第25話
翌朝、何も壊れてはいなかった。
代わりに、見えるもののほとんどが雪に埋もれていた。
窓の外は、昨日までとは違う土地のように白い。
庭の柵は半分ほどまで隠れ、木々の枝は雪の重みで深く垂れている。
空からは、今も細かな雪が降り続いていた。
「……ずいぶん積もりましたわね」
寝台を出て窓へ近づくと、庭の端で人が動いているのが見えた。
大きな木の板で、玄関から門までの雪を押し分けている。
若者たちが交代しながら道を作り、その後ろを別の者が踏み固めていた。
私は急いで身支度を整え、一階へ下りた。
玄関広間では、セバスチャンが外へ出る者の名を紙へ書き留めている。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、セバスチャン。夜の間に、これほど降ったの?」
「明け方に強くなったようでございます。館の周囲では、膝より少し下ほどまで」
「村の様子は?」
「夜明けとともに、各村の見回り役から合図が届いております。急を要する被害はないとのことです」
「合図?」
「煙でございます」
セバスチャンは窓の向こうを示した。
「雪で道が塞がった時は、高台の小屋から色の違う煙を上げます。異常なしは一筋。助けが必要な時は二筋。火事など、急を要する時は三筋です」
遠くの丘へ目を凝らす。
白い景色の中、細い煙が一本だけ空へ昇っていた。
「昔からの方法なのね」
「はい。吹雪で見えぬ時には使えませんが、今朝ほどの天候なら十分でございましょう」
「誰が確認しているの?」
「見張り台に二名。交代は半刻ごとです」
外へ出ずとも、既に必要な確認は進んでいた。
「では、私は何をすればよいかしら」
「まずは朝食を」
セバスチャンは迷わず答えた。
「その後、見回りの報告をお聞きくださいませ」
「雪かきを手伝うこともできます」
「雪国で初めて本格的な雪かきをなさる方が、最初から長時間働くことはお勧めいたしません」
「剣の鍛錬は毎朝しています」
「雪かきは、剣術とは異なる筋肉を使うそうでございます」
昨日、針は地竜より難しいと話したばかりだった。
今度は雪まで、剣とは違うと言われてしまった。
「少しだけなら?」
「グラン殿か、慣れた方に教わってくださいませ」
「分かりました」
「それから、外套と手袋をお忘れなく」
「手袋留めもあります」
私は袖から淡い青の紐を出して見せた。
端についた白い花が、小さく揺れる。
「準備は万全ですわ」
「靴は?」
「……いつもの冬靴では、いけませんか」
セバスチャンは使用人へ目を向けた。
すぐに、底へ金具をつけた厚い靴が運ばれてくる。
雪国では、身支度を整えるだけでも、まだ知らないことが多かった。
*
朝食後、村からの報告が揃った。
屋根を直した家々に雪の侵入はない。
橋にも新しい損傷は見つからなかった。
ただし、北の村へ続く道の一部で、風に運ばれた雪が腰の高さまで積もっているという。
「全部を除ける必要はありません」
村長が地図へ線を引いた。
「人がすれ違える幅だけ通します。荷車は、雪が落ち着くまで動かさない方がよいでしょう」
「共同倉庫の食糧は、各村へ分けてありますものね」
「はい。薪も三日分は、家ごとに屋内へ入れてあります」
雪が降ってから慌てて運ぶのではなく、降る前に分けておいたものだ。
「体調を崩している方への食事は?」
「近所の者が届けます。ただ、一人暮らしの家は、扉が雪で塞がれていないか確かめたい」
料理人が名簿へ印をつける。
「温かい粥を用意します。届ける者には二人一組で行ってもらいます」
「雪かきの組とは分けましょう」
グランが言った。
「同じ者へ仕事を重ねれば、昼までに疲れ切る。道を作る組、屋根を見る組、食事を届ける組を分ける」
「交代する時刻も決めてください」
ルクスが紙へ書き留める。
「雪が止まなくても、続けすぎないように。濡れた手袋と靴下を替える場所も要ります」
「館の一階を使ってください」
私は言った。
「暖炉のある部屋へ、乾かすための縄を張りましょう」
料理人が頷く。
「温かい飲み物も、そこへ置きます」
必要な役目が分けられていく。
全員が外へ出るのではない。
火を守る者。
