第27話
香草パンの試食から三日後、隣町の商会から一台の小さな橇が到着した。
先日の買い付けで借りた麻袋を回収するためだった。
空になった袋の数を確かめ、新たに必要となった釘や灯油の見積もりを受け取る。
雪が深くなる前に済ませておきたい、最後の取引の一つだった。
橇から降りたのは、二人の若者だった。
先に立ったのは、赤茶色の髪を短く切った女性。
年齢は私と同じくらいだろうか。
厚い外套の裾を払い、荷台から帳簿を取り出す動きに迷いがない。
もう一人は、彼女によく似た髪の青年だった。
背が高く、荷物の箱を一人で持とうとして、御者に止められている。
「お久しぶり、ルクス」
女性はルクスを見つけると、親しげに片手を上げた。
「ネラさん。お久しぶりです」
ルクスも柔らかく笑った。
私は二人を見比べた。
知り合いだったらしい。
「こちらは、隣町の商会で会計を担当しているネラさんです」
ルクスが私へ紹介する。
「以前から、麦や塩の取引でお世話になっています」
「ネラと申します、領主様。こちらは兄のテオです」
「テオです。お目にかかれて光栄です、レインズワース女伯爵様」
二人が礼をする。
「遠いところをありがとうございます。道は大丈夫でしたか」
「昨日のうちに途中の宿まで来ておりましたので」
ネラが答えた。
「今朝は凍っていましたが、御者が慣れております。橇なら荷車より軽いですし」
「それでも、帰りは日が暮れる前に出てください。必要でしたら館へ泊まっていただいても」
「ありがとうございます。空模様を見て決めます」
仕事の話は、簡潔だった。
けれど、ネラがルクスを見るたび、私の胸の中に小さなものが引っかかった。
親しげだからだろうか。
ルクスも、いつもより気安い様子に見える。
「ルクス、以前より顔色がいいわね」
「そうですか?」
「ええ。去年の冬は、会うたびに帳簿と同じ色をしていたもの」
「帳簿は茶色ですが」
「表紙ではなく、古い紙の方よ」
ネラが笑う。
ルクスも困ったように笑った。
私は二人の会話を聞きながら、なぜか手元の手袋を整えた。
淡い青の手袋留めは、今日も袖へ通してある。
「ルクスは、以前からお忙しかったのですね」
「はい」
ネラが私へ向き直った。
「でも、何を言っても休まなかったんです。見積書を渡しに来ただけなのに、町の倉庫まで手伝いに来たこともあって」
「必要な品の状態を、自分で確かめたかったので」
「その後、熱を出したでしょう?」
「一晩だけです」
「二日よ」
「……二日でしたか」
私の知らないルクスの話だった。
今より少し幼く、今よりずっと一人で抱え込んでいた頃の彼。
知ることができるのは嬉しい。
けれど、その話をする人が私ではないことに、胸の奥が落ち着かなかった。
「今は、きちんと休んでいただいています」
気づけば、私はそう言っていた。
ネラが瞬く。
ルクスも私を見る。
「二人とも休ませる会がありますから」
「会?」
「私とルクスが、互いに働きすぎないよう見張る会です」
「フィリア様」
ルクスが小さく呼んだ。
「何ですの?」
「その説明では、少し違うものに聞こえるかもしれません」
「どのように?」
「とても仲がよろしいのですね」
ネラが笑顔で言った。
私とルクスは、同時に黙った。
「ええと」
ルクスが何か言おうとする。
「会長は交代制です」
私は先に説明した。
「そういうことではないと思います」
ルクスが言う。
ネラはさらに笑みを深めたけれど、それ以上は何も言わなかった。
*
麻袋の確認は、倉庫番とネラが行った。
袋の口に商会の印があり、補修したものには別の色の糸がついている。
「四十八、四十九……五十。全部揃っています」
ネラが帳面へ数を書き込む。
「補修が必要なものは三枚ですね」
「こちらで縫って返すこともできます」
倉庫番が言った。
「いえ。縫い方を統一したいので、商会で直します。通常の使用で傷んだものですから、補修費もこちらで持ちます」
「では、荷下ろしの時についた傷だけ、こちらの負担にしてください」
どちらか一方へ押しつけるのではなく、原因を確かめて分ける。
ネラの判断は早く、倉庫番も納得していた。
「ルクス、前回の返却札を見せてもらえる?」
