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第31話

翌朝、倉庫へ向かう前に、私は短剣を腰へ差した。


 剣ではない。


 短剣である。


 魔石の箱を確認するだけなのだから、これで十分だ。


「フィリア様」


 玄関広間で待っていたルクスが、私の腰元を見る。


「何かしら」


「本当に持っていくのですね」


「念のためです」


「魔石は箱から出ませんよ」


「昨日も聞きました」


「箱が動いたとしても、短剣で止められるでしょうか」


「地竜本体よりは小さいです」


「大きさの問題ではないと思います」


 彼の手には、約束通り帳面があった。


 もう片方の手には、小さな蓋つきの籠を持っている。


「それは?」


「お茶とパンです」


「倉庫へ行くだけでしょう?」


「確認に時間がかかるかもしれませんから」


「準備がよいですね」


「念のためです」


 私の言葉を返されてしまった。


「では、短剣もお茶も持っていきましょう」


「はい」


「どちらが役に立つかは、まだ分かりません」


「おそらく、お茶だと思います」


 ルクスは迷わず答えた。


     *


 魔石を保管している倉庫は、館から少し離れた石造りの建物だった。


 火事が起きた時、ほかの建物へ燃え移らないよう、周囲には広い空地が設けられている。


 雪は丁寧に除けられ、扉まで細い道が続いていた。


 倉庫番と職人が、既に道具を用意している。


 グランも、若者を二人連れて待っていた。


「見張りから、異常は?」


 私が尋ねる。


「音も、光もなし」


 グランが答える。


「箱の周りが少し温かいだけです」


「短剣は必要でしょうか」


 ルクスが尋ねた。


「要らん」


 即答だった。


「まだ分かりません」


「魔石は噛みつかん」


「私も、そう申し上げました」


 ルクスが穏やかに付け加える。


 私は二人を見た。


「確認が終わるまで、結論を出すのは早いですわ」


「何と戦うつもりだ」


「戦うとは申し上げていません」


 グランは何も言わず、倉庫の扉を開けた。


 どうやら、これ以上話しても短剣を置いていかないと分かったらしい。


     *


 倉庫の中は薄暗く、外より僅かに暖かかった。


 中央に、大きな木箱が置かれている。


 地竜の魔石を収めた箱だ。


 床の石は箱の周囲だけ濡れ、細い水の筋が排水溝へ向かっている。


「昨夜より水が増えています」


 倉庫番が言った。


「見張りが布で拭きましたが、また解けました」


「箱そのものに変化は?」


「膨らみも、亀裂もありません」


 職人は手袋を二枚重ね、長い金属棒の先を箱へ近づけた。


 棒には、熱を受けると色が変わる塗料が塗られている。


「直接触れないのですね」


「最初から手で確かめる必要はありません」


「正しい判断です」


 ルクスが言った。


 なぜか私を見ている。


「私も、勝手に触るつもりはありません」


「約束しましたからね」


「覚えています」


 金属棒の先が、箱の側面へ触れる。


 塗料は灰色から薄い青へ変わった。


「温かいが、危険な温度ではありません」


 職人が別の場所も確かめる。


「下の方が少し高い。熱が逃げずに溜まっているようです」


「羊毛が保温しているのかしら」


「魔石を衝撃から守るために詰めましたが、熱まで閉じ込めたのでしょう」


 箱を開けずに熱を逃がす方法が必要だった。


 木箱の下へ低い台を入れ、床との間に空気を通す。


 周囲の羊毛を一部だけ取り除き、代わりに乾いた砂を増やす。


 ただし、箱を持ち上げるには六人ほど必要だという。


「今日、すぐに動かしますか」


 私が尋ねると、職人は箱の継ぎ目を確かめた。


「急がない方がよいでしょう。持ち上げる台と縄を先に作ります。箱を傾ければ、中の魔石が動くかもしれません」


「では、今日は温度を記録するだけにしましょう」


 ルクスが帳面へ時刻と色を書き込む。


「朝、昼、夕方の三度。変化が大きければ、技師へ早馬を」


「見張りの方へ難しい作業を増やさないよう、見本を置けますか」


「この色までなら安全、という板を作りましょう」


 職人が答えた。


 皆で話し合い、決めていく。


 短剣を抜く場面はなかった。


「ルクス」


「はい」


「今、安心した顔をしましたね」


「魔石が暴れなかったので」


「私が短剣を使わずに済んだからでは?」