衣服を乾かす者。
子どもや高齢者と一緒にいる者。
それぞれが冬を越すために必要だった。
「領主様は、館の前だけになさってください」
グランが私を見る。
「雪かきの話ですか」
「ほかに何が」
「北の村への道を、少し見ておきたいのですけれど」
「初日に雪へ埋まりに行く必要はありません」
「埋まりません」
「雪は、領主様が地竜を倒したことを知りません」
部屋が静かになった。
ルクスが口元へ手を当てる。
「笑いましたね」
「いいえ」
「目が笑っています」
「雪へ名乗っても、道は譲ってもらえないと思っただけです」
「名乗るつもりはありませんわ」
グランは真面目な顔のまま続けた。
「まずは歩き方から覚えていただきます」
「歩くことならできます」
「雪の上でも?」
私は答えられなかった。
*
館の前では、グランではなく、村の女性が私へ雪の歩き方を教えてくれた。
毎冬、見回り役を務めている方だった。
「足を高く上げすぎると、すぐ疲れます。膝だけでなく、腰から前へ出すように」
「腰から?」
「歩幅は小さく。踏み固めたところでは、踵から下ろさないこと」
私は教わった通り、一歩を踏み出した。
雪へ靴が沈む。
もう一歩。
思ったより足が持ち上がらない。
「急がずに」
「はい」
三歩目までは、上手くいった。
四歩目で、踏み固められた雪の端へ足を置いた。
片側だけ深く沈む。
体が傾いた。
「フィリア様」
すぐそばにいたルクスが腕を支えてくれた。
転びはしなかった。
けれど、彼の胸元へ肩が触れるほど近づいてしまう。
「大丈夫ですか」
「ええ。足を取られただけです」
「雪に?」
「そうです」
「地竜ではなく?」
「ルクス」
抗議すると、彼は笑いを堪えるように唇を結んだ。
教えてくれていた女性も、顔を背けている。
「笑ってくださって構いません」
「申し訳ありません、領主様」
「雪に負けたわけではありません。まだ歩き方を知らないだけです」
「はい。雪は勝ち負けではありませんから」
慰められているのか、さらに笑われているのか分からない。
私は姿勢を戻そうとした。
けれど、ルクスの手はまだ私の腕を支えている。
「もう立てますわ」
「本当に?」
「ええ」
彼がゆっくりと手を離す。
なぜか、少し惜しいと思った。
今度は足元をよく見て進む。
一歩。
もう一歩。
雪が浅い場所と深い場所は、表面の色が僅かに違う。
風に削られたところは硬く、積もったばかりのところは柔らかい。
「剣の間合いを見る時のように、足を置く場所を先に確かめればよいのですね」
「そこへ剣術を持ち込みますか」
ルクスが後ろから言った。
「分かるものへ置き換える方が、覚えやすいでしょう?」
「では、雪を斬らないでくださいね」
「斬りません」
答えた直後、屋根から小さな雪の塊が落ちた。
私は反射的に腰の剣へ手を伸ばした。
ルクスが黙る。
教えてくれていた女性も黙る。
「……今のは、斬ろうとしたのではありません」
「はい」
「落ちてきたので、身構えただけです」
「分かっています」
ルクスの返事はとても優しかった。
優しい分だけ、恥ずかしかった。
*
雪かきには、平たい木の板を使った。
雪を持ち上げて遠くへ投げるのではなく、少しずつ押して道の脇へ寄せる。
「一度に多く動かそうとしないでください」
「このくらい?」
「半分で」
「半分しか運べません」
「半分ずつ何度も運ぶのです」
どこかで聞いた言葉だった。
「公平とは違いますわね」
「今日は雪と半分ずつです」
「雪は残りを運んでくれません」
「では、僕が運びます」
ルクスが隣へ板を差し入れた。
二人で同じ雪の塊を押す。
一人なら重かった雪が、ゆっくりと動いた。
「これは半分ずつですね」
「はい」
館の玄関から、薪置き場まで。
それほど長くない道を作る。
私は次第に力の入れ方を覚えた。
けれど、腕より先に背中が重くなってくる。
「交代です」
見回り役の女性が言った。
「まだ半刻も経っていません」
「初めての方は、そこで終わりです」
「もう少しできます」
「できることと、続けてよいことは別ですよ」
ルクスが言う。
彼自身は、額に汗を浮かべていた。
外套の肩にも雪が積もっている。
