第26話
翌朝、目を覚ますと、体が重かった。
熱があるわけではない。
喉も痛くない。
けれど、寝台から起き上がろうとした瞬間、背中から腕にかけて、昨日までなかった痛みが走った。
「……雪かきですわね」
薪置き場までの短い道。
しかも、途中で交代させられた。
それでも、セバスチャンの言った通り、剣術とは違う場所を使っていたらしい。
私は寝台の上で、ゆっくりと肩を回した。
動かせないほどではない。
着替えも一人でできる。
少し痛むだけだ。
これなら、誰にも気づかれないだろう。
*
一階へ下りると、玄関広間でルクスと出会った。
「おはようございます、フィリア様」
「おはよう、ルクス」
彼はいつも通り、帳簿を一冊抱えている。
私もいつも通りに歩く。
そのまますれ違いかけたところで、ルクスが足を止めた。
「フィリア様」
「何かしら」
「今、右腕をほとんど振っていませんでした」
見られていた。
「階段では、手すりを両手で持っていらっしゃいましたね」
「安全のためです」
「昨日は片手でした」
「雪の翌朝ですから」
「館の中に雪はありません」
私は答えに詰まった。
ルクスは帳簿を脇へ抱え直す。
「腕が痛むのですか」
「少しだけです。雪かきに慣れていなかったので」
「背中も?」
「どうして分かるの?」
「振り向く時に、首だけを動かしていらしたので」
本当によく見ている。
「仕事に支障はありません」
「そういう問題ではありません」
以前、手袋の穴を見つけた時と同じやり取りだった。
「今日は屋根の雪下ろしを見に行く予定です」
「見に行くだけでしょう?」
「はい」
「では、問題ありません」
私が歩き出そうとすると、ルクスがまた呼び止めた。
「フィリア様」
「まだ何か?」
「外套をお一人で着られますか」
「もちろんです」
答えて、壁際に掛けてあった外套へ手を伸ばす。
腕を上げた瞬間、肩の後ろが痛んだ。
思わず動きが止まる。
ルクスは何も言わなかった。
ただ、静かに外套を取ってくれた。
「……着られます」
「はい」
「今は、少し動かしにくかっただけです」
「分かっています」
彼は外套を広げ、私の背後へ回った。
「腕を高く上げなくてもよいようにします。ゆっくり通してください」
「子どもではありませんわ」
「存じています」
「一人で身支度もできます」
「それも存じています」
「では、なぜ」
「今日は僕がしたいからです」
その言い方は、ずるい。
心配だからでも、補佐官の務めだからでもなく。
彼自身が、そうしたいと言う。
私は大人しく右腕を袖へ通した。
次に左。
ルクスが肩へ外套を掛け、襟を整える。
首元の留め具へ指を伸ばしたところで、二人とも動きを止めた。
以前、手袋の留め具を締め合った時より、顔が近い。
「こちらも、お願いします」
私は小さく言った。
「はい」
金具が留められる。
彼の指が顎の下へ僅かに触れた。
「苦しくありませんか」
「ちょうどよいです」
「どこかで聞いた答えですね」
「あなたがよく仰るので」
ルクスが微笑んだ。
私も笑い返そうとして、ふと気づく。
彼が帳簿を抱えている左腕も、ほとんど動いていなかった。
「ルクス」
「はい」
「その帳簿を、右腕だけで持っていますね」
「こちらの方が持ちやすいので」
「左腕を上げてみてくださる?」
「なぜですか」
「上げて」
彼は少し迷ってから、左腕を上げようとした。
肩の高さへ届く前に、眉が僅かに寄る。
「あなたも痛いのですね」
「少しだけです」
「背中も?」
「少し」
「私と同じではありませんか」
「僕は毎年、雪かきをしています」
「毎年していても、昨日は久しぶりだったでしょう?」
ルクスが目を逸らす。
どうやら正しいらしい。
「それに、私が歩き方を習っている間から働いていたと仰いました」
「長い時間ではありません」
「仕事に支障は?」
「ありません」
「そういう問題ではありません」
今度は私が返した。
彼は困った顔をした。
「では、屋根の雪下ろしを見た後、二人とも休みましょう」
「フィリア様は、館へ残ってもよいのですよ」
「ルクスもです」
「僕は記録を取る役があります」
「記録なら、村長がつけてくださいます」
「費用の確認が」
「午後でもできます」
しばらく見つめ合う。
先に折れたのは、ルクスだった。
「二人とも休ませる会は、厳しいですね」
「会長が優秀ですから」
「今日の会長は僕のはずです」
「今、交代しました」
「昨日も同じことを仰いました」
「必要な時に、必要な者が会長になるのです」
「ずいぶん都合のよい規則です」
「よい会でしょう?」