「こちらです」
二人が一枚の紙を覗き込む。
肩が触れそうなほど近い。
ルクスは何も気にしていない様子で、数字を指していた。
「この二枚は、最初から継ぎがあったはずです」
「本当ね。こちらの記録にもあるわ」
私は少し離れたところで、見積書を読んでいた。
読んでいるつもりだった。
同じ行を三度見たことに気づく。
「領主様」
隣から声をかけられた。
振り向くと、テオが立っている。
「何でしょう」
「その剣は、アイリス様がお使いになったものですか」
彼の視線は、私の腰にある剣へ向いていた。
「ええ。お祖母様の形見です」
「やはり」
テオの目が輝く。
「失礼ながら、一目見た時から、そうではないかと思っておりました。鞘の金具に、レインズワース家の古い意匠があります」
「剣にお詳しいの?」
「剣というより、金工を学んでおります。商会では、農具や荷車の金具も扱っていますので」
彼は近づきすぎない位置で、鞘の留め金を指した。
「こちらは、北方の職人がよく使った合わせ方です。今では同じ形を作れる者が少なくて」
「お祖母様からは、剣の手入れだけを教わりました。金具については詳しくありません」
「もしよろしければ、傷みがないか見ても?」
私は少し迷った。
剣を他人へ渡すことには慎重であるべきだ。
けれど、鞘から抜かず、私が持ったまま確認するだけなら問題ない。
「このままでしたら」
「もちろんです」
テオは手袋を外し、鞘へ触れる前に私の許可を待った。
私が頷くと、留め金の縁を指先で確かめる。
「僅かに緩んでいます。今すぐ外れるほどではありませんが、春までに締め直した方がよいでしょう」
「領内の鍛冶職人にも見ていただきます」
「それが一番です。道具が足りなければ、町から貸し出せます」
「ありがとうございます」
「それにしても、この剣で地竜を」
テオが私を見る。
「最後に首の鱗の隙間へ刃を入れられたと聞きました。本当なのですか」
「隙間が開いていましたから」
「開いていても、僕なら近づけません」
「討伐隊の方々が動きを止めてくださいました。私一人では無理でした」
「それでも、すごいです」
まっすぐ褒められ、私は少し困った。
「地竜のお話より、今は金具のことを」
「すみません。つい」
テオが照れたように笑う。
「できればいつか、剣を振るところも拝見したいです」
「鍛錬でしたら、天候のよい朝に行っています」
「本当ですか」
「ただし、見学するならグランの許可を得てください。訓練の邪魔にならない場所から」
「はい。必ず」
その時、紙をめくる音が少し強く聞こえた。
見ると、ルクスが返却札を卓へ置いたところだった。
「確認は終わりました」
声はいつも通り穏やかだ。
けれど、私を見る青い瞳が、ほんの少しだけ硬い。
「ルクス?」
「何でしょう、領主様」
公務中だから、領主様。
いつもと同じ呼び方のはずなのに、なぜか距離を感じた。
*
昼食までの間、釘と灯油の見積もりを確認した。
灯油は冬の相場が上がっている。
すべてを買い足すのではなく、館と共同作業場で使う分だけを確保することにした。
家ごとの明かりには、領内で作れる獣脂の蝋燭も併用する。
「灯油を運ぶ容器は、商会から貸し出せます」
ネラが言った。
「ただし、春に返却してください。容器そのものが不足していますので」
「破損した場合の代金も、契約へ入れましょう」
ルクスが答える。
「そうね。去年の書式を使えるわ」
「漏れを確かめる費用は?」
「商会持ち。出発前の確認はこちらの責任だから」
二人のやり取りには無駄がない。
長く取引してきたからこそ、互いの考え方をよく知っているのだろう。
私は、また胸の奥が落ち着かなくなった。
仕事が進んでいるのだから、よいことだ。
ネラは優秀で、ルクスも話しやすそうにしている。
何も問題はない。
「領主様」
テオに呼ばれ、顔を上げた。
「釘の見本です。屋根板に使うなら、こちらの長さかと思います」
「大工にも確認していただきましょう」
「僕が持っていきます」
「場所は分かるの?」
「先ほど教えていただきました」
「では、私も」
立ち上がろうとすると、ルクスが先に口を開いた。
「領主様は、見積書の確認をお願いいたします」