「ルクスも交代です」
「僕は毎年していますから」
「手袋の色が濃くなっています」
新しい革手袋へ雪が染み、指先が濡れていた。
「古いものへ替えてください。それから、温かい部屋へ」
「フィリア様こそ」
「二人とも休ませる会の会長命令です」
「今日の会長は僕では?」
「外へ出る前に交代しました」
「聞いていません」
「今、決まりました」
私たちのやり取りを聞いていた女性が、木の板を二本とも取り上げた。
「お二人とも中へお戻りください。続きは、わたしたちがいたします」
「でも」
「交代の時間です」
私とルクスは顔を見合わせた。
領主も補佐官も、雪には勝てない。
けれど、見回り役の言葉にも勝てそうになかった。
*
館の一階には、濡れた衣服を乾かすための部屋が用意されていた。
暖炉から離れた場所へ縄が張られ、手袋や靴下が吊るされている。
火へ近づけすぎれば、革も毛糸も傷んでしまう。
ルクスは濡れた新しい手袋を外し、代わりに古い手袋をはめた。
「縫い目は無事?」
「はい」
彼が右手を開いて見せる。
私の曲がった縫い目は、解けていなかった。
「左も?」
「無事です」
「よかった」
「フィリア様の手袋は?」
私は袖から淡い青の紐を引き出した。
左右の手袋は、きちんとつながっている。
「なくしてはいません」
「濡れていないかと聞いたのです」
「少しだけです」
外して確かめると、手のひら側が湿っていた。
ルクスは乾いた布を取り、私の手袋を包む。
「先に水気を取ります」
「自分でできます」
「先ほど、僕の手袋を確かめてくださったでしょう」
「では、半分ずつ?」
「左右で分けますか」
「私は右を」
「僕は左を」
二人で一組の手袋を拭く。
向かい合わせに座り、同じ形のものを一つずつ持っていると、不思議な気持ちになった。
「夫婦の手袋のようですね」
通りかかった料理人が、何気なく言った。
私の手が止まる。
ルクスの手も止まった。
料理人は数歩進んでから、自分の言葉に気づいたらしい。
「左右で一組、という意味でございます」
「分かっています」
私とルクスの声が重なった。
「ええ。もちろんです」
料理人は急いで部屋を出ていった。
扉の向こうで、誰かと小声で話している。
おそらく聞かれていた。
「……続きを拭きましょうか」
ルクスが言う。
「ええ」
「夫婦という意味ではなく」
「分かっています」
「いつか、という意味でもなく」
「そこまでは申し上げていませんわ」
「そうですね」
彼の耳が赤い。
きっと私の頬も同じだった。
雪の中にいた時より、ずっと熱かった。
*
昼には雪が弱まり、見回りの者たちが順に館へ戻ってきた。
一人暮らしの家も、体調を崩していた者も、無事だった。
雪に塞がれかけた扉は二軒あったが、近所の者たちが既に掘り出している。
屋根から雪を下ろす必要のある家は、明日の朝に作業することになった。
「今日のうちに全部終わらせないのですか」
私が尋ねると、村長が空を見た。
「今夜は降りません。今から屋根へ上るより、明るい明日の方が安全です」
「雪の重みは大丈夫?」
「屋根の傾きと梁を確かめました。一晩は持ちます」
急ぐことが、いつも正しいとは限らない。
その判断をできる人が、この土地には大勢いた。
「では、今日は休んでください」
「領主様も」
すぐに返された。
「私は、もう休みました」
「初めて雪かきをなさったのでしょう」
「薪置き場までの道だけです」
「初日は、それで十分です」
皆が同じことを言う。
私は少し不満だったが、背中の重さを考えると、従った方がよさそうだった。
*
昼食は、豆と根菜を煮込んだ温かな汁だった。
雪かきから戻った者たちへは塩を少し濃くし、館の中で仕事をしていた者には薄い方を出す。
私はルクスと窓際の卓へ座った。
「こちらが濃い方です」
料理人が二つの椀を置く。
「ルクスも同じなの?」
「僕も雪かきをしましたから」
「私より長く?」
「少しだけ」
「どのくらい?」
「フィリア様が歩き方を習っている間からです」
「では、私より働いています」
「競うところではありません」
「分かっています。でも、ルクスは午後に休んでください」
