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第29話

翌朝、魔石の入札条件を皆で比べる予定だった。


 けれど、倉庫番が執務室へ持ってきたのは、入札書ではなく一枚の小さな紙だった。


「こちらを、町から戻った御者が渡されました」


 紙には、隣領の紋章が押されている。


 その下に書かれていたのは、冬季通行負担金。


 荷車一台につき銀貨一枚。


 雪で閉ざされやすい街道を警備し、除雪するための費用だという。


「通行税とは違うの?」


 私が尋ねると、ルクスが紙を受け取った。


「名目は負担金です。ですが、支払わなければ通さないと言われたのなら、実質的には同じです」


「どこで?」


「南の分かれ道です」


 倉庫番が地図を指す。


「橋から半刻ほど町側へ進んだ場所でございます」


 そこは、領境よりもこちら側だった。


「御者は、何と?」


「隣領の兵が三人。街道を守る費用だと説明されたそうです。揉めるより払った方が早いと、銀貨を渡しました」


「領内の道で、隣領が代金を取ったのですね」


「はい」


 倉庫番は不満を隠さず答えた。


「ただ、兵たちの態度は乱暴ではなかったそうです。領境が雪で分からなくなり、この分かれ道までが隣領だと教えられていると」


 命令を受けた兵が、教えられた通りに働いている。


 ならば、兵個人を責めても解決しない。


「ほかにも支払った方は?」


「確認できているのは三台です。すべて領内の荷車で、空荷の帰り道でした」


「領外から来た商人は?」


「昨日から、まだ通っておりません」


 このままにすれば、次に物資を運び込む商人も銀貨を求められる。


 荷一台ごとの銀貨一枚は、王都の貴族にとっては小さな額かもしれない。


 けれど、冬の食糧を運ぶ者にとっては軽くない。


 商人が負担すれば、その分は品の値へ加えられるだろう。


「地竜の討伐へ、隣領の兵が協力してくださったことと関係があるのでしょうか」


 私が尋ねると、グランが腕を組んだ。


「その可能性はあります。地竜がいなくなり、街道を使う荷も増える。今のうちに、道の管理権を押さえたい者がいても不思議ではありません」


「討伐への謝礼と、弩の修繕費は支払いました」


 ルクスが帳簿を開く。


「負傷者の治療費も、約束した額をすべて。隣領側から受領の署名も届いています」


「では、未払いの費用ではないのね」


「はい。少なくとも、正式な請求はありません」


 私は小さな紙をもう一度見た。


 受け取った銀貨の額。


 日付。


 兵の隊名。


 粗雑な取り立てではなく、記録を残している。


 隣領の上役は、本当にあの場所まで自領だと考えているのかもしれない。


「まず、領境を確かめましょう」


 私は言った。


「お祖母様の時代の地図は?」


「書庫にございます」


 セバスチャンが答える。


「ただし、地図だけでは、雪の下にある目印まで見つけられぬかもしれません」


「現地を知る方にも聞きましょう」


「炭焼き小屋の老人なら、昔の境石を知っているはずです」


 グランが地図へ指を置く。


「春から秋まで、あの辺りの森へ入っております」


「では、案内をお願いできますか」


「本人がよいと言えば。ただし、領主様がすぐ現地へ出る必要はありません」


 先に言われてしまった。


「まだ、行くとは申し上げていません」


「顔に書いてあります」


「ルクスにも言われました」


「分かりやすくなられましたな」


 グランの言葉に、ルクスが僅かに笑う。


「今は笑うところではありません」


「失礼しました」


 けれど、青い目にはまだ笑みが残っていた。


     *


 書庫から運ばれてきた地図は、三枚あった。


 一枚は、お祖母様が領地を治めていた頃のもの。


 一枚は、それより古い税の徴収区分を記したもの。


 最後の一枚には、街道沿いの橋や見張り小屋が描かれている。


「三枚とも、領境はこの小川です」


 ルクスが指で線を追う。


「冬は凍り、雪に隠れます。ですが、南の分かれ道は小川より北にありますから、間違いなくこちら側です」


「地図が古いと言われる可能性は?」


「領境を変更する正式な文書があれば、王都と両領に記録が残ります」


 セバスチャンが答えた。


「少なくとも、この館の記録にはございません」


