしか見つかりません」
「凍らない水……」
ルクスが地図の一点を指す。
「温泉の湧く場所が、森の奥にあります」
「温泉と呼べるほど温かくはありません」
治療師が答えた。
「雪が積もりにくい程度です。ただ、沢からは西へ外れています」
「オルンさんは、そちらへ向かった可能性があるのですね」
「赤い苔を探したのなら」
グランたちの捜索経路には入っていない。
私はすぐに伝令を出そうとした。
けれど、治療師が止める。
「待ってください。今から森へ追いかければ、伝令も道に迷います」
「では、どうすれば?」
「西の温み水へ入る道は、炭焼き小屋の老人が知っています」
領境の目印について、話を聞く予定だった老人だ。
「今日はどこに?」
「館の北にある娘夫婦の家です。雪の間は、そちらで暮らしています」
「呼びに行きましょう」
若者が一人、すぐに立ち上がった。
私は頷き、さらに地図を見た。
「捜索隊が戻るまで待つ方がよいかしら」
「戻る時刻によります」
ルクスが窓を見る。
「風が強まる前に出られる時間は、あまり残っていません」
急がなければならない。
けれど、急ぐあまり、さらに人を危険へ出してはいけない。
私は自分の手を握った。
剣を持っている時なら、相手の動きを見て判断できる。
今は、雪と時間が相手だった。
「老人のお話を聞いてから決めましょう」
私は言った。
「知っている道が安全とは限りません。今の雪の状態も確認します」
「はい」
ルクスが頷く。
待つことも、判断の一つだった。
*
炭焼きの老人は、娘に支えられて館へ来た。
足腰は弱っていたけれど、地図を見る目は確かだった。
「この線ではない」
老人は、私たちが道だと思っていた場所を指で消すようになぞった。
「冬は、こっちを通る」
その指が、さらに北を回る。
「遠くなりませんか」
「近い道は、斜面の下だ。風が吹けば雪が落ちる。冬は尾根へ上がる」
「オルンさんも知っていますか」
「わしが教えた。あいつなら、近道は使わん」
無謀な人ではない。
それなら、なぜ戻らないのだろう。
「温み水の近くに、避難できる場所は?」
「岩の割れ目がある。二人なら入れる。薪はないが、風は避けられる」
「怪我をしたなら、そこにいる可能性がありますね」
「動けるならな」
老人は机の上に置かれた小石を使い、尾根と谷を示した。
「ここに曲がった松がある。その下から南へ下りる。雪が深けりゃ、木の根を踏め」
グランたちが戻るのを待っていては、日が傾く。
けれど、新しい組を出すなら、道を知る者が必要だ。
「案内できる方は?」
「娘婿が知っている」
老人の娘が答えた。
「けれど、今は最初の捜索隊に加わっています」
人手が重なっている。
全員が善意で動いているからこそ、必要な場所へ人が足りなくなる。
「領主様」
見張り台から戻った者が、戸口で息を整えた。
「南の丘から、白い煙が二筋です」
「見つかったの?」
「発見の合図です。ただ、負傷者の煙はありません」
部屋の空気が僅かに緩んだ。
けれど、発見したのがオルン本人とは限らない。
「どの組の合図か分かりますか」
「西寄りです。グランさんの組だと思います」
どうして西へ。
私が地図を見ると、老人が鼻を鳴らした。
「あの古兵なら、風を見たんだろう。沢へ行った足跡がなけりゃ、西を疑う」
経験のある者は、地図に書かれていないものを見る。
「戻りを待ちましょう」
私はようやくお茶へ手を伸ばした。
ルクスも同時に杯を持つ。
「今度は温かいうちに飲めますね」
「ええ」
けれど、一口飲んだ時だった。
見張り台から、黒い煙が一本上がった。
負傷者あり。
*
戻ってきた捜索隊は、橇を使っていた。
橇の上には、毛布に包まれたオルンが横たわっている。
意識はあった。
右脚を木の板で固定されている。
「骨は?」
治療師が駆け寄る。
「折れてはいないと思う」
グランが答えた。
「岩の間へ脚を挟んだ。足首が腫れている」
オルンは温み水の近くで冬赤苔を見つけ、その帰りに雪の下の穴へ落ちたという。
自力で脚を抜くことはできた。
けれど歩けず、岩の割れ目へ移動して一夜を過ごした。
「火は?」
「火打ち石を落としました」
オルンが悔しそうに言った。
「籠の中に、乾いた樹皮はあったんですが」
「生きて戻ったのです。それで十分です」
私は答えた。
「冬赤苔も」
「それは後です」