「それもあります」


「必要なかったと決まったわけではありません。まだ倉庫を出ていませんもの」


「箱は動きませんよ」


 その時だった。


 倉庫の奥で、かすかな音がした。


 きゅう。


 皆の動きが止まる。


 私の手は、すぐに短剣の柄へ伸びた。


「今、鳴きました」


「魔石は鳴かん」


 グランが低い声で答える。


 もう一度。


 きゅう、きゅう。


 今度は、はっきりと聞こえた。


「箱の中ではありません」


 若者の一人が、奥の壁を指す。


 薪を入れていない古い木箱が、いくつか重ねられている。


 その陰から音がしていた。


「動かさないでください」


 私は言った。


「何がいるか、分かりません」


 短剣を抜くのではなく、鞘へ入れたまま構える。


 グランが長い棒で、手前の空箱をゆっくりとずらした。


 白いものが見えた。


 雪の塊ではない。


 小さな耳が動く。


「狼?」


 ルクスが小声で言った。


 箱の陰にいたのは、白い毛に覆われた小さな獣だった。


 体は私の両腕に収まるほど。


 耳はまだ大きく、脚も短い。


 青灰色の瞳で、こちらを警戒するように見上げている。


「雪白狼の子だ」


 グランが言った。


「まだ乳離れ前かもしれん」


「どうして倉庫の中へ?」


 倉庫番が壁を調べる。


 裏側の通気口を塞いでいた木板が、一枚外れていた。


「ここから入ったようです。雪が壁際まで積もり、通気口へ届いたのでしょう」


 地竜の魔石の熱を感じて、暖かい場所へ入ったのかもしれない。


 けれど、子狼だけとは限らない。


「母狼が近くにいますか」


「その可能性が高い」


 グランは扉の外へ若者を下がらせた。


「子を探している母狼へ近づけば危険だ。外周を見てくる。誰も子へ触るな」


「分かりました」


 私たちは距離を保った。


 子狼は立ち上がろうとした。


 けれど、右の前脚を床へつけた途端、体を崩す。


「怪我をしています」


 私が一歩進みかけると、ルクスが袖をつかんだ。


「待ってください」


「でも」


「グランさんが戻るまでです」


「痛そうですわ」


「分かっています」


 ルクスの声も心配そうだった。


「だからこそ、驚かせないようにしましょう」


 私は足を止めた。


 子狼はもう一度、小さく鳴いた。


 今度は威嚇ではなく、誰かを呼んでいるように聞こえた。


     *


 グランは倉庫の外を一周し、雪の上の足跡を確かめた。


「成獣の足跡がある。だが、古い」


「母狼のもの?」


「おそらく。昨日の雪が降る前だ。子の足跡は倉庫まで続いているが、母親の足跡は森へ戻っている」


「置いていかれたのでしょうか」


「雪白狼は、弱った子を簡単に捨てる獣ではない」


 グランは首を横へ振った。


「母親が戻れない理由があるか、別の場所で待っているかだ」


「探しに行くの?」


「今日は行かん」


 私が尋ねる前に答えられた。


「足跡は雪で途切れている。子を置いたまま、手がかりもなく森へ入る方が危険だ」


「では、この子は?」


「怪我を見なければならん。ただし、狼だ。小さくても歯はある」


 治療師を呼ぶことになった。


 獣の怪我に詳しい猟師も、村から来てくれるという。


 それまで、倉庫の扉を閉めずに待つ。


 母狼が戻った時、子の匂いを見失わないためだ。


「寒くなりませんか」


「魔石の熱がある。今のところ、子が凍える温度ではない」


 地竜を倒した後に残った魔石が、白狼の子を温めている。


 不思議な巡り合わせだった。


「お茶を飲みますか」


 ルクスが小声で尋ねた。


「子狼に?」


「フィリア様にです」


「今?」


「治療師が来るまで、少しかかります」


「でも、この子を見ていなければ」


「見ながら飲めます」


 彼は倉庫の隅へ布を敷き、籠から杯を出した。


 温かい香草茶の香りが広がる。


 子狼の鼻が、僅かに動いた。


「お茶が気になるようです」


「飲ませてはいけませんよ」


「分かっています」


「パンもです」


「分かっていますわ」


 ルクスは私へ杯を渡し、自分も隣へ座った。


 子狼からは十分に離れている。


「短剣より、お茶が役に立ちましたね」


「まだ分かりません」


「子狼と戦うつもりですか」


「戦いません」


「では、短剣の役目は?」


「何かを切る必要があるかもしれません」


「何を?」


「包帯や、縄を」


