第31話
翌朝、倉庫へ向かう前に、私は短剣を腰へ差した。
剣ではない。
短剣である。
魔石の箱を確認するだけなのだから、これで十分だ。
「フィリア様」
玄関広間で待っていたルクスが、私の腰元を見る。
「何かしら」
「本当に持っていくのですね」
「念のためです」
「魔石は箱から出ませんよ」
「昨日も聞きました」
「箱が動いたとしても、短剣で止められるでしょうか」
「地竜本体よりは小さいです」
「大きさの問題ではないと思います」
彼の手には、約束通り帳面があった。
もう片方の手には、小さな蓋つきの籠を持っている。
「それは?」
「お茶とパンです」
「倉庫へ行くだけでしょう?」
「確認に時間がかかるかもしれませんから」
「準備がよいですね」
「念のためです」
私の言葉を返されてしまった。
「では、短剣もお茶も持っていきましょう」
「はい」
「どちらが役に立つかは、まだ分かりません」
「おそらく、お茶だと思います」
ルクスは迷わず答えた。
*
魔石を保管している倉庫は、館から少し離れた石造りの建物だった。
火事が起きた時、ほかの建物へ燃え移らないよう、周囲には広い空地が設けられている。
雪は丁寧に除けられ、扉まで細い道が続いていた。
倉庫番と職人が、既に道具を用意している。
グランも、若者を二人連れて待っていた。
「見張りから、異常は?」
私が尋ねる。
「音も、光もなし」
グランが答える。
「箱の周りが少し温かいだけです」
「短剣は必要でしょうか」
ルクスが尋ねた。
「要らん」
即答だった。
「まだ分かりません」
「魔石は噛みつかん」
「私も、そう申し上げました」
ルクスが穏やかに付け加える。
私は二人を見た。
「確認が終わるまで、結論を出すのは早いですわ」
「何と戦うつもりだ」
「戦うとは申し上げていません」
グランは何も言わず、倉庫の扉を開けた。
どうやら、これ以上話しても短剣を置いていかないと分かったらしい。
*
倉庫の中は薄暗く、外より僅かに暖かかった。
中央に、大きな木箱が置かれている。
地竜の魔石を収めた箱だ。
床の石は箱の周囲だけ濡れ、細い水の筋が排水溝へ向かっている。
「昨夜より水が増えています」
倉庫番が言った。
「見張りが布で拭きましたが、また解けました」
「箱そのものに変化は?」
「膨らみも、亀裂もありません」
職人は手袋を二枚重ね、長い金属棒の先を箱へ近づけた。
棒には、熱を受けると色が変わる塗料が塗られている。
「直接触れないのですね」
「最初から手で確かめる必要はありません」
「正しい判断です」
ルクスが言った。
なぜか私を見ている。
「私も、勝手に触るつもりはありません」
「約束しましたからね」
「覚えています」
金属棒の先が、箱の側面へ触れる。
塗料は灰色から薄い青へ変わった。
「温かいが、危険な温度ではありません」
職人が別の場所も確かめる。
「下