第28話
ルクスの最初の一歩は、慎重すぎるほど慎重だった。
右足を前へ出し、雪を踏む。
それから木剣を動かそうとして、足元へ視線を落としたまま止まった。
「フィリア様」
「はい」
「足と剣を、同時に動かすのは難しいです」
「最初は、誰でもそうです」
「フィリア様も?」
「ええ。お祖母様からは、剣を持たずに足運びだけを一月続けさせられました」
「一月も?」
「毎朝です」
ルクスだけでなく、見学していたテオまで驚いている。
「その後、木剣を持たされたのですか」
「いいえ。次は、空の水桶を持って半月です」
「剣ではなく?」
「姿勢が崩れると、桶が脚へ当たるので」
「では、剣を持てるようになるまで、一月半ですか」
「その後、桶へ水が入りました」
ルクスが黙った。
「どのくらい?」
「一月ほど」
「今までのお話では、いちばん厳しい気がします」
「水は半分でしたわ」
「半分でも重いです」
「公平ですから」
「何と何が公平なのですか」
尋ねられ、私は少し考えた。
「右と左の腕?」
「おそらく、そういう意味ではありません」
後ろでグランが低く咳払いをした。
「アイリス様は、剣を振らせる前に、転ばぬ足と、武器を手放さぬ手を作らせたのです」
「はい。剣を持てるようになった時には、嬉しくて眠れませんでした」
「眠らなければ、翌朝の稽古を休まされるでしょう」
「ですから、目を閉じて横になっていました」
「眠ってはいないのですね」
「努力はしました」
ルクスが笑う。
私は彼の木剣を指した。
「今は、剣を振らなくて構いません。一歩進み、戻る。それだけを繰り返しましょう」
「桶は?」
「今日は使いません」
「安心しました」
「春になったら、試しますか」
「遠慮します」
即答だった。
*
同じ動きを十度繰り返す頃には、ルクスの足跡が二本の短い線になっていた。
速くはない。
けれど、最初より重心が揺れなくなっている。
「上達しています」
「本当に?」
「ええ。五度目から、戻る時に踵が浮かなくなりました」
「そこまで見ていたのですか」
「教えると約束しましたから」
ルクスは自分の足跡を振り返った。
「フィリア様の足跡とは、ずいぶん違いますね」
私が踏んだ雪は浅く、間隔も揃っている。
長く続けてきた結果だ。
「比べるなら、昨日の自分と比べてください」
「お祖母様に教わった言葉ですか」
「ええ」
私は木剣の先を少し下げさせた。
「上手な人だけを見れば、できないことばかりに思えます。けれど、昨日より一つできたなら、それはきちんと進んだということです」
「では、昨日より剣が上手になりました」
「昨日は、持っていませんでしたけれど」
「一つ進みました」
「そうですね」
彼の考え方は、間違っていない。
私は笑って頷いた。
ルクスも微笑み、もう一度足を前へ出す。
その時、表面が凍った雪を踏んだ。
靴が僅かに滑る。
体がこちらへ傾いた。
私はすぐに彼の腕をつかみ、肩を支えた。
「大丈夫?」
「はい」
「足首は?」
「痛くありません」
「無理に動かさないで。まず、体重をかけずに――」
「フィリア様」
「何ですの?」
「昨日のお約束通りですね」
「約束?」
「僕が倒れそうな時は、フィリア様が支えてくださると」
言われてから気づく。
私の片腕は彼の背へ回り、もう一方の手は木剣を持つ手首を支えている。
ほとんど抱き留めるような形だった。
「これは稽古です」
「はい」
「転倒を防いだだけです」
「分かっています」
「では、なぜ笑っているの?」
「約束を守ってくださったので」
ルクスの青い瞳が、すぐ近くにある。
私はゆっくりと彼の姿勢を戻した。
けれど、手を離す前に確認する。
「本当に、足首は痛みませんか」
「大丈夫です」
「手も?」
「はい」
「では、続けられます」
「もう支えてはいただけませんか」
「転びそうになったら」
「転んだ方がよいのでしょうか」
「わざと転んではいけません」
後ろから、またグランの咳払いが聞こえた。
先ほどより大きい。
「領主様。稽古を続けても?」
「え、ええ。もちろんです」
「ルクス。足元だけでなく、進む先を見ろ」
「はい」
グランは何もからかわなかった。
けれど、テオは鞘の金具ではなく、私たちの方を見ていた。
「なるほど」
小さく呟いている。
「何がですか」
ルクスが尋ねると、テオは慌てて首を振った。
「いえ。女伯爵様の受け身が、非常に速かったと思いまして」
「受け身?」
「ルクスを受け止めた動きのことでは?」
私が説明する。
「そうです。そういう意味です」
テオは何度も頷いた。
少し離れたところで、ネラが婚約者の御者へ何か耳打ちをしている。
二人とも、こちらを見ないよう努力していた。
*
鍛錬の後、グランと御者が街道を確かめた。
雪は浅く、風も弱い。
町へ戻れると判断され、ネラたちは朝食を終えてから出発することになった。