以前と同じ問いに、ルクスは小さく息を吐いた。
「はい。よい会です」
*
屋根の雪下ろしは、既に始まっていた。
縄を腰へ結んだ者が屋根へ上がり、木の道具で雪を少しずつ落としている。
下では、落ちる範囲へ誰も入らないよう縄が張られていた。
「全部を落とさないのですね」
私は少し離れた場所から見上げた。
「薄く残します」
大工が答える。
「屋根板を傷つけないためです。それに、一度に片側だけ落とすと、反対側の重みで梁が歪む。左右を交互に減らします」
「人が屋根へ上がる順番は?」
「二人ずつ。半刻で交代します。下で縄を見ている者も替えます」
別の家では、屋根へ上がれない者たちが、落とされた雪を壁から遠ざけていた。
そのままにすれば、昼間に溶けた水が壁際へ入り、夜に凍るという。
子どもたちは近くの家へ集まり、年長の者から籠の編み方を教わっていた。
小さな手で細い枝を曲げている。
「遊んでいるだけではないのですね」
「遊びながら覚えるんです」
子どもを見守る女性が言った。
「上手くできたものは、春になったら木の実を入れます。曲がったものも、小さな薪を運ぶのには使えますよ」
「失敗しても?」
「ほどいて、もう一度編めます」
橋や手袋だけではない。
籠も、ほどけば直せるらしい。
一人の幼い子が、編みかけの籠を私へ差し出した。
「領主様も、する?」
「私も?」
「ここを持ってて」
言われるまま、枝の端を持つ。
けれど、昨日の雪かきで腕が痛み、上手く支えられない。
枝が逃げ、籠の縁が少し歪んだ。
「あっ」
「大丈夫」
子どもは気にせず、枝を引き戻した。
「ここ、もう一回するから」
「ごめんなさい。私が動かしてしまって」
「初めてだから」
当然のように言われた。
できないことを責めるでもなく。
領主なのに、と驚くでもなく。
ただ、初めてだから上手くいかなかったのだと。
「もう一度、持ってもよい?」
「うん。今度はここ」
教えられた場所を持つ。
今度は上手く支えられた。
子どもが枝を通し、歪みを直していく。
「できた」
「ええ。上手です」
「領主様も」
「私は、持っていただけですわ」
「持ってないと、できないよ」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
籠を編めなくても。
屋根へ上がれなくても。
枝の端を持つだけで、役に立てる時がある。
そして、たとえ上手く持てなくても、もう一度試せばよい。
「フィリア様」
振り返ると、ルクスが少し離れた場所で見ていた。
「そろそろ戻りましょう。肩が痛むのでしょう?」
「ええ。でも、籠作りを少し手伝いました」
「見ていました」
「次は、一人でも編めるかもしれません」
私が言うと、子どもが首を振った。
「まだ無理だよ」
「……そうですか」
「三回くらい練習しないと」
「三回でよいの?」
「ぼくは五回かかった」
「では、私も五回は練習します」
ルクスが顔を背けた。
「また笑っていますね」
「いいえ。地竜を倒した領主様が、籠を編めるようになるまで五回練習なさるのだと思って」
「地竜と籠は関係ありません」
「針とも、雪とも関係がありませんね」
「その通りです」
私は胸を張った。
「私は、できないことがたくさんあるのです」
以前なら、恥ずかしくて言えなかったかもしれない。
けれど今は、知らないことを教えてくれる人がいる。
できるまで待ってくれる人もいる。
ルクスは笑みを収め、穏やかに頷いた。
「僕もです」
*
館へ戻ると、料理人が温めた布を用意してくれた。
「肩へ当ててください」
「治療が必要なほどでは」
「薬ではありません。温めるだけです」
「でしたら、ルクスにも」
「既に二枚ございます」
逃げ道はなかった。
私とルクスは、暖炉の前へ並んで座らされた。
肩へ温かい布を当てる。
じんわりと熱が広がり、強張っていた背中が少しずつ緩んでいく。
「気持ちよいですね」
私が言うと、ルクスも頷いた。
「はい」
「休むことも、仕事のうちでしょうか」
「そう考えないと、休めませんか」
「……少しだけ」
「僕もです」
二人で正直に認める。
料理人は卓へ温かい飲み物を置いた。
蜂蜜を少し溶かした乳だった。
「お昼まで、こちらでお休みください」
「書類を一枚だけ」
ルクスが言いかける。
「いけません」
私と料理人の声が重なった。
ルクスは黙った。
「会長命令です」
「料理人も会長なのですか」
「会員です」
私が答える。
「いつ入会を?」
「今です」
「また今なのですね」
料理人は笑いながら部屋を出ていった。
扉が閉じる。
暖炉の前には、私とルクスだけが残った。