「前任の代官が、何か約束していた可能性は?」


「調べます」


 ルクスが別の箱から書類を出そうとした。


 けれど、一人で抱えるには量が多い。


「皆で分けましょう」


 私は言った。


「私は、お祖母様の死後の領境に関する書簡を。ルクスは前任の代官が結んだ契約を。セバスチャンは税の記録をお願いします」


「私は、昔の巡回日誌を確認いたしましょう」


 グランが珍しく書類の束を手に取った。


「字を読むのは得意ではないが、地名なら分かります」


「助かります」


 倉庫番も、荷の記録を調べることになった。


 過去にあの分かれ道で、通行料を支払った例があるか確かめるためだ。


 一人で全てを読むのではない。


 書類にも、それぞれ詳しい者がいる。


     *


 調べ始めて半刻ほど経った頃、館の門へ馬が到着した。


 隣領からの使者だった。


 訪れたのは、地竜の討伐でともに戦った女戦士、カレンだった。


 外套には雪がつき、頬が冷気で赤くなっている。


「急な訪問をお許しください、領主様」


「カレン。まず、温まってください」


「いえ、先にお伝えしたいことがあります」


 彼女は差し出された温かい布だけを受け取り、肩の雪を払った。


「南の分かれ道に、こちらの兵が詰めていると聞きました」


「ええ。通行の負担金を集めています」


「やはり」


 カレンの眉が寄る。


「討伐から戻った後、領内の財務官が、冬季警備の範囲を広げると決めました。けれど、分かれ道まで含めたとは、今朝まで知りませんでした」


「領主様の命令ではないの?」


「隣領主は、冬のあいだ王都におります。通常の街道管理は財務官と代官へ任されているのです」


 領主が不在だからといって、命令が無効になるわけではない。


 けれど、現地の判断が行きすぎることはある。


「地竜の討伐で、そちらにも負担があったことは承知しています」


 私は言った。


「必要な費用に未払いがあるなら確認します。ですが、領境を越えて通行料を取ることとは別です」


「おっしゃる通りです」


 カレンは迷わず頷いた。


「地竜は、領境を守って村を襲うわけではありません。こちらの村へ向かう可能性もあった。討伐への参加は、援助だけではなく、我々自身のためでもありました」


 グランの表情が僅かに和らいだ。


「ただし」


 カレンは続ける。


「財務官にも事情があります。地竜との戦いで、弩を運ぶ道が傷みました。冬の巡回も増えています。兵への薪と食事を確保する費用が足りないのでしょう」


「だから、通る荷から集めようとしたのですね」


 ルクスが言う。


「おそらく。街道を使う者にも利益があるという考えです」


「必要性は理解できます」


 私は地図を広げた。


「けれど、誰がどこを守るのか、相談なく決めることはできません」


「はい」


「財務官と、お話しできますか」


「南の見張り小屋まで来ています。領主様から異議が出ると考え、私が先に説明へ参りました」


 既に近くまで来ている。


 ならば、こちらから王都へ長い書状を送るより、直接話した方が早い。


「私が参ります」


「領主様」


 グランが低い声を出す。


「護衛をつけます。場所もこちらの領内です」


「だからこそです。相手の兵がいる」


「カレンがこちらへ知らせに来てくださいました。戦うための話し合いではありません」


「それでも、偵察を先に出します」


「お願いします」


 私はすぐに頷いた。


 グランが少し驚く。


「何ですの?」


「いえ。以前より、話が早くなったと思いまして」


「私も学んでいます」


 ルクスが地図を畳み始める。


「では、僕も同行します」


「危険があるかもしれません」


「だからこそです」


 先ほどのグランと同じ言葉だった。


「でも、ルクスは剣を習い始めたばかりでしょう」


「剣を振るために行くのではありません。契約と費用を確かめるためです」


「それは、私にもできます」


「知っています」


 彼は静かに答えた。


「フィリア様ができることと、僕が隣にいたいことは別です」


 カレンが私たちを見比べた。


 グランは何も言わず、窓の外を見ている。


「……分かりました」


 私は頷く。


「一緒に参りましょう」


「はい」


「ただし、私のそばを離れないでください」