「フィリア様も」
「私は手紙の返事を一通だけ確認します」
「それは仕事です」
「あなたも、雪かきの人数を帳簿へ記すでしょう?」
「一頁だけ」
「では、私も一通だけ」
「終わったら?」
「お茶を飲みます」
「一緒に?」
ルクスが尋ねる。
あまりに自然な声だった。
けれど、私は少し嬉しくなった。
「ええ。一緒に」
彼も微笑んだ。
「では、それを午後の予定にしましょう」
領地を立て直すための予定ではない。
誰かを守るためでもない。
ただ二人で、お茶を飲む。
それだけの時間が、仕事と同じように予定へ入ることが嬉しかった。
*
午後、リディアへの手紙をもう一度だけ確認し、セバスチャンへ預けた。
書き直しはしなかった。
ルクスも約束通り、一頁で帳簿を閉じた。
私たちは厨房からお茶を受け取り、窓辺へ座る。
添えられていたのは、薄く切った黒パンを焼き、林檎煮を載せたものだった。
「香草のパンではありませんね」
私が言うと、ルクスが頷いた。
「あれは、まだ材料を確かめているところです」
「一緒に作る約束、忘れていませんか」
「忘れていません」
「焦がしたところは?」
「半分ずつです」
私は焼いたパンを一枚取った。
林檎煮の甘さと、少し焦げた縁の香ばしさがよく合う。
「これも、端が焦げています」
「それは失敗ではなく、焼き色です」
「では、半分にしなくても?」
「フィリア様が全部召し上がって構いません」
「ルクスは?」
「僕は、こちらを」
彼が別の一枚へ手を伸ばす。
そちらには、林檎が少し多く載っていた。
「甘いところを選びましたね」
「雪かきをしたので」
「私もしました」
「では、分けますか」
「公平に?」
「はい」
ルクスは林檎の多い一枚を半分に割った。
大きい方を、私の皿へ置く。
「こちらの方が大きいですわ」
「パンの形が違うだけです」
「林檎も多いです」
「偶然です」
以前、私が甘いところを多く取った時、彼は何も言わなかった。
今度は私が、小さい方の半分を彼の皿から取り、大きい方と重ねた。
「何をなさるのですか」
「もう一度、分けます」
二枚を見比べ、林檎が同じくらいになるように割り直す。
今度こそ、ほとんど同じ大きさになった。
「これで公平です」
「僕は、フィリア様に多く食べていただきたかったのですが」
「では、次は私がルクスへ多く差し上げます」
「それでは、また公平になりますね」
「交代で多く取るのです」
「難しい公平です」
「長く続ければ、同じになります」
ルクスは少し驚いたように私を見た。
「長く、ですか」
言われてから、自分の言葉に気づく。
今日だけではない。
明日も、その先も。
どちらかが少し多く受け取り、次は相手へ返す。
そんな日々が続くような言い方だった。
「……林檎煮がなくなるまで、という意味です」
「はい」
彼は素直に頷いた。
けれど、青い瞳には柔らかな笑みが残っている。
「来年も、作れます」
「林檎煮を?」
「ええ。来年も、その次も」
「そうですね」
今度は、私も言葉を足さなかった。
窓の外では、雪が止みかけていた。
白くなった庭に、細い道が何本も伸びている。
私たちが作った薪置き場までの道。
門へ続く道。
見回りへ出た人々の足跡。
一人で作った道ではない。
誰かが途中まで進み、疲れたら次の人へ渡す。
そうして、雪の中にも暮らしは続いていく。
「ルクス」
「はい」
「今日は、何も倒しませんでした」
「雪を少し動かしました」
「倒してはいません」
「では、よい日ですね」
「ええ」
私は温かい杯を両手で包んだ。
「何も倒さなくても、ここにいてよい日です」
「毎日、いてよいのですよ」
ルクスが言う。
「フィリア様が何を倒しても、倒さなくても」
「雪に倒されかけても?」
「その時は支えます」
「あなたが倒れそうな時は、私が支えます」
「お願いします」
窓の向こうで、雲の切れ間から淡い光が差した。
春はまだ遠い。
明日になれば、また雪を除ける必要があるかもしれない。
それでも今は、何も成し遂げなくてよい午後を、隣にいる人と過ごしていた。
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