「でも、治療師に頼まれて」
「頼んでいません」
治療師がきっぱりと言った。
「足りないと話しただけです。一人で採りに行けとは言っていない」
「役に立つと思ったんだ」
「あなたが凍えて戻らなければ、薬が増えても喜べません」
その言葉が、胸に刺さった。
役に立とうとして、一人で抱えた。
他人のことなら、無理をしてはいけないとすぐに分かる。
けれど私自身も、何度も同じことをしてきた。
「次からは、行き先を大人にも伝えてください」
私は言った。
「子どもへ話したから、手がかりは残りました。でも、戻る時刻を知っている人がいれば、もっと早く探せたでしょう」
「……すみません」
「叱りたいのではありません」
私は毛布の端を整えた。
「次も、あなたに帰ってきてほしいのです」
オルンが目を伏せる。
やがて、小さく頷いた。
*
捜索した者たちにも、怪我がないか確認した。
若者の一人が枝で頬を擦っていた。
グランの外套は、片方の袖が裂けている。
「これは?」
「倒木を越えた時に引っかけた」
「腕は怪我をしていませんか」
「布だけです」
「見せてください」
「必要ない」
「見せてください」
私が繰り返すと、グランは諦めて袖をまくった。
傷はなかった。
「大丈夫でしょう」
「はい」
「ならば、わしよりルクスを見た方がよい」
「なぜ、そこでルクスが出てくるのですか」
「捜索隊が戻るまで、何度も窓へ立っておった。領主様が外へ走り出さぬか、見張っていたらしい」
私はルクスを見る。
彼は記録表を持ったまま、僅かに目を逸らした。
「走り出すつもりはありませんでした」
「知っています」
「では、なぜ見張っていたの?」
「フィリア様が、同じ場所に立ったり座ったりしていらしたので」
「落ち着かなかっただけです」
「はい。僕もです」
彼も同じだったらしい。
「二人とも休ませる会が必要ですな」
グランが言う。
「グランも会員です」
「わしは入った覚えがない」
「今、入りました」
「また今ですか」
ルクスが小さく笑った。
「会員が増えましたね」
「増やさなければ、皆が休みませんもの」
「会長の仕事が増えますよ」
「会長も交代制です」
グランは何か言いたそうな顔をした後、裂けた外套を脱いだ。
「なら、今日は料理人を会長にしろ。あの人なら、全員を座らせる」
それは、とても正しい判断だった。
*
捜索に出た者たちは、館の広間で温かい汁を食べた。
根菜と豆に、細く裂いた干し肉が入っている。
いつもより塩が少し濃い。
オルンは治療を終え、暖炉に近い長椅子へ寝かされていた。
足首は強く捻っただけで、骨は無事だという。
冬赤苔も籠の底に残っていた。
「使える分は半分ほどです」
治療師が確かめる。
「凍って傷んだものは除きます」
「半分しか残らなかったのですか」
オルンが残念そうに言う。
「半分も残ったのです」
私は言い直した。
「それから、次に採る時は一人で行きません」
「次も行ってよいのですか」
「足が治り、天候がよく、道を知る方と一緒なら」
「領主様も行くつもりではありませんよね」
ルクスが隣から尋ねる。
「まだ、何も申し上げていません」
「顔に書いてあります」
「冬赤苔がどこに生えるのか、見てみたいと思っただけです」
「地竜を見るのとは違いますよ」
「薬草を見るために、剣は抜きません」
「そういう意味ではありません」
治療師が、赤い苔を布へ広げながら言った。
「春になれば、館の近くでも育てられるか試せます」
「育てられるの?」
「温み水の周辺の石と、苔のついた樹皮を少し持ち帰れば。ただし、採り尽くさないよう量を決める必要があります」
「では、オルンさんに場所と採り方を教えていただきましょう」
「私に?」
「ええ。あなたは見つけたのでしょう?」
無謀だったことと、持っている知識の価値は別だ。
「治療師と、森に詳しい方々で相談してください。来年から一人で危険な場所へ入らなくても済むように」
オルンは驚いたように私を見た。
「失敗したのに、任せていただけるのですか」
「失敗したからこそ、次に何が必要か分かることもあります」
「ですが」
「今日は休んでください」
私は少し強く言った。
「役に立つお話は、明日でもできます」
それは、彼だけではなく、自分へ言い聞かせる言葉でもあった。
*
食事の後、共同巡回の記録表へ新しい印を加えることになった。