「領主様も、僕のそばを離れないでください」


「私は守る側です」


「僕も、守られるだけのつもりはありません」


 ルクスは帳簿を持ち上げた。


「少なくとも、数字からは」


 剣と帳簿。


 守り方は違う。


 けれど、どちらも必要だった。


     *


 先に出た偵察から、争いの気配はないと報告が届いた。


 私たちは橇を使い、南の分かれ道へ向かった。


 御者は村の道を知る者。


 護衛にはグランと若者二人。


 カレンも馬で並走している。


 橇の中には、私とルクス、それにセバスチャンが乗った。


 地図。


 過去の契約書。


 通行料を支払った三台分の受取証。


 そして、温かい飲み物と予備の手袋。


「書類より、手袋の方が多くありませんか」


 ルクスが荷袋を見る。


「濡れた時に必要です」


「僕の分も?」


「もちろんです」


「古い手袋も持ってきました」


「それは大切なものでしょう。濡らさない方がよいです」


「使うためのものです」


「分かっています。でも今日は、新しい方を使ってください」


 私は彼の手元を見る。


 濃い茶色の革手袋。


 私が贈ったものだ。


「心配ですか」


「何が?」


「僕が、寒い思いをすることが」


「当然でしょう」


 答えると、ルクスが少し笑った。


「何ですの?」


「嬉しいだけです」


「寒くない方がよいに決まっています」


「はい」


「私だけ温かくても、落ち着きませんもの」


「では、フィリア様の手も」


 彼が私の袖から、淡い青の手袋留めを引き出した。


「きちんとついていますね」


「今日は忘れていません」


「なくしてもいません」


「一度しか忘れていないのに、いつまで確認するの?」


「春まででしょうか」


「長すぎます」


「では、来年の冬まで」


「さらに長くなっていますわ」


 向かいに座るセバスチャンは、地図を見ている。


 けれど、地図が上下逆だった。


 指摘するべきか迷い、やめた。


     *


 南の分かれ道には、小さな見張り小屋が建っていた。


 もとは、お祖母様の時代に街道の避難所として作られたものだ。


 屋根の雪は下ろされ、前には隣領の兵が三人立っている。


 兵たちは私の姿を見ると、すぐに礼をした。


「レインズワース女伯爵様」


「寒い中、ご苦労様です」


 私はまず、彼らの様子を見た。


 外套は厚いが、交代で使うらしく、袖口がかなり擦れている。


 小屋の脇には薪が積まれていた。


 雪を除けた跡もある。


 何もせずに銀貨を取っていたわけではない。


「こちらで通行の負担金を集めていると伺いました」


「はい。冬季警備の命令を受けております」


「この場所が、レインズワース領内であることは?」


 兵たちが顔を見合わせる。


「我々は、分かれ道までが隣領だと」


「誰から?」


「財務官より」


 やはり、兵の独断ではない。


「支払った方々の記録を見せていただけますか」


「小屋の中にございます」


 記録は丁寧につけられていた。


 日付。


 荷車の台数。


 受け取った額。


 通った者の名。


 三台分だけで、倉庫番の報告と一致している。


「隠してはいないのですね」


 ルクスが小声で言う。


「ええ。正式な仕事だと信じています」


 兵を責めるべきではない。


 私は記録を返した。


「命令が改められるまで、新たな徴収を止めてください」


「しかし」


「責任は、私が財務官と話します。あなた方へ負わせません」


 兵は迷った後、カレンを見た。


 彼女が頷く。


「従って。財務官には私からも説明する」


「承知しました」


     *


 隣領の財務官は、見張り小屋の奥で待っていた。


 五十歳ほどの男性で、名をバルドと名乗った。


 上質ではあるが古い外套を着ている。


 机には帳簿が何冊も積まれていた。


 私たちは向かい合って座った。


 グランとカレンは、それぞれの側の壁際に立つ。


 ルクスは私の隣。


 セバスチャンは書類を広げられるよう、机の端を整えた。


「まず、領境について確認させてください」


 私は三枚の地図を出した。


「いずれの記録でも、境は小川です。南の分かれ道は、レインズワース領内にあります」


 バルドは地図を見た。


