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第24話

橋を渡り切ると、私はルクスの手を離した。


 離してから、もう少し握っていてもよかったのではないかと思う。


 けれど、振り返れば大工や御者たちがいる。


 人前で仕事以外の理由から手をつなぐには、まだ少し勇気が足りなかった。


「滑りませんでしたか」


 ルクスが尋ねる。


「ええ。支えていただきましたから」


「僕の方も、支えていただきました」


「では、半分ずつですね」


「また半分ですか」


「公平でしょう?」


 彼は笑いながら、繕った右手を開いた。


 手のひらには、私が縫いつけた革がある。


 縫い目は少し曲がっている。


「こちらは、半分ではありません」


「何が?」


「フィリア様が縫ってくださったので、全部僕の大切なものです」


 突然、そのようなことを言われた。


 私は返す言葉を見つけられず、彼の手袋を見つめる。


「……左は、もっと上手に縫います」


 ようやく口にできたのは、それだけだった。


「楽しみにしています」


 ルクスも少しだけ視線を逸らす。


 橋を直した時の相談なら、二人とも迷わず話せた。


 けれど、手袋一つを大切だと言われただけで、何を答えればよいか分からなくなる。


「領主様」


 大工に呼ばれ、私は振り向いた。


「橋へ使った板を外すのは、本格的な補修材が届いてからです。それまでは、このままに」


「分かりました。橋を通る荷の重さも制限しましょう」


「目印を立てておきます。重い荷車が続く時は、一台ずつ間を空けるように」


 私とルクスは再び仕事の顔へ戻った。


 その方が今は、少しだけ安心できた。


     *


 館へ戻った後、屋根板は北の村へ運ぶ分と、館で保管する分へ分けられた。


 傷みのひどい家から順に修繕する。


 大工だけでなく、その家に住む者も作業へ加わることになった。


「屋根へ上るのは、慣れた者だけにしてください」


 私が言うと、村長が頷いた。


「下で板を渡す仕事も、古い釘を抜く仕事もあります。屋根へ上れない者には、そちらを任せます」


「幼い子どものいる家は?」


「作業の日だけ、隣家で預かる話がついております。子守をする者には、屋根仕事と同じ日当を」


 村長は既に、誰がどの仕事をするか書き出していた。


 子守も、食事を作ることも、修繕に必要な仕事だ。


 屋根へ上がる者だけへ賃金を出せば、ほかの者が無償で負担を抱えることになる。


「その形でお願いします」


 私は帳面へ印をつけた。


「昼食の材料は領の倉から出します。作業する方だけでなく、子どもを預かる家の分も」


「承知しました」


 そこへ、料理人が別の紙を持ってくる。


「屋根仕事の日は、温かい汁物を作ります。ただ、村ごとに館から運ぶと冷めますので、材料を分け、現地で作っていただく方がよいかと」


「作れる方はいらっしゃいますか」


「北の村では三人。ほかの村にも聞いてあります」


 作業が一つ始まるたびに、それを支える仕事が幾つも生まれる。


 けれど、それらを私一人で見つけなくてもよい。


 暮らしている人たちが、自分たちで必要なことを判断してくれていた。


「では、材料と鍋を用意しましょう」


「鍋は村にあります」


 料理人が言った。


「必要なのは、館の香草を少しだけです」


「全部をこちらから持っていく必要はないのですね」


「ええ。村にも暮らしがありますから」


 静かな言葉だった。


 私は忘れないよう、胸の中で繰り返した。


 助けることと、すべてを代わりにすることは違う。


     *


 その日の仕事を終えた後、私は約束通り、ルクスの左手袋を縫った。


 今度は指を刺さなかった。


 糸も一度しか絡まらなかった。


「一度は絡まったのですね」


「でも、自分で解きました」


「見ていました」


「褒めてくださってもよいのですよ」


「上手になりました」


 ルクスは繕い終えた手袋を受け取り、両手へはめた。


 左右とも同じ古い革。


 片方には以前からの細かな縫い目。


 もう片方には、私が縫った新しい革がある。


「きつくありませんか」


「ちょうどよいです」


「指は動く?」


 彼は指を曲げ、机の上に置かれていたペンを持ち上げた。


「問題ありません」


「では、合格ですね」


「はい」


 私は嬉しくなり、繕った場所をもう一度確かめた。


 糸が緩んでいないか。


 革が寄っていないか。


 手首まで手を滑らせたところで、ルクスが動かなくなっていることに気づく。


「どうしました?」


「いえ」


「縫い目が痛いの?」


「違います」


「では、何かしら」


「フィリア様が、僕の手をずっと握っていらっしゃるので」


 私は自分の手元を見た。


 確かに、手袋の具合を確かめるというには、少し長く触れていた。


「ごめんなさい」


 離そうとする。


 けれど、ルクスの指が僅かに曲がり、私の手を留めた。


「嫌だとは、言っていません」


 青い瞳が、真っ直ぐこちらを見ている。


 胸の奥が大きく鳴った。


「では……もう少しだけ?」


「はい」


 私たちは手袋越しに手を重ねたまま、黙って座った。


 暖炉の薪が、小さくはぜる。


 手袋の具合を確かめているだけ。


 その言い訳が、もう使えないことは二人とも分かっていた。


 それでも、今すぐ関係へ名前をつける必要はなかった。


 触れていたいと思い、相手も同じだと知る。


 今は、それだけで十分だった。


     *


 リディア・フォン・アーデルハイトからの手紙が届いたのは、橋の補修から五日後だった。


 王都からの便は、地竜の魔石に対する入札書と、王家からの報奨金の明細も運んできた。


 その中に、アーデルハイト侯爵家の封蝋があった。


 差出人の名を見た瞬間、夜会の光景が胸へ戻る。


 アルフレッドの隣に立っていた少女。


 蜂蜜色の髪。


 淡い色のドレス。


 戸惑うような緑の瞳。


「お嬢様」


 手紙を運んできたセバスチャンが、静かに私を見る。


「お一人でお読みになりますか」


 私は少し考えた。


「いいえ。ルクスにも、そばにいていただきたいです」


「承知いたしました」


 以前、王妃様からの手紙を読んだ時と同じ窓辺の卓へ移る。


 ルクスは私の向かいへ座った。


「読み上げましょうか」


 彼が尋ねる。


「自分で読みます」


「はい」


 封を開く。


 中には二通の書面が入っていた。


 一通は私信。


 もう一通は、アーデルハイト侯爵領で作られている織布についての取引提案だった。


 私は先に、私信を開いた。


『レインズワース女伯爵様へ』


 手紙には、夜会での出来事が記されていた。


 リディアは、婚約解消が既に決まっているとアルフレッドから聞かされていた。


 けれど、私が何も知らされていなかったことには、その場で気づいていたという。


『私はあの夜、あなたが傷つけられていると分かりながら、殿下の隣に立ち続けました。申し訳ございません』


 私は、そこで一度読むのを止めた。


 あの時、誰か一人でも違うと言ってくれたなら。


 そう思わなかったわけではない。


 夜会に集まった人々は、誰も私へ手を差し伸べなかった。


 王子に逆らうことを恐れた者。


 面白い見世物として眺めていた者。


 関わらない方がよいと目を逸らした者。


 リディアも、その中の一人だった。


「続けられますか」


 ルクスが尋ねる。


「ええ」


 次の行を読む。


『お返事も、お許しも求めません。ただ、自分がしたことを、なかったことにはしたくないのです』


 許してほしいとは、書かれていなかった。


 自分は騙されていただけだとも。


 アルフレッドが悪かったのだとも。


 私が手紙を閉じても、ルクスは何も尋ねなかった。


「私、怒っているのかしら」


 自分でも分からず、口にした。


「怒っていてもよいと思います」


「でも、リディア様も殿下から違う話を聞かされていました」


「それと、フィリア様が傷ついたことは、別です」


 ルクスは静かに答えた。


「事情を知れば、理解できることはあります。でも、理解したからといって、痛くなかったことにはなりません」


 私は手紙へ目を落とした。


 責めたいわけではない。


 けれど、すぐに笑って許せるとも言えなかった。


「お返事をしなくても、よいのですよね」


「手紙にも、そう書かれています」


「でも、受け取ったことだけは伝えたいです」


「それも、フィリア様が決めてよいことです」


「ええ」


 私はもう一通の書面を開いた。


 そこには、厚手の織布について書かれている。


 雪や雨を弾くよう油を染み込ませた布で、荷台を覆ったり、素材の保存に使ったりできるという。


 見本を送り、使えるなら正当な価格で取引したいとあった。


「謝罪と、取引の提案を分けてありますね」


 ルクスが言う。


「ええ。取引を断っても、謝罪を拒んだことにはならないように」


 その心遣いは、理解できた。


 許したかどうかとは別に。


「見本は?」


「荷の中に入っております」


 セバスチャンが答えた。


「倉庫へ運ばせました」


「では、織物を扱う方々に見ていただきましょう。地竜の素材に使えるかは、解体職人にも」


 私は取引の書面をルクスへ渡した。


「こちらは仕事として、きちんと判断します」


「はい」


「私信へのお返事は、少し考えます」


「急がなくてもよいと思います」


 ルクスの手が、卓上へ置かれた私の手へ近づく。


 触れる前に、一度止まった。


 私は自分から、その指先へ手を重ねた。


「今は、こちらにいてくださる?」


「はい」


「お仕事としてではなく」


「もちろんです」


     *


 織布の見本は、翌朝、館の広間へ広げられた。


 濃い灰色の布と、薄い茶色の布が一反ずつ。


 触れると厚く、普通の毛織物よりも重い。


 表面へ水を垂らすと、染み込まずに丸い粒となって転がった。


「荷台の覆いには使える」


 御者が布を引っ張りながら言う。


「今の布より重いが、風でめくれにくい。雪が積もった時は、早めに落とす必要があるな」


「地竜の鱗を包むには?」