空の麻袋。
釘の注文書。
灯油容器の借用契約。
それらが橇へ積み込まれる。
「春になりましたら、林檎籠を受け取りに参ります」
ネラが言った。
「それまでに練習します」
「無理はなさらないでください。難しければ、領内の職人が作ったものでも十分嬉しいですから」
「でも、私も一つは編みたいのです」
「では、楽しみにしております」
彼女は私へ礼をした後、ルクスを見る。
「今度、熱を出したら領主様へ言うのよ」
「もう何年も前のことです」
「今も無理をするところは変わっていないでしょう?」
「以前よりは、休んでいます」
「私が休ませます」
私が答えると、ルクスがこちらを見た。
ネラは満足そうに頷く。
「それなら安心です」
「ネラさんも、婚礼の準備で無理をなさらないでください」
ルクスが言った。
「分かっているわ。仕事も準備も、彼と半分ずつにするから」
隣にいた御者が、穏やかに頷いた。
「半分ずつ」
私が呟く。
「よい言葉ですね」
「領主様とルクスも、お好きな言葉なのでしょう?」
ネラに問われ、私たちは顔を見合わせた。
「公平ですから」
答えまで重なった。
テオが吹き出す。
「本当に息が合っていますね」
「仕事では、以前からです」
ルクスが言う。
「仕事では?」
ネラが聞き返す。
ルクスは口を閉じた。
「ほかのことは、まだ練習中です」
代わりに私が答えた。
「剣のように?」
テオが尋ねる。
「剣より難しいですわ」
「針よりも?」
ルクスが言う。
「比べられません」
「地竜よりは?」
「なぜ恋のお話を、地竜と比べるのですか」
口にしてから、私は動きを止めた。
恋。
自分でそう言ってしまった。
皆が静かになる。
ルクスの耳が赤くなった。
私の頬も急に熱くなる。
「今のは」
「領主様」
ネラが優しく遮った。
「私たちは、そろそろ出発いたします」
「え、ええ。お気をつけて」
「春に、また」
「はい」
彼女はそれ以上何も言わず、橇へ乗った。
ただ、口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
御者が手綱を取り、橇が動き出す。
テオは最後まで何度も振り返り、お祖母様の剣へ手を振っていた。
少なくとも、私へではなく剣へだと思う。
*
橇が門の向こうへ消えた後も、私とルクスは並んで立っていた。
雪を踏む馬の音が遠ざかる。
「寒いですわね」
私が言う。
「はい」
「中へ戻りましょうか」
「そうですね」
それなのに、どちらもすぐには動かなかった。
先ほど口にした言葉が、まだ二人の間に残っている。
「フィリア様」
「何かしら」
「先ほどの、恋のお話というのは」
「聞こえていたの?」
「あれほど近くにいましたから」
「忘れてください」
「難しいと思います」
「努力してください」
「したくありません」
素直に返され、私はルクスを見る。
彼は照れていたけれど、目を逸らさなかった。
「困りましたわ」
「嫌でしたか」
「嫌ではありません」
むしろ、忘れてほしくない気持ちもある。
けれど、あの言葉の先まで今すぐ話すには、胸の中が追いついていなかった。
「ただ、自分から口にするつもりはなかったのです」
「僕も、尋ねるつもりはありませんでした」
「では、今は?」
「答えを急がせたくはありません」
ルクスは静かに言った。
「でも、いつか伺いたいです」
「何を?」
「フィリア様が、僕とのことをどのように考えていらっしゃるのか」
仕事なら、曖昧な返事をしてはいけない。
けれど、恋は契約書ではない。
今すぐすべてを決める必要もない。
「私も、いつか聞きたいです」
「僕の気持ちを?」
「ええ」
「今ではなく?」
「今、仰ってくださるの?」
聞き返すと、ルクスの表情が止まった。
私も止まる。
互いに、相手へ答えを渡したようなものだった。
「……中へ戻りましょうか」
今度はルクスが言う。
「そうですわね」
「今日は、まだ仕事があります」
「ええ。仕事のお話なら、きちんとできます」
「僕もです」
私たちは館へ向かって歩き出した。
仕事では落ち着いて話せる。
恋では、一つ言葉を交わすたびに足が止まる。
けれど、逃げたわけではなかった。
いつか尋ねる。
いつか答える。
その約束を、二人とも受け取っていた。
*
執務室へ戻ると、セバスチャンが机の上へ三通の手紙を並べていた。
「王都から、早馬にて届きました」
「王都から?」
「はい。地竜の魔石に関する正式な入札書が二通。もう一通は、北方史料研究会からでございます」
私は外套を脱ぎ、席へ着いた。
ルクスも向かいへ座る。
先ほどまで赤かった耳は、もう普段の色へ戻っていた。
仕事の顔だ。
「入札書から確認しましょう」
「はい、領主様」
今度の呼び方は硬くなかった。
一通目は、王都の大きな魔道具工房からだった。