「でも、釘の用途を」
「大工さんが判断できます」
正しい。
私が行く必要はない。
「そうですわね」
「テオさん。大工の作業場までは、若者に案内させます」
ルクスの声は丁寧だった。
ただ、いつもより少しだけ早口に聞こえた。
テオは気づいていないらしく、素直に頷く。
「お願いします」
彼が見本を持って部屋を出る。
扉が閉まった後、ネラがルクスを見た。
「何?」
「別に」
「まだ何も言っていないわ」
「顔に書いてあります」
「あなたもね」
「何がですか」
「昔より、分かりやすくなったということ」
ルクスは返事をしなかった。
私は見積書へ目を落とした。
なぜか、先ほどまでより数字が読みやすくなっていた。
*
昼食には、試作した香草パンが出された。
昨日選んだ、香草を少なめにしたものだ。
丸く整ったパンの中に、一つだけ細長いものが混ざっている。
「あれは、領主様がお作りになったものですか」
ネラが尋ねた。
「どうして分かったの?」
「ルクスが、あれだけ別の籠へ入れていたので」
私はルクスを見る。
「分けていたの?」
「潰れないようにしただけです」
「ほかのパンも、潰れていません」
「形が違うので、隙間に挟まるかと思って」
「大切になさっていたのですね」
ネラが言う。
ルクスは黙った。
私は嬉しくなったものの、素直に表情へ出してよいか分からず、香草パンを見つめた。
「冬眠している地竜です」
「地竜?」
「パンです」
ルクスがすぐに訂正する。
「フィリア様が丸くしようとして、少しだけ細長くなったものです」
「では、地竜なのですか、パンなのですか」
「パンですわ」
「地竜の形をしたパンです」
「ルクス」
ネラが吹き出した。
テオも肩を揺らしている。
「地竜を討った方が、地竜のパンをお作りになるとは」
「偶然です」
「次も一つ作ると、約束してくださいました」
ルクスが付け加えた。
「そこまで言わなくてもよいでしょう」
「楽しみにしていますので」
「ルクスが食べるの?」
「はい」
「では、私は何を食べれば」
「ほかの丸いパンを」
「私が作ったものなのに?」
口にしてから、少しおかしいと気づいた。
作った者が食べなければならないわけではない。
それでも、ルクスが全部食べると言うと、渡したくないような気がした。
「半分ずつにしますか」
彼が尋ねる。
「……そうします」
「公平ですね」
「ええ」
ネラがパンを口元へ運びながら、静かに笑っていた。
*
昼食後、ネラとテオは館へ泊まることになった。
午後から風が強くなり、雪が舞い始めたためだ。
帰りを急ぐより、明朝の道を見て出発する方が安全だった。
「客室を用意いたします」
セバスチャンが言う。
「橇の馬は厩へ。御者の方にも、使用人用の部屋をお使いいただきましょう」
「ありがとうございます」
ネラが礼をする。
「その代わり、午後のうちに灯油容器の数を決めてしまいましょう。明日の朝、すぐ出られるように」
ルクスとネラは、再び帳簿を開いた。
私は大工から戻ったテオと、釘の見本を確認する。
「大工は、こちらの太いものを橋へ。細いものを屋根へ使いたいそうです」
「同じ数ずつではないのですね」
「橋の本修繕へ使う分は、春まで保管するとのことです」
「錆を防ぐ必要があります。油を塗り、箱へ乾いた灰を入れておきましょう」
「よくご存じです」
「お祖母様の剣の手入れで、金属の保存は習いました」
「アイリス様から直接?」
「ええ」
「羨ましいです」
テオは本当に金工が好きらしい。
剣の話になると、表情が明るくなる。
「アイリス様の剣は、王都の式典用ではなく、北の寒さを考えて作られていると聞きました。握りの革も、凍って滑らないよう重ね方が違うとか」
「冬の手袋でも持てるよう、柄が少し細いのです」
「やはり。もし差し支えなければ、寸法だけでも――」
「テオさん」
ルクスの声がした。
振り向くと、彼はいつの間にか私たちのそばへ来ていた。
「ネラさんとの確認は?」
「終わりました」
「早いのね」
「必要な数は、既に倉庫番さんがまとめてくださいましたから」
ルクスは私とテオの間にある釘の見本へ目を落とす。
「こちらも終わりましたか」