「それなら小刀があります」


 倉庫番が道具箱を持ち上げた。


 私は黙ってお茶を飲んだ。


 温かかった。


     *


 治療師と猟師が到着すると、まず子狼を厚い布で包むことになった。


 猟師が革手袋をはめ、低い声で呼びかける。


「怖くない。動くなよ」


 子狼は耳を伏せ、喉の奥で小さく唸った。


 けれど、噛みつこうとはしない。


 猟師が前脚へ触れようとすると、怯えて身を縮めた。


「人の匂いに慣れていない。押さえる者がもう一人要るな」


「私がします」


「領主様」


 グランとルクスの声が重なった。


「動物の扱いに慣れているのですか」


 猟師が尋ねる。


「いいえ」


「では、わしが」


「待ってください」


 治療師が子狼の様子を見ていた。


「この子、領主様の方を見ています」


「私を?」


 私が僅かに動くと、子狼の青灰色の瞳もこちらを追った。


 先ほどから、何度か目が合っていた。


 けれど、警戒されているのだと思っていた。


「剣の匂いかもしれん」


 グランが言う。


「アイリス様の剣の鞘には、昔使った獣脂の匂いが残っている」


「私は短剣しか持っていません」


「では、手袋か外套でしょう」


 ルクスが私の袖を見る。


 森を歩いた時についた匂いが残っているのかもしれない。


 理由は分からない。


「近づくだけにしてください」


 猟師が言った。


「手は出さず、噛みつく様子があれば下がること」


「分かりました」


 私はゆっくりと膝をついた。


 子狼と目の高さを合わせる。


「怖くありません」


 人の言葉が分かるとは思わない。


 それでも、穏やかに話した。


「怪我を見せてください。終わったら、離れますから」


 子狼の耳が動く。


 私は手袋を外し、手のひらを上へ向けて床へ置いた。


 こちらから触れない。


 選ぶのは、子狼だ。


 しばらくすると、小さな鼻が近づいてきた。


 指先の匂いを嗅ぐ。


 温かな息が触れた。


 次の瞬間、子狼は私の手のひらへ顎を載せた。


「……重くありませんわ」


 誰に言うでもなく呟く。


「まだ誰も聞いていません」


 ルクスが隣で言った。


「先に答えただけです」


 子狼が、きゅう、と鳴いた。


「今のは、何でしょう」


「分かりません」


 猟師が答える。


「ただ、嫌がってはいないようです」


 私は顎を支えたまま、もう片方の手で背を包んだ。


 子狼の体は温かい。


 細かな震えが伝わってくる。


「今です」


 猟師が素早く布を巻き、治療師が前脚を調べた。


 肉球の間に、小さく尖った氷晶石が刺さっている。


「これが原因ですね」


「抜けますか」


「浅い傷です。動かなければ、すぐに」


 短い針金のような道具で、氷晶石を取り除く。


 子狼が身を震わせ、私の手へ鼻先を押しつけた。


「もう少しです」


 私は背をゆっくり撫でた。


「よく我慢していますね」


「フィリア様」


「何かしら」


「声が、いつもより柔らかいです」


「怪我をしているのですよ」


「僕が怪我をした時も、同じ声でしたか」


「比べるところですか」


「少し気になっただけです」


「ルクスも、怪我をすれば心配します」


「怪我をしなくても?」


 返事に困っている間に、治療が終わった。


「消毒しました。傷は深くありません」


 治療師が細い布を前脚へ巻く。


「二、三日は、長く歩かせない方がよいでしょう」


「母狼が戻ったら?」


「傷を塞ぐ薬は、人にも獣にも害のないものです。返して構いません」


 子狼を床へ戻そうとした。


 けれど、子狼の前脚が私の袖へかかった。


 小さな爪が布へ引っかかる。


「離れません」


 私が言う。


「見れば分かります」


 グランが答えた。


「どうすれば?」


「ゆっくり外すしかないでしょう」


 私は片方ずつ前脚を外した。


 床へ下ろす。


 子狼は三本の脚で立ち、私の靴へ体を寄せた。


「また、くっつきました」


「懐かれたようですね」


 治療師が微笑む。


「なぜ私に?」


「助けてもらったと思ったのでしょう」


「治療したのは、皆です」


「それを説明するのは、難しいですね」


 子狼は私の外套の裾へ鼻を入れ、その場で丸くなった。


 どうやら、離れるつもりはないらしい。


     *


 母狼が戻る可能性を考え、子狼はその日のあいだ倉庫で休ませることになった。