「その地図が作られた後、街道の管理について新たな取り決めがあったと聞いております」


「書面は?」


「現在、探させております」


「こちらには残っておりません」


「前任の代官と、口頭で合意した可能性もあります」


「領境を変える合意を、代官が口頭で結ぶ権限はありません」


 私が答える。


「領地は、当時もお祖母様の所有でした。死後は遺言により私が継承しています。代官に委ねていたのは日常の管理であって、領境や徴税権の処分ではありません」


 バルドの目が僅かに細くなった。


「王都育ちの若い領主様と伺っておりましたが、よくお調べで」


「知らないことは、皆に教わっています」


「では、こちらの事情もお聞きいただけますか」


「そのために参りました」


 バルドは自領の帳簿を開いた。


 地竜討伐後、隣領では南の街道の巡回を増やしている。


 魔物が地竜の縄張りを避けていた反動で、別の場所へ移る可能性があるためだ。


 さらに、雪で立ち往生した荷車を救うため、兵と馬を待機させていた。


「巡回そのものは、こちらの領民にとっても助かります」


 私は言った。


「ですが、相談なく領内へ入り、費用を集めることは認められません」


「何もせずに安全だけを受け取るおつもりですか」


 バルドの言葉は厳しかった。


 ルクスが口を開きかける。


 私は手で制した。


「いいえ。働いていただいた分には、正当な費用を支払います」


「では」


「ただし、実際に行った巡回の回数、参加した人数、使った薪と馬の飼料を示してください。領内で必要な警備だったか、グランと村の見回り役にも確認します」


「一台ごとに銀貨を取るより、手間がかかりますぞ」


「手間がかかっても、必要です」


 私はバルドを見る。


「街道を通る者が多い月だけ利益が出て、雪で誰も通らない月には兵の食事さえ用意できない。そのような仕組みでは、警備する方も困るでしょう」


 バルドは黙った。


 机の上の帳簿へ視線を落とす。


「……その通りです」


 低い声だった。


「今月は、兵の薪代が足りませんでした。領主様が王都へ発たれる前に、冬の予算は決められていた。地竜の騒ぎで予定が崩れたのです」


「領主様へ追加の予算を求めなかったのですか」


「王都への早馬には金がかかる。返事を待つ間にも、雪は降る」


「それで、現場で集めたのですね」


「はい」


 間違った方法ではあった。


 けれど、私腹を肥やすためではない。


 兵を凍えさせず、道を守ろうとした結果だ。


「では、領境と費用を分けて考えましょう」


 ルクスが言った。


 バルドが彼を見る。


「境は記録に従い、小川とする。隣領がこちら側で巡回する場合は、事前に範囲と費用を協議する」


 ルクスは新しい紙へ項目を書いていく。


「通行する者からは取らず、両領が、それぞれ受ける利益と巡回の距離に応じて負担する方法ではいかがでしょう」


「距離だけでは、橋や坂道の作業量を反映できません」


 バルドが答える。


「では、難所ごとに作業記録をつけます」


「記録する者の負担が増える」


「毎日ではなく、巡回の交代時に一度。兵の方々へ難しい帳簿を求めず、印をつけるだけの表にします」


 バルドは少し考えた。


「それなら可能でしょう」


 話が進み始める。


 グランは、両領の巡回が同じ日に重ならないよう日程を組む案を出した。


 カレンは、緊急時に狼煙を使う場所を二つ増やすべきだと提案した。


 炭焼きの老人が知る境石は、雪解け後に双方で掘り出し、位置を確認する。


 それまでは小川と古い白樺を仮の目印にする。


「既に集めた銀貨三枚は、返していただきます」


 私は言った。


「兵の薪代へ使ってしまった分があれば、こちらが負担すべき巡回費から正式に支払います」


「同じ銀貨でも、意味が違うということですか」


「ええ。通行を許す代金ではなく、頼んだ仕事への対価です」


 バルドは長く息を吐いた。


「承知しました」


「契約は、双方の領主が確認できるまで、この冬だけの仮契約とします」


「異存ありません」


 すべてが解決したわけではない。


 実際の費用を調べ、負担の割合を決める必要がある。


 けれど、領境を曖昧にしたまま銀貨を集めることは止められた。


     *


 話し合いが終わる頃には、外の風が強くなっていた。


 雪が小屋の窓へ当たっている。