「はい。あとは本数です」
テオが答える。
「それから、女伯爵様に剣のことを少し伺っていました」
「そうですか」
「北方の剣について、これほど詳しくお話を聞ける機会はありません。明朝の鍛錬も、見学させていただければと」
「天候がよければ」
私が答えると、ルクスの眉が僅かに動いた。
「朝は道の確認があります」
「鍛錬の後ではいけないの?」
「領主様がお出になる必要はありません」
「でも、ネラさんたちが帰るのですから、安全を」
「グランさんと御者が判断します」
また正しい。
けれど、何かが変だった。
「ルクス」
「はい、領主様」
「少し、お茶にしませんか」
「まだ確認することが」
「二人とも休ませる会の時間です」
「今日は、まだ働きすぎてはいません」
「会長命令です」
「今日の会長は僕です」
「今、交代しました」
いつものやり取りに、テオが目を瞬く。
少し離れた場所で、ネラが笑いを堪えていた。
「ルクス」
私はもう一度呼んだ。
今度は、公務の声ではなく。
彼は私を見た。
「二人で、お茶を飲みたいです」
青い瞳が僅かに揺れる。
「……分かりました」
*
窓辺の卓には、二人分のお茶と香草パンが置かれた。
厨房の料理人は何も聞かなかった。
ただ、地竜の形をしたパンだけを一枚の皿へ載せ、切るための小さなナイフを添えてくれた。
「半分ずつですね」
ルクスが言う。
「ええ」
私はパンへ刃を入れた。
なるべく同じ大きさに分ける。
けれど、細長い形のため、一方には膨らんだ部分が多く残った。
「こちらをどうぞ」
大きい方をルクスへ渡す。
「フィリア様の方が小さいです」
「次は私が大きい方をいただきます」
「長く続ければ同じ、ですか」
「覚えていたの?」
「忘れません」
ルクスはパンを受け取ったものの、すぐには食べなかった。
私も杯を持ったまま、彼の顔を見る。
「何かありましたか」
尋ねると、ルクスは視線を落とした。
「ありません」
「では、なぜ先ほどから、テオさんとの話を何度も終わらせようとしたの?」
「仕事が残っていたからです」
「ネラさんとのお仕事は、楽しそうでした」
言ってから、自分の声が少し硬かったことに気づく。
ルクスが顔を上げる。
「楽しそうに見えましたか」
「ええ。昔からのお知り合いですものね」
「取引で何度かお会いしただけです」
「熱を出したことまで、ご存じでした」
「あの時は、商会へ受取書を届ける約束をしていたので。僕が行けず、村長さんが事情を伝えました」
「そうでしたの」
「フィリア様は、ネラさんのことを気にしていらしたのですか」
まっすぐ尋ねられた。
誤魔化そうと思えば、仕事相手として、と答えられる。
けれど、それでは今の気持ちを伝えたことにはならない。
「少しだけ」
「何を?」
「ルクスと親しそうでしたから」
声が小さくなる。
「私の知らないあなたをご存じで。二人で帳簿を見ている時も、息が合っていました」
「それは、取引の手順を知っているからです」
「分かっています」
「ネラさんに、特別な気持ちはありません」
ルクスは迷わず言った。
胸の奥が、ほっと緩む。
その安堵を見られたことが恥ずかしくて、私は杯へ目を落とした。
「それなら、よいのです」
「僕は、よくありません」
「なぜ?」
「フィリア様が、テオさんと話しているのを見て、同じことを思いました」
私は瞬いた。
「テオさんと?」
「楽しそうでした」
「剣のお話をしていただけです」
「分かっています」
「金具にも詳しい方でしたから」
「それも分かっています」
彼の返事が、私と同じだった。
「鍛錬を見たいと言われた時も、嬉しそうに見えました」
「お祖母様の剣について知ってくださる方は、珍しいので」
「はい」
「ルクスは剣に興味がありませんか」
「あります」
少し早い返事だった。
「以前は、地竜を倒せないと仰っていましたけれど」
「倒したいわけではありません」
「では、何に?」
ルクスは言葉に詰まった。
青い瞳が、私の腰の剣ではなく、顔へ向けられている。
「フィリア様がお好きなものを、僕も知りたいです」
胸の音が大きくなる。
「剣術は、地竜を倒すためだけのものではありませんわ」
「はい」