「何をして過ごしましょう」
私が尋ねる。
「休むのでは?」
「じっと座っているだけでは、落ち着きません」
「旅の本を読みますか」
「持ってきているの?」
「執務室にあります」
「取りに行くのも、今日はお休みです」
「では、何もありませんね」
二人で暖炉を見る。
薪が赤く燃えている。
時折、小さくはぜる。
窓の外では、屋根から落ちた雪が光っていた。
何も話さない時間は、以前なら気まずかったかもしれない。
今は、隣にいることが分かるだけで、静けさも穏やかだった。
「ルクス」
「はい」
「肩の布が、ずれています」
彼の左肩から、温めた布が半分ほど落ちている。
自分で直そうとして腕を上げ、痛みに眉を寄せた。
「動かないで」
私は布を取り、肩へ掛け直した。
首元へ沿わせ、落ちないよう端を外套の襟へ挟む。
「熱くありませんか」
「大丈夫です」
「ちょうどよい?」
「はい。ちょうどよいです」
顔を上げると、ルクスがこちらを見ていた。
「何かしら」
「いえ」
「今度は、私が世話を焼いているのが珍しい?」
「珍しくはありません」
「では?」
「嬉しいのです」
まっすぐ言われると、胸が落ち着かなくなる。
「布を直しただけですわ」
「それでも」
「いつも、あなたが私へしてくださっていることです」
「だから、嬉しいのかもしれません」
ルクスは肩の布へそっと触れた。
「僕も、していただいてよいのだと思えるので」
私は彼の言葉を静かに受け取った。
「もちろんです」
支える人も、支えられてよい。
そう伝えたかったのは、私だけではない。
「これからも、肩の布がずれたら直します」
「肩の布だけですか」
「手袋も直しました」
「ほかには?」
「帳簿を開きすぎたら閉じます」
「それは世話というより、監視では」
「二人とも休ませる会の仕事です」
「では、僕もフィリア様の書類を閉じます」
「私の手紙は、勝手に閉じてはいけません」
「不公平です」
「では、閉じる前に声をかけてください」
「公平になりましたか」
「少しだけ」
ルクスが笑う。
私も笑った。
*
昼食の後、肩の痛みはだいぶ軽くなっていた。
それでも、午後の仕事は最低限にするよう言い渡された。
私とルクスは執務室へ戻ったものの、机の上に置かれていた書類は三枚だけだった。
「セバスチャンが減らしたのかしら」
「おそらく」
一枚目は、屋根の雪下ろしに加わった者の名簿。
二枚目は、使った薪と食材の記録。
三枚目は、明日以降の見回り順だった。
既に村長、倉庫番、料理人の確認印がある。
私たちが最初から作る必要はない。
間違いがないかを見て、承認するだけだった。
「今日、私は何も決めていません」
書類を見ながら言う。
「屋根の雪をどこまで落とすかも、交代の時間も、皆が決めてくださいました」
「はい」
「籠も上手く編めませんでした」
「枝を持っていらしたでしょう」
「それだけです」
「それが必要だったそうですよ」
子どもの言葉と同じだった。
「領主として、大きなことを何もしていない日です」
口にすると、胸の奥に僅かな不安が生まれる。
この土地に来た頃の私なら、すぐ次の仕事を探していただろう。
自分が必要だと証明するために。
「フィリア様」
ルクスが一枚目の書類を私の前へ置いた。
「今日、皆さんが自分で判断できたのは、これまでに役目を分け、必要な材料を揃え、費用を出すと決めてきたからです」
「私一人で決めたことではありません」
「もちろんです。皆さんで決めました」
彼は穏やかに続ける。
「領主様が何もなさらなくても暮らしが回る日があるなら、それは、よい領地なのではないでしょうか」
「何もしなくても?」
「毎日、領主様が地竜を倒さなければ成り立たない領地は困ります」
「地竜は、そう何度も現れません」
「安心しました」
「ルクス」
私が睨むと、彼は笑った。
「それに」
笑みを残したまま、ルクスが言う。
「僕は、何もなさらない日のフィリア様とも一緒にいたいです」
胸の奥の不安が、静かにほどけていく。
「それは、以前も聞きました」
「何度でも申し上げます」
「毎日?」
「必要なら」
「毎日では、ルクスが大変でしょう」
「では、交代にしますか」
「私も言うの?」
「僕が何もしていない日にも、いてほしいと」
私は少し考えるふりをした。
本当は、答えはもう決まっていた。
「仕方ありませんね」
「仕方なくですか」
「毎日でも、いてほしいです」
ルクスが黙った。
今度は私が、彼の反応を待つ番だった。
「お仕事をしていない日も」
「はい」
「お料理を失敗した日も」