人が戻らない時は、星印。
捜索を始めたら、星の周りを丸で囲む。
発見したら、線を一本引く。
「印が増えすぎませんか」
ルクスが尋ねる。
「増えすぎる」
御者が答えた。
「毎回使うものではないから、表の裏へ書いておこう」
「では、表には『特別なことは裏へ』とだけ記します」
「字が読めない者もいる」
「赤い糸を端へ結ぶのはどうだ」
籠を編んでいた女性が提案する。
「裏を見る必要がある紙には、赤い糸。手袋でも触れば分かる」
「濡れても落ちないよう、穴を開けて結びましょう」
書く者。
読む者。
雪の中で使う者。
それぞれが意見を出し、表は少しずつ使いやすくなった。
「今回の捜索費は、どの項目へ入れますか」
ルクスが尋ねる。
「共同巡回の範囲内でしょうか」
隣領の兵も、南側の道を探してくれていた。
結果としてオルンは領内で見つかったけれど、動いてくれた者には薪も食事も必要だ。
「巡回とは分けましょう」
私は答えた。
「行方不明者の捜索費として、参加した領ごとに実費を記録します。どちらの領民かだけで、負担を押しつける形にはしたくありません」
「街道を使う者全体の安全に関わりますからね」
「ええ。ただ、割合はバルドさんとも相談しましょう」
最初の一週間から、予定外の項目が増えた。
けれど、それは試みが失敗したという意味ではない。
実際に使ったからこそ、足りないものが分かったのだ。
*
夕方、隣領から使者が到着した。
オルン発見の報告とともに、バルドからの手紙を持っている。
『本日の捜索に要した費用は、仮契約の巡回費とは分けて記録することを提案する』
私たちと同じ判断だった。
さらに、末尾には小さな文字で一行が添えられている。
『徴収した銀貨三枚は、各御者へ返却済み。受領書を後日送る』
「約束を守ってくださいましたね」
私が言うと、ルクスが頷く。
「こちらも、捜索に協力してくださった兵の食事代を確認しましょう」
「ええ」
「それから、もう一通あります」
使者は厚い封筒を差し出した。
差出人は、魔石の入札を出した北部工房組合だった。
先日送った質問への返事だ。
研究の結果は、レインズワース領へも共有する。
運搬箱は買い手側が用意し、護衛費も負担する。
契約金三割は、署名を確認した日から十日以内に支払う。
そして、魔石の引き渡し前に、保存状態を確かめる技師を派遣したいと記されていた。
「条件を受け入れてくださったのですね」
「はい。ただし、技師の到着は早くても十二日後です」
「雪で遅れる可能性もあります」
「それまで、今の倉庫で保存できるか確かめましょう」
私たちは倉庫番と、地竜の解体に加わった職人を呼んだ。
魔石は厚い木箱の中へ収め、周囲を乾いた砂と羊毛で固定している。
倉庫は火気から離れ、鍵も二重。
交代で見張りを置いていた。
「今まで異常は?」
「ございません。ただ、一つ気になることが」
倉庫番が言った。
「箱の下だけ、雪が解けるのです」
「倉庫の中に雪が?」
「靴について入った分です。ほかは凍ったままですが、魔石の箱の周りだけ水になります」
地竜の魔石には、まだ熱が残っている。
査定人から聞いてはいた。
けれど、周囲の温度を変えるほどとは思わなかった。
「箱を開けずに、温度を確かめられますか」
私が尋ねると、職人が頷く。
「外側へ触れるだけなら。ただし、今夜はやめた方がよい」
「なぜ?」
「人が疲れております。魔石が急に危険になるとは思いませんが、確認するなら、明るい時に、道具を揃えて行うべきです」
正しい。
今日中に確かめたい気持ちはある。
けれど、捜索を終えた後に、新しい危険へ踏み込む必要はない。
「では、明朝にしましょう」
私は答えた。
「今夜は見張りを増やしますか」
「増やすより、交代を短くしてください」
グランが言った。
「寒い場所で長く立たせれば、異常に気づく前に人が疲れる」
「二人一組。半刻で交代にします」
倉庫番が頷く。
「見張りの方へ、温かい飲み物を」
料理人が立ち上がった。
誰か一人が、魔石のそばで朝まで耐えるのではない。
役目を分け、交代する。
地竜を倒した後にも、戦いとは違う慎重さが必要だった。
*
その夜、私は寝室へ戻る前に執務室へ立ち寄った。
机の上には、今日の記録が残っている。
行方不明者。
捜索隊。
隣領との共同巡回。
冬赤苔。