「今から館へ戻るのは、危険です」


 カレンが言った。


「一刻も続かない吹雪だと思いますが、ここで待った方がよいでしょう」


 御者も同じ判断だった。


 私たちは見張り小屋で、天候が落ち着くのを待つことにした。


 狭い小屋には、隣領の兵もいる。


 暖炉の火を囲み、こちらから持ってきた飲み物とパンを分けた。


「領主様のお食事を、我々がいただいても?」


 兵の一人が遠慮する。


「皆で食べるために持ってきました」


「ですが」


「空腹のままでは、帰りの警備もできません」


 料理人が作ってくれた香草パンを、一人に一つずつ渡す。


 地竜の形ではない。


 すべて綺麗な丸だった。


 バルドも、兵と同じパンを受け取った。


「財務官には、もっと特別なものが出るのかと思っておりました」


「館でも、皆で同じパンを食べています」


「女伯爵様も?」


「私が作ると、少し形が変わりますけれど」


「味は同じです」


 ルクスが付け加える。


「なぜ、あなたが答えるの?」


「よく知っていますから」


 兵たちが顔を見合わせた。


 カレンは、パンへ視線を落としている。


 笑いを堪えているらしい。


「ルクス」


「はい」


「今日は、地竜の形のパンを持ってきていません」


「残念です」


「仕事の話し合いに持ってくるものではないでしょう」


「見せれば、財務官にも意味が伝わったかもしれません」


「どのような意味ですか」


「形が違っても、味は同じだと」


 バルドが真面目に頷いた。


「なるほど。領境の話にも通じますな」


「通じません」


 私はすぐに否定した。


 見張り小屋に、小さな笑いが広がる。


 先ほどまで向かい合って条件を争っていた者たちが、同じ火を囲んでパンを食べている。


 意見が違っても、敵になる必要はない。


     *


 吹雪は、半刻ほどで弱まった。


 帰り支度を整える。


 外へ出る前に、私はルクスの手袋を確かめた。


「濡れていませんか」


「大丈夫です」


「指先は冷たくない?」


「手袋をしているので、触っても分からないと思います」


「では、外してください」


「ここで?」


「確認するだけです」


 ルクスは少し戸惑いながら、右手の手袋を外した。


 私はその手を両手で包む。


 指先は冷えていた。


「冷たいではありませんか」


「フィリア様の手が温かいのです」


「予備の手袋へ替えてください」


「こちらは濡れていません」


「でも、冷えています」


「手袋ではなく、手が?」


「両方です」


 自分でも、少し理屈がおかしい気がした。


 ルクスが笑う。


「では、温まるまでこのままでも?」


「このまま?」


「フィリア様が、手を包んでくださっているので」


 周囲に人がいることを思い出す。


 グランは橇の縄を確かめている。


 カレンは兵へ指示を出している。


 バルドは書類を箱へ収めていた。


 誰もこちらを見ていない。


 おそらく、見ないようにしてくれている。


「少しだけです」


「はい」


 私はルクスの指先を包んだまま、暖炉へ近づけた。


「熱いところへ急に近づけてはいけません」


「分かっています」


「本当に?」


「フィリア様より、北の冬には慣れています」


「それでも、冷えていました」


「心配してくださる方がいると、少し油断するのかもしれません」


「それはいけません」


「はい。気をつけます」


 素直に答えながらも、彼は嬉しそうだった。


「次は、僕がフィリア様の手を確認します」


「私は温かいです」


「公平ではありません」


「冷えていないのに?」


「確かめなければ分かりません」


 私も右手袋を外した。


 ルクスの手へ重ねる。


 彼の指先は、先ほどより温かくなっていた。


「本当ですね」


「何が?」


「フィリア様の方が温かいです」


「ですから、申し上げたでしょう」


「では、もう少しだけ借りてもよいですか」


「私の手を?」


「温かさを」


 言い方を変えても、手をつないでいたいという意味に聞こえた。


「館へ戻るまでです」


「はい」


「橇に乗ったら、手袋をしてください」


「では、橇に乗るまで」


「短いですわね」


「もう少し長い方がよいですか」