「足運びや、刃の手入れからでもよければ、教えられます」
「よいのですか」
「もちろんです。ですが、最初は木剣です」
「お祖母様の剣ではなく?」
「当然でしょう」
「裁縫と同じですね」
「同じです」
私は少し笑った。
「では、明日の朝、一緒に鍛錬を見ますか」
「テオさんも?」
まだ気にしているらしい。
「テオさんは、グランの許可が出れば」
「そうですか」
「ルクスには、私の隣にいていただきます」
彼が黙る。
「補佐官だからではなく」
私は付け加えた。
「私が、いてほしいからです」
ルクスの耳が赤くなった。
「それなら」
彼は小さく息をついた。
「僕も、フィリア様にネラさんのことを気にしていただけたのは、少し嬉しいです」
「嬉しいの?」
「はい。でも、不安にはさせたくありません」
その言葉に、私は自分の気持ちを考えた。
胸が落ち着かなかった。
ネラと並ぶルクスを、何度も見てしまった。
それはきっと、嫉妬というものなのだろう。
王都にいた頃、誰かに嫉妬することは、淑女らしくない感情だと教えられた。
けれど、感じたものをなかったことにすれば、相手にも自分にも嘘をつくことになる。
「私、嫉妬していたのかもしれません」
正直に言うと、ルクスが少し目を見開いた。
「ネラさんに?」
「ええ。優秀で、あなたの昔のこともご存じで」
「フィリア様も優秀です」
「地竜を倒せるから?」
「違います」
彼はすぐに否定した。
「地竜を倒さなくても。籠を上手く編めなくても。パンが丸くならなくても」
「最後の二つは、今、必要ですか」
「大切なことです」
「どこが?」
「僕は、そういうフィリア様を知っています」
ルクスの声が柔らかくなる。
「ネラさんは、昔の僕を少し知っています。でも、今の僕を一番よく見てくださっているのは、フィリア様です」
「一番?」
「はい」
それだけで、胸に引っかかっていたものが溶けていく。
「僕も、嫉妬していました」
ルクスが続けた。
「テオさんに?」
「はい。剣のお話なら、僕にはできないので」
「でも、あなたとは、林檎や帳簿や旅の本のお話ができます」
「地竜の話も?」
「必要なら」
「できれば、少なめに」
「では、雪に倒されかけたお話を」
「それは、もっと少なくしてください」
ルクスが笑った。
私もつられて笑う。
「嫉妬しても、よいのでしょうか」
私が尋ねると、彼は少し考えた。
「相手を縛ったり、仕事を邪魔したりしなければ」
「ルクスは、少し邪魔をしていましたわ」
「……反省しています」
「私も、見積書を三度読みました」
「それは仕事の邪魔ですね」
「自分で自分の邪魔をしただけです」
「では、半分ずつ反省しましょうか」
「公平に?」
「はい」
私たちは、少し冷めたお茶を飲んだ。
嫉妬したことを責めるのではなく。
なぜそう思ったのかを、互いに伝える。
それだけで、先ほどまでの距離が嘘のように近くなった。
「フィリア様」
「何かしら」
「次から、不安になったら尋ねてください」
「あなたも」
「はい」
「それから、領主様と呼ぶ声を、あれほど硬くしないでください」
「分かりました」
「公務中でも?」
「努力します」
「では、私もテオさんと剣のお話をする前に、ルクスを呼びます」
「なぜですか」
「一緒に聞けばよいでしょう?」
彼は少し驚いた後、穏やかに頷いた。
「はい。一緒に聞きたいです」
*
夕食後、客室へ戻る前に、ネラが私のところへ来た。
「領主様。少しよろしいでしょうか」
「ええ」
「先ほどは、余計なことを申し上げたかもしれません」
「二人とも休ませる会のこと?」
「それもありますけれど」
彼女は小さく笑った。
「ルクスの昔の話です」
「聞けて嬉しかったです。ただ、少し羨ましく思いました」
私が正直に言うと、ネラは驚いた顔をした。
「私が?」
「ルクスの知らない頃をご存じなので」
「知っているといっても、取引の時だけです。彼は昔から、用件が済めばすぐ帰ってしまいました」
「そうなの?」
「お茶へ誘っても、倉庫の確認があると言って」
いかにもルクスらしい。
「でも、今日は違いました」
ネラが厨房の方を見る。
そこでは、ルクスとテオが香草パンの残りを箱へ詰めていた。