 裏口の近くへ藁と毛布を敷き、水を置く。


 食べ物は、猟師が持ってきた山羊の乳を少しだけ与えた。


「肉ではないの?」


「まだ乳を飲む年頃です」


「狼ですのに」


「狼も、最初から肉を食べるわけではありません」


 知らないことだった。


 子狼は浅い皿から乳を舐めた。


 口元の白い毛へ乳がつく。


「白いので、目立ちませんね」


 私が言うと、ルクスが布を一枚差し出した。


「拭きますか」


「触りすぎない方がよいのでは?」


「先ほどから、フィリア様の膝へ前脚を載せています」


 私は倉庫の低い椅子へ座っていた。


 子狼は私の足元にいたはずなのに、いつの間にか前脚を膝へかけ、こちらを見上げている。


「抱き上げてほしいのでしょうか」


「フィリア様なら、分かるのでは?」


「私は狼ではありません」


「地竜の気持ちは分かるのに?」


「地竜の動きが読めるだけです」


「では、この子の動きは?」


 子狼が、きゅう、と鳴く。


 後ろ脚で立ち上がろうとして、包帯を巻いた前脚を浮かせた。


「無理をしてはいけません」


 私は両脇へ手を入れ、そっと抱き上げた。


 驚くほど軽い。


 胸元へ収めると、子狼は私の外套へ鼻を埋めた。


「大人しくなりましたね」


 ルクスが言う。


「温かいからでしょう」


「倉庫も温かいです」


「私の外套の方が柔らかいのです」


「そうでしょうか」


 ルクスが、私の袖へ触れた。


 指先で布地を確かめる。


「何をしているの?」


「柔らかさを確認しています」


「子狼と比べないでください」


「フィリア様の外套が羨ましいわけではありません」


「まだ何も申し上げていませんわ」


 彼は少し黙った。


 子狼が私の胸元で顔を上げる。


 青灰色の瞳がルクスへ向いた。


「ルクスも、触ってみますか」


「よいのですか」


「この子が嫌がらなければ」


 彼は手袋を外し、手の甲を子狼の鼻先へ近づけた。


 子狼は匂いを嗅ぐ。


 少し考えるように首を傾げた後、ルクスの指を舐めた。


「受け入れられたようですね」


「はい」


 ルクスの顔が、明らかに嬉しそうになった。


「撫でても?」


「ゆっくりと」


「フィリア様が許可を出すのですか」


「今、この子を抱いていますから」


 ルクスが子狼の頭を撫でる。


 小さな耳が一度伏せられ、また立った。


「柔らかいですね」


「ええ」


「フィリア様の髪も、同じくらいでしょうか」


 私の手が止まる。


「なぜ、そこで私の髪が出てくるの?」


「色が似ているので」


「色が似ていれば、手触りも同じなのですか」


「確かめたことがありませんから」


 ルクスは言ってから、自分の言葉に気づいたらしい。


 耳が赤くなる。


 私の頬も熱くなった。


「……子狼を撫でていてください」


「はい」


「私の髪は、今は関係ありません」


「今は?」


「そういう意味ではありません」


 少し離れた場所で、職人が金属棒を箱へ当てていた。


 倉庫番は温度の記録をつけている。


 二人とも、こちらへ背を向けたままだった。


 聞こえていないふりをしてくれているらしい。


     *


 昼になっても、母狼は戻らなかった。


 グランと猟師が周囲を調べたけれど、新しい足跡は見つからない。


「今夜も倉庫へ置くのですか」


 私が尋ねると、猟師は首を横へ振った。


「人の見張りが出入りするたび、扉を開けることになります。子には寒い。傷が治るまでは、館の物置か厩の一角がよいでしょう」


「母狼が来た時、分からなくなりませんか」


「子の使った毛布を倉庫へ残します。匂いで気づくでしょう。見張りにも伝えておきます」


「館のどこへ?」


 セバスチャンが考える。


「厨房の隣に、薪を一時的に置く小部屋がございます。今は空いております」


「火に近すぎませんか」


「壁を隔てております。床も石です。窓には格子がございます」


「では、そこを借りましょう」


 決まった後、子狼を運ぶ役目が問題になった。


「籠へ入れます」


 猟師が言い、毛布を敷いた大きな籠を用意した。


 私は子狼を下ろそうとした。


 けれど、前脚がまた私の外套へしがみつく。


「離れませんわ」


「領主様が籠を持てばよい」


 グランが答える。


「中へ入れてから?」


「いえ。領主様が抱き、籠はルクスに持たせる」


「僕が籠だけを?」


 ルクスが少し不満そうに聞こえた。


「予備だ。子が暴れた時に使う」