魔石の契約。
一日の間に、いくつものことが起きた。
扉を開ける音がする。
振り向くと、ルクスが盆を持って立っていた。
「まだお仕事を?」
「書類を見ていただけです」
「それを、仕事と言います」
「ルクスこそ、なぜこちらへ?」
「お茶を届けに」
盆には、二つの杯が載っている。
「二人分?」
「フィリア様が、まだこちらにいると思ったので」
「どうして分かったの?」
「夕食の後、三度ほど執務室の扉をご覧になっていました」
本当によく見ている。
「少しだけ、今日のことを考えていました」
「オルンさんのことですか」
「ええ」
ルクスが杯を置き、私の向かいへ座る。
「館へ残ると決めたのに、何度も外へ出たくなりました」
「僕も、フィリア様が出ると言ったら、一緒に行くつもりでした」
「止めてくださらなかったの?」
「止めます。その後で、どうしても行くなら一緒に」
「それでは、二人とも危険になります」
「ですから、止めます」
順番がおかしいようで、彼らしい。
「でも今日は、残ってくださったでしょう」
「ええ」
「そのおかげで、温み水の手がかりを整理できました。捜索隊の帰る時刻も、見張り台の合図も」
「見つけたのはグランたちです」
「はい。フィリア様一人ではありません」
ルクスは静かに言った。
「でも、フィリア様が何もしなかったわけでもありません」
役に立ったかどうかを数え始める私に、彼はいつも気づく。
「剣を抜かない日にも、領主としてできることはあるのですね」
「剣を抜く日は、少ない方がよいと思います」
「その方がよいですわ」
「本当に?」
「本当です」
「地竜が現れた時、少し嬉しそうではありませんでしたか」
「弱点を見つけた時だけです」
「普通は、地竜の弱点を見つけても喜ぶ余裕はありません」
「見つけなければ倒せませんから」
「倒さずに済むなら?」
「その方がよいです」
私は言い切った。
「討伐の後は、解体も運搬も契約も大変ですもの」
ルクスが目を瞬いた後、笑い出した。
「そこなのですか」
「大切なことです。魔石一つを売るにも、これほど多くの確認が必要なのですよ」
「確かに、地竜を倒すより長くかかっていますね」
「でしょう?」
「でも、明日は剣を持って倉庫へ行くおつもりでしょう」
「念のためです」
「魔石は襲ってきません」
「分かりません」
「箱に入っています」
「箱から出たら?」
「自分では出ないと思います」
「では、短剣だけにします」
「持っていくのですね」
「念のためです」
ルクスはまだ笑っていた。
けれど、少しして真面目な顔へ戻る。
「明日は、僕も行きます」
「倉庫へ?」
「はい。契約するなら、保存状態を記録する必要があります」
「危険かもしれません」
「だからこそ、確認します」
以前なら、私だけで先に見に行こうとしたかもしれない。
今は違う。
「グランと職人の判断に従うこと」
「フィリア様も」
「箱へ勝手に触らないこと」
「フィリア様も」
「私のそばを離れないこと」
「それは、喜んで」
あまりに素直に答えられ、私は杯へ視線を落とした。
「仕事のためです」
「はい」
「魔石の確認ですから」
「分かっています」
「では、なぜ嬉しそうなの?」
「フィリア様が、そばにいてほしいと仰ったので」
今日一日の緊張が、ようやくほどけていく。
「では、明日に備えて休みましょう」
「はい」
「お茶を飲んだら」
「一緒に?」
「二つありますから」
「二つなくても、一緒に飲みたいです」
私は返事に詰まった。
仕事なら、どんな予算をどこへ分けるか話せる。
けれど、こういう言葉への返し方は、まだ練習中だった。
「……では、明日も二つ用意してください」
「はい」
それが今の私に言える、精いっぱいの答えだった。
ルクスは満足したように頷く。
窓の外には、静かな雪が降っている。
明日は、地竜の魔石を確かめる。
売却までの道は、地竜を倒した時より長く、細かな危険も多い。
それでも、一人で進む必要はなかった。
剣を持つ私の隣には、帳面を持つルクスがいる。
その周りには、森を知る者、荷を運ぶ者、箱を作る者、道を守る者がいる。
春へ続く道は、誰か一人が切り開くものではない。
皆で確かめながら、一歩ずつ進むものなのだ。
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