「……聞かなくても分かるでしょう」


 私が言うと、ルクスは指を絡めるのではなく、そっと手のひらを重ねた。


 急がず。


 私が離そうと思えば、いつでも離せるように。


 私は離さなかった。


     *


 館へ戻った後、仮契約の条件を皆へ説明した。


 村長。


 倉庫番。


 街道を使う御者。


 見回り役。


 それぞれから意見が出る。


「隣領の兵が巡回してくれるのは助かる」


「だが、こちらの道で荷を止められては困る」


「雪に埋まった荷車を助けた回数も、費用へ入れるべきだ」


「空荷と食糧を積んだ荷では、救助の手間が違う」


 ルクスが一つずつ書き留める。


「記録の形式は、実際に使う方々に決めていただきましょう」


「印だけなら、雪の中でもつけられる」


 御者が言った。


「人を助けたら丸。馬なら三角。車輪や荷台の修理は四角にしてはどうだ」


「費用の大きさが違います」


 倉庫番が答える。


「印の横へ人数を書けばよい。後でこちらが計算する」


 現場を知る者たちの方が、使いやすい形を思いつく。


「では、一週間試しましょう」


 私は言った。


「使いにくければ、直してください。仮契約も、記録の表も、最初から完璧でなくて構いません」


「承知しました」


 皆が頷いた。


「徴収された銀貨は、御者へ返します。隣領へ支払う巡回費は、冬の街道管理費から」


「足りますか」


 村長が尋ねる。


「今月は足ります。ただし、来月も雪が多ければ、橋の本修繕用に残した額へ触れる可能性があります」


「魔石の契約金が入れば?」


「それを当てにして、先に使うことはしません」


 以前、査定人に教わったことだ。


 確定していない金を、あるものとして扱わない。


「まず、一週間の費用を見ます。その後で、予算を組み直しましょう」


 冬は、予定通りには進まない。


 だからこそ、使った額を確かめ、必要なところへ動かしていく。


     *


 会議が終わると、ルクスは椅子へ背を預けた。


 皆が退室した後も、帳面を閉じずにいる。


「疲れましたか」


 私が尋ねると、彼は首を横へ振った。


「少しだけです」


「少しだけ、は疲れた時のお返事です」


「フィリア様も、よく使われます」


「ですから、分かります」


 私は彼の帳面を閉じた。


「今日は、ここまでです」


「仮契約の清書が」


「セバスチャンが下書きを作ってくださいます。明日の朝、二人で確認しましょう」


「まだ夕方です」


「吹雪の中を往復し、話し合いもしました」


「フィリア様もです」


「では、二人とも休ませる会を開きます」


「今日の会長は?」


「私です」


「昨日もフィリア様でした」


「明日はルクスで構いません」


「会長の交代が、公平ではありません」


「今日、あなたは帳簿で私を守ってくれました」


 私は閉じた帳面へ手を置いた。


「ですから、今は私が休ませます」


 ルクスが私を見る。


 やがて、観念したように頷いた。


「分かりました」


「お茶にしましょう」


「地竜のパンは?」


「今日はありません」


「では、普通の丸いパンを」


「半分ずつ?」


「はい」


 窓の外では、再び細かな雪が降り始めていた。


 領境を越えて入ってくる雪を、止めることはできない。


 魔物も、風も、人の暮らしも、地図の線だけで分けられるものではなかった。


 だからこそ、土地を守るためには、境を曖昧にしないことも、境の向こうと手を取り合うことも必要なのだろう。


「ルクス」


「はい」


「今日、一緒に来てくださってありがとう」


「僕も、連れてきてくださってありがとうございます」


「次も一緒に?」


「はい。ただし、危険でないとグランさんが認めた時だけです」


「よく分かっていますね」


「フィリア様が、すぐ承知してくださるようになったので」


「私も学んでいます」


「知っています」


 彼の声は柔らかかった。


 守るとは、一人で前へ立つことだけではない。


 隣に立つ人の力を借り、離れた場所にいる人の知恵を聞くこと。


 そして、仕事が終わったら、同じ卓でパンを分けること。


 私は今日も、そのことを少しずつ学んでいた。

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