「暴れそうには見えません」


 子狼は私の腕の中で、すっかり眠そうにしている。


「ルクスも抱きたいの?」


 私が尋ねると、彼は一瞬黙った。


「少しだけ」


「この子を?」


「はい」


「本当に?」


「ほかに誰がいるのですか」


「いいえ」


 私が子狼を差し出すと、ルクスは慣れない手つきで受け取った。


「首とお尻を支えてください」


「こうですか」


「もう少し体を寄せて」


 私は子狼の位置を直すため、ルクスの腕へ手を添えた。


 彼の胸元へ、白い毛の塊が収まる。


 子狼は少しだけ身じろぎした。


 ルクスの顔を見上げ、鼻先を顎へ近づける。


 次の瞬間。


 ぺろり、と顎を舐めた。


 ルクスが固まる。


「舐められましたね」


「はい」


「好かれたようです」


「そうでしょうか」


「私の時は、指だけでした」


「フィリア様より僕を気に入ったということですか」


「それは困ります」


 思わず答えてから、自分の言葉に気づく。


 ルクスがこちらを見る。


「困るのですか」


「私に先に懐いたのですから」


「はい」


「それに、この子は私の外套で眠りました」


「そうですね」


「ですから、私の方が少しだけ好かれています」


「競うところでしょうか」


「ルクスが先に仰ったのでしょう」


 子狼は私たちを交互に見た。


 それから、ルクスの腕の中から前脚を伸ばす。


 私の方へ。


「やはり、私ですわ」


「そうですね」


 ルクスは残念そうにしながらも、子狼を私へ返した。


 けれど、戻る前に子狼はもう一度、彼の指を舐めた。


「両方のようですね」


 猟師が言った。


「二人とも、群れの者だと思われたのでしょう」


「群れ?」


「狼は、一緒にいる者をよく見ますから」


 私とルクスは顔を見合わせた。


 群れ。


 家族とは少し違う。


 けれど、離れずに暮らし、互いを守る者たちという意味なら、どこか似ている。


「二人で世話をする必要がありますね」


 ルクスが言う。


「母狼が戻るまでです」


「はい」


「仕事もありますから、皆へ頼りましょう」


「はい」


「私たちだけで、ずっと抱いていてはいけません」


「それは、フィリア様がご自分へ言い聞かせていますか」


「ルクスにもです」


「僕は、まだ少ししか抱いていません」


「では、館までお願いしても?」


 子狼をもう一度渡す。


 今度は先ほどより、ルクスの腕が安定していた。


「籠は、私が持ちます」


「フィリア様が?」


「半分ずつでしょう?」


 私たちは並んで倉庫を出た。


 ルクスは子狼を抱き、私は空の籠を持つ。


 雪の上へ、二人分の足跡が続く。


 その間から、小さな白い尾が覗いていた。


     *


 館の小部屋には、すぐに寝床が作られた。


 古い毛布。


 浅い水皿。


 山羊の乳を入れる器。


 噛んでもよいように、皮を剥いだ木の枝も置かれる。


「何もない部屋だったのに、ずいぶん賑やかになりましたね」


 ルクスが言う。


「白い子が一匹いるだけです」


「名前は?」


「つけません」


「なぜですか」


「母狼が迎えに来るかもしれません」


 名前をつければ、別れがつらくなる。


 そんな気持ちもあった。


「呼ぶ時に困りませんか」


「白狼の子でよいでしょう」


「少し長いです」


「では、子狼」


「ほかの子狼が来たら?」


「何匹も来る予定なの?」


「分かりません。地竜の魔石を目当てに」


「それは困ります」


 倉庫が白狼の子でいっぱいになる場面を想像した。


 少しだけ見てみたいと思ったけれど、倉庫番は困るだろう。


「白いので、シロでは?」


 料理人が乳の器を置きながら言った。


「シロ」


 呼んでみる。


 毛布の上にいた子狼が、顔を上げた。


 きゅう。


「返事をしました」


 ルクスが言う。


「偶然です」


「シロ」


 彼が呼ぶ。


 子狼は立ち上がり、三本の脚でゆっくりと近づいてきた。


 ルクスの靴を嗅いだ後、私の足元へ座る。


「やはり、私の方へ来ましたわ」


「呼んだのは僕です」


「では、二人に返事をしたのですね」


「公平ですね」


「ええ」


 名前をつけないつもりだった。


 けれど、シロと呼ばれた子狼は、もう一度小さく鳴いた。


「仮の名前です」


 私は言った。


「母狼が迎えに来るまで」


「はい」