「焦げたところは半分ずつです」
「帳簿を間違えた日も」
「一緒に直します」
「雪に転びそうになった日も?」
「それは私のことですわ」
「僕も転ぶことはあります」
「では、その時は私が支えます」
仕事の相談なら、ここで承認の印を押して終わる。
けれど、この話には印章も署名も要らなかった。
ただ、互いに言葉を渡し合う。
「では、約束ですね」
ルクスが言う。
「何もしない日も、一緒にいること?」
「はい」
「何かした日も?」
「もちろんです」
「それでは、ほとんど毎日ではありませんか」
「そうなりますね」
彼は平静を装っていたけれど、耳が赤い。
私も、おそらく同じだった。
*
その日の夕方、厨房から香草の匂いが漂ってきた。
約束していた丸いパンを、料理人が試しに作っているという。
「見に行きますか」
ルクスが尋ねる。
「作る約束でした」
「今日は腕が痛むでしょう」
「捏ねる作業は難しいかもしれませんけれど、形を整えるくらいなら」
厨房へ行くと、生地は既に一次発酵を終えていた。
大きな鉢の中で、柔らかく膨らんでいる。
「今日は試しですから、香草の量を三つに分けます」
料理人が説明した。
「少なめ、普通、多め。皆で食べて、冬の間に作る配合を決めます」
「私たちも形を作ってよいの?」
「ええ。ただし、同じ大きさにしてください。焼ける時間が変わりますから」
私は生地を一つ受け取った。
手のひらで丸める。
けれど、腕が痛むため、思うように力が入らない。
丸くしたつもりが、少し細長くなった。
「これは……パンです」
「分かります」
隣でルクスが答える。
彼の生地は、綺麗な丸になっていた。
「私のものだけ、形が違います」
「少しだけです」
「何に見えますか」
ルクスはしばらく考えた。
「小さな地竜でしょうか」
「どこが?」
「こちらが頭で」
「それは、生地を閉じた跡です」
「こちらが尾です」
「伸びてしまっただけですわ」
料理人が背を向けた。
肩が揺れている。
「笑っているの?」
「いいえ。立派な地竜だと思いまして」
「パンです」
私は生地の端を押し込み、丸へ近づけようとした。
今度は中央が盛り上がる。
「地竜が、丸くなりましたね」
「冬眠しているのです」
「地竜は冬眠するのですか」
「このパンはします」
ルクスがとうとう声を立てて笑った。
「では、僕のパンも隣で冬眠させます」
彼は綺麗な丸い生地を、私のものの隣へ置いた。
「それでは、地竜とただの丸ですわ」
「同じパンです」
「見た目が違います」
「焼けば、どちらも少し膨らみます」
「私の方だけ、大きくなったら?」
「半分ずつ食べましょう」
「また半分?」
「公平ですから」
焼き上がったパンは、私のものだけ少し横へ広がった。
けれど、焦げてはいなかった。
香草の香りも、きちんとする。
料理人が三種類を切り分け、試食用の皿へ並べた。
「領主様のパンは、こちらです」
形だけですぐに分かった。
「切ってしまえば、ほかと同じですね」
私が言うと、ルクスは一切れを取った。
「僕はこちらをいただきます」
「私が作ったものだと分かるの?」
「端が少し厚いので」
「それは、失敗では?」
「噛み応えがあります」
彼は一口食べ、ゆっくり味わった。
「おいしいです」
「本当に?」
「はい」
「香草を入れたのは、料理人ですけれど」
「でも、フィリア様が形を作りました」
「地竜の形に?」
「冬眠している地竜です」
「パンですわ」
「はい。おいしいパンです」
私は自分でも一切れ食べた。
外側は香ばしく、中は柔らかい。
香草は少なめのものが、食事へ合わせやすそうだった。
「次は、もっと丸く作ります」
「次も、同じ形でよいのでは?」
「なぜ?」
「どれがフィリア様の作ったものか、すぐに分かりますから」
その言葉に、胸が温かくなる。
上手くできたからではない。
ほかと同じだったからでもない。
私が作ったと分かることを、彼は喜んでくれている。
「では、次も一つだけ、地竜にします」
「一つだけ?」
「残りは丸くします。私も上達したいので」
「楽しみにしています」
仕事をしなかった日。
雪を倒さず、籠も編めず、丸いパンさえ少し曲がった日。
それでも皆と食卓を囲み、笑い合うことができる。
そして隣には、不格好な一切れを選んでくれる人がいた。
役に立てたからではない。
上手にできたからでもない。
ただ私が作ったものだからと、受け取ってくれる人が。
それだけで今日も、ここにいてよいのだと思えた。
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