提示額は高い。
ただし、魔石を分割せず王都まで運び、到着後の検査で品質が基準に届かなければ減額する条件がついている。
「運搬中の損傷は、こちらの責任ですね」
ルクスが条項を指す。
「護衛費も領の負担です」
「最低価格は高く見えますけれど、実際に残る額は少なくなる可能性がありますね」
二通目は、北部に複数の工房を持つ組合からだった。
提示額は一通目より低い。
けれど、買い手側が専用の運搬箱と護衛を用意し、領内の倉庫で引き渡した時点で支払いが確定する。
さらに、魔石の一部を北部の暖房用魔道具の研究へ回すと記されていた。
「王都の工房より、提示額は一割ほど低いです」
ルクスが計算する。
「ですが、運搬費と護衛費を差し引けば、ほとんど変わりません。減額の条件も、こちらの方が限定されています」
「支払いは?」
「契約時に三割。引き渡し時に残りです」
「冬の物資代を考えると、先に三割入るのは助かります」
数字だけなら、一通目。
実際の負担と危険まで考えれば、二通目。
私は両方を横へ並べた。
「倉庫番と、魔石を保存している職人にも意見を聞きましょう」
「はい。運搬箱の作りも確かめていただきます」
「暖房用魔道具の研究については?」
「すぐ領内で使えるとは限りません。ですが、研究の結果を共有してもらえるなら、将来の選択肢にはなります」
「契約へ入れられるか、尋ねましょう」
ルクスが質問事項を書き出していく。
提示額の高さだけで決めない。
誰が危険を負うのか。
いつ支払われるのか。
この土地の未来へ何が残るのか。
皆の意見を聞いてから選べばよい。
「申し出を受けるのも、難しいのですね」
私が言うと、ルクスが顔を上げた。
「断るよりも?」
「ええ。よい条件だけを見ていると、その後ろにある負担を見落とします」
「婚姻の申し出も、同じでしょうか」
「なぜ、そこで婚姻が出てくるの?」
ルクスが固まった。
「いえ。王都からの手紙でしたので、そうしたお話も増えるかと思っただけです」
「地竜を討ったから?」
「領地の収入が立ち直れば、それを理由に近づく家もあるでしょう」
「そうですわね」
王都にいた頃、婚姻は家と家を結ぶものだと学んだ。
相手の人柄だけではなく、領地、財産、政治的な立場を比べる。
それ自体を悪いとは思わない。
けれど今は、以前とは違うことも知っている。
日々をともにする人を、自分の意思で選びたい。
「その場合も、提示されたものだけでは決めません」
私は答えた。
「誰とお茶を飲みたいか。疲れた日に、誰の隣へ帰りたいか。それも確かめます」
ルクスの手が止まった。
「大切な条件ですね」
「ええ」
「もう、候補はいらっしゃいますか」
仕事の顔をしているけれど、声が少しだけ緊張している。
「どうでしょう」
私はすぐには答えなかった。
少しくらい、先ほどの仕返しをしてもよいと思った。
「比較する必要があります」
「何と何を?」
「林檎を煮てくださる方と、手袋を直してくださる方」
「同じ人かもしれません」
「旅の本を読んでくださる方も」
「それも、同じ人では?」
「雪で転びそうな時に支えてくださる方」
「候補が一人しかいないように聞こえます」
「そうかしら」
「地竜の形のパンを、大切に取っておく人も入れてください」
「その方は、少し変わっていますわね」
「僕も、そう思います」
私たちは顔を見合わせた。
どちらからともなく笑う。
「比較は、必要なさそうです」
私が言うと、ルクスはゆっくりと頷いた。
「はい」
そこへ、セバスチャンが新しいお茶を運んできた。
「お話はまとまりましたか」
「魔石については、まだです」
私が答える。
「左様でございますか」
「ほかに、何のお話があるのです?」
「いいえ。私は魔石についてお尋ねいたしました」
セバスチャンは澄ました顔で杯を置く。
けれど、茶菓子の皿には、地竜の形をした香草パンが一つだけ載っていた。
「これは昨日の残り?」
「料理人が、今朝新しく焼いたものでございます」
「なぜ一つだけ?」
「お二人で召し上がると伺っておりますので」
誰から聞いたのかは、尋ねなかった。
おそらく館中が知っている。
ルクスがパンを見て、私を見る。
「半分ずつにしますか」
「ええ」
「大きい方は?」
「今日は、ルクスへ」
「次はフィリア様ですね」
「忘れないでください」
「忘れません」
窓の外では、ネラたちの橇が通った跡に、薄い雪が積もり始めていた。
人が訪れ、去っていく。
新しい取引も、まだ知らない申し出も、これから増えるだろう。
そのたびに条件を確かめ、誰かの言葉を聞き、自分たちで選んでいく。
けれど、目の前のパンを誰と分けたいかだけは、もう迷わなかった。
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