 私が尋ねると、解体職人は端を折り曲げた。


「内側へ柔らかい布を一枚挟めば使える。これだけだと、油が鱗へ移るかもしれん」


「では、二重にする費用を計算しましょう」


「待ってください」


 織物を扱う村の女性が、布の縁を確かめた。


「この織り方なら、こちらでも似たものを作れるかもしれません」


「同じものを?」


「糸はあります。ただ、この油の配合が分かりません。雪を弾くほど染み込ませても、布が固くなっていない」


 彼女は見本を光へ透かした。


「最初は購入し、その間に作り方を学べないか交渉してはどうでしょう」


「技術を教えていただく分も、代金を払う必要がありますね」


 ルクスが帳面を開く。


「侯爵領の仕事を奪う形にならないよう、用途を分ける方法もあります」


「細かな布は、こちらで作れます」


 女性が答える。


「大きな一枚布は、織り機が違うので難しい。荷車を覆うものは向こうから買い、小さな保存袋はこちらで作るなら、両方続けられます」


 皆で布を触り、折り、縫い目を確かめる。


 私はその意見を聞いた。


 リディアの提案を受けるかどうかは、私の感情だけで決めるものではない。


 領地にとって役立つか。


 正当な価格か。


 こちらの仕事を育てることにもつながるか。


「まず、荷車二台分の覆いを注文しましょう」


 私は言った。


「地竜の素材へ使う分は、油が移らないか試してから。技術については、指導料を含めた条件を尋ねます」


「承知しました」


 ルクスが書き留める。


「返事の差出人は、領主様のお名前で?」


「取引については、レインズワース女伯爵として」


「私信は?」


 私は少し考えた。


「フィリアとして書きます」


     *


 その夜、私はリディアへの返事を書いた。


 何度も言葉を選び直した。


 優しい返事をするべきだと思ったわけではない。


 怒りをぶつけたいわけでもない。


 今の私が、本当に伝えられることを書きたかった。


『リディア様へ』


『お手紙を受け取りました。あの夜のことを、私はまだ、すべて過ぎたこととして考えられるわけではありません』


 ここまで書き、手を止める。


 隣の卓では、ルクスが帳簿を一頁だけ確認していた。


 二人とも休ませる会の規則で、本当に一頁だけだ。


「難しいですか」


「ええ。でも、自分で書きたいです」


「はい」


 彼は手を出さず、ただそばにいてくれた。


 私は続きを書く。


『けれど、あなたがご自身の言葉で伝えてくださったことを、確かに受け取りました』


『今すぐ許したと申し上げることはできません。それでも、あなたの謝罪をなかったことにはいたしません』


 少し冷たいだろうか。


 考えた末、そのまま残した。


 取り繕わないことも、相手へ誠実であるために必要だと思った。


『織布については、領内の者たちと確認いたしました。正式な取引を希望いたします。詳しい条件は、別紙にてお送りします』


 最後に、もう一行を添える。


『お互いに、自分の意思で選んだ道を歩けることを願っております』


 署名は、フィリア・レインズワース。


 王子の元婚約者としてではない。


 北の土地を受け継ぎ、ここで暮らしている私の名だった。


「書けました」


 顔を上げると、ルクスも帳簿を閉じた。


「僕も、一頁終わりました」


「もう開いてはいけませんよ」


「フィリア様も、手紙を書き直してはいけません」


「読み返すだけなら」


「何度も読み返して、朝まで直すおつもりでしょう」


「そのようなことは」


 否定しかけ、やめた。


 おそらく、そうしてしまう。


「では、封をします」


「はい」


 蝋を落とし、レインズワース家の印章を押す。


 手紙は明日の便で王都へ向かう。


 リディアがどう受け取るかは、私には決められない。


 けれど、自分の言葉で返すことはできた。


「今夜の会は、きちんと役目を果たしましたね」


 私が言うと、ルクスが頷く。


「二人とも休ませる会、初めての成功です」


「昨日も休みましたわ」


「フィリア様は、寝台で橋のことを考えていたのでは?」


「……少しだけ」


「僕もです」


「では、失敗ですね」


「半分だけ」


「半分なら、成功とは言えないでしょう」


「今夜は全部成功させましょう」


 私たちは灯りを消し、廊下へ出た。


 分かれ道まで並んで歩く。


「おやすみなさい、ルクス」


「おやすみなさい、フィリア様」


「明日は、何も壊れないとよいですね」


「壊れても、直せる範囲なら大丈夫です」


「手袋も、橋も?」


「はい。それから、疲れた心も」


 ルクスの言葉に、私は立ち止まった。


「心も、直せるの?」


「すぐには難しいと思います」


 彼は静かに答えた。


「でも、そばにいることはできます」


 私は微笑んだ。


「では、お願いします」


「はい」


 すぐに直らないものがあってもよい。


 痛みが残っている日にも、ここにいてよい。


 それを教えてくれる人が、今は私の隣にいた。

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