「別れられなくなるような呼び方は、しません」


「シロは、十分に可愛い呼び方だと思います」


「……そうですわね」


 困ったことに、もう少しだけ別れがつらくなっていた。


     *


 午後、私は執務室で魔石の契約書を確認した。


 ルクスは向かいの席で、朝の温度記録を整理している。


 シロの世話は、料理人と猟師が引き受けてくれた。


 私たちがいなくても、きちんと休んでいるはずだ。


 そう分かっているのに、扉の外で音がするたび、気になってしまう。


「フィリア様」


「何かしら」


「今、同じ条項を四度読んでいます」


「三度です」


「四度です」


「ルクスも、先ほどから数字を一つも書いていません」


 彼の筆先は、帳面の同じ場所で止まっている。


「僕は計算していました」


「何を?」


「シロが次に乳を飲む時刻を」


「それは料理人が覚えてくださっています」


「分かっています」


 二人で黙る。


「一度だけ、見に行きますか」


 私が尋ねる。


「休憩として?」


「ええ」


「二人とも休ませる会ですか」


「今日は、シロも休ませる会です」


「会員が増えましたね」


「怪我をしていますから」


「会長は?」


「料理人です」


「強そうです」


「グランも認めていました」


 私たちは書類を閉じ、小部屋へ向かった。


 扉を開ける。


 シロは毛布の上で、丸くなって眠っていた。


 小さな腹が、静かに上下している。


「寝ていますね」


 ルクスが囁く。


「起こさないようにしましょう」


「はい」


 私たちは扉のそばへ並んで座った。


 何もする必要はない。


 撫でる必要も。


 乳を与える必要も。


 ただ、眠っている姿を見る。


「フィリア様」


「何かしら」


「僕たちも、少し休みませんか」


「ここで?」


「静かですから」


 壁へ背を預ける。


 ルクスも隣へ座り直した。


 肩が僅かに触れる。


 以前なら、離れるべきか迷ったかもしれない。


 けれど今は、そのままにした。


「眠ってもよいですよ」


 私が言う。


「フィリア様も」


「私は、シロを見ています」


「僕も見ています」


「では、どちらも眠れません」


「半分ずつ眠りますか」


「どのように?」


「先にフィリア様が」


「ルクスが先です。昨日も遅くまでお茶を運んでくださったでしょう」


「フィリア様が執務室に残っていたからです」


「それでも」


 譲り合っているうちに、シロが目を覚ました。


 ゆっくりと顔を上げる。


 私たちを見つけると、毛布から出てきた。


 まだ前脚を浮かせながら、少しずつ近づく。


「歩いてはいけません」


 私は手を伸ばした。


 シロは私の膝へ前脚をかける。


 抱き上げると、今度は私とルクスの間へ体を押し込んだ。


 白い頭が、二人の腕へ触れる。


「ここで眠るつもりでしょうか」


「そのようです」


 ルクスが毛布を持ってきて、シロごと私たちの膝へ掛けた。


「フィリア様も眠ってよいですよ」


「シロが落ちます」


「僕が支えます」


「ルクスが眠ったら?」


「フィリア様が支えてください」


「結局、半分ずつですね」


「はい」


 私は目を閉じなかった。


 けれど、仕事へ戻ろうともしなかった。


 シロの温かさ。


 隣にいるルクスの肩。


 厨房から聞こえる、食器を片づける音。


 窓の外で静かに降る雪。


 何かを成し遂げるためではない時間が、ゆっくりと流れていく。


「ルクス」


「はい」


「この子の母親が来たら、返しましょう」


「はい」


「寂しくても」


「はい」


「でも、それまでは」


 私はシロの背をそっと撫でた。


「安心して眠れる場所にしてあげたいです」


「そうしましょう」


 ルクスの手も、白い背へ重なる。


 シロは二人の手の下で、小さく息を吐いた。


 きっと、私たちが完璧だから懐いたのではない。


 地竜を倒したからでも。


 帳簿が読めるからでもない。


 ただ、寒い時にそばにいて、痛い時に手を差し出したから。


 人の居場所も、そうやって生まれるのかもしれない。


 役に立つからではなく。


 一緒にいたいと思い、ここにいてよいと伝え合うことで。


 私たちの膝の上で、白狼の赤ちゃんは、もう一度安心したように眠り始めた。

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