「領主様がお茶へ誘った時、あの子は仕事を置いてついていきました」
「会長命令でしたから」
「会長が誰でも、ついていったわけではないと思います」
私は返事に困った。
ネラは私を追い詰めるつもりはないらしく、話を変えた。
「私は春に結婚します」
「まあ」
「相手は、商会の御者です。今日も橇を引いてきた人」
厩へ向かった、落ち着いた青年の姿を思い出す。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。ですから、ルクスとは本当に取引相手です」
「それは、先ほど本人から聞きました」
「尋ねたのですか」
「ええ」
「ルクスへ?」
「はい」
ネラはしばらく黙った後、嬉しそうに笑った。
「それなら安心しました」
「何が?」
「昔のルクスなら、自分の気持ちも、相手の気持ちも尋ねなかったでしょうから」
それは私も同じだった。
何も言わず、相手が察してくれるのを待っていたかもしれない。
けれど今日は、嫉妬していると伝えられた。
「ネラさん」
「はい」
「春の婚礼に必要なものがあれば、領内の品も見てください。まだ多くはありませんけれど、木工の器や籠なら」
「ぜひ。商会として、正当な価格で買わせていただきます」
「贈り物として、一つくらいは受け取ってくださる?」
ネラは少し考え、頷いた。
「では、小さな林檎籠を」
「私も、編めるようになります」
「領主様が?」
「五回ほど練習すれば」
「それは、領主様が編んでくださるという意味でしょうか」
「上手くできれば」
「楽しみにしております」
新しい約束ができた。
嫉妬した相手と、喧嘩をする必要はない。
彼女には彼女の暮らしがあり、私には私の選びたい未来がある。
*
翌朝、雪は止んでいた。
館の庭では、グランが鍛錬用の場所を踏み固めている。
テオは少し離れた位置から、お祖母様の剣の金具を熱心に見ていた。
そしてルクスは、私の隣に立っている。
「寒くありませんか」
私が尋ねる。
「大丈夫です」
「手袋は?」
「新しい方を」
「古い方ではなく?」
「木剣を持つなら、こちらの方が滑りにくいので」
「準備がよいですね」
「教えていただけると思ったので」
私は木剣を一本選び、彼へ渡した。
「まずは、構える前に立ち方からです」
「雪の歩き方と同じですか」
「少し似ています。足を置く場所を先に見ます」
「フィリア様が雪を剣術へ置き換えたように?」
「ええ」
ルクスが木剣を受け取る。
握り方はまだ硬い。
「力を入れすぎています」
「このくらい?」
「もう少し緩く」
私は彼の手へ自分の手を重ね、指の位置を直した。
手袋越しに触れる。
「親指はこちらへ」
「はい」
「手首を固めすぎないで」
「はい」
顔を上げると、ルクスが私を見ていた。
「木剣を見てください」
「見ています」
「私を見ていました」
「教えてくださる方を見るのも、大切かと」
「今は手元です」
「はい」
返事は素直だったけれど、耳が赤い。
後ろで、テオが小さく咳払いをした。
さらに離れた場所では、ネラが婚約者の御者と並び、こちらを見て笑っている。
「ルクス」
「はい」
「皆さんが見ています」
「そうですね」
「少し離れた方がよいでしょうか」
尋ねると、彼は木剣を持ち直した。
「教えるために必要なら、このままで」
昨日の私なら、誰かの視線を気にして手を離したかもしれない。
けれど今は、彼が望んでいることを知っている。
私も、そばにいたかった。
「では、このままにします」
「はい」
嫉妬したことで、初めて分かったことがある。
相手のすべてを知っている必要はない。
知らない過去があってもよい。
ほかの誰かと笑い、仕事をする時間もある。
それでも、自分が隣にいたいと願うことは、言葉にしてよいのだ。
「まずは、一歩だけ進みましょう」
私が言う。
「一歩だけ?」
「急いで覚える必要はありません」
「では、ゆっくり」
「ええ。一緒に」
白い庭の上へ、二人分の足跡が並んだ。
少しでも面白い、続きが気になると思ってくださったら、下部にある【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると制作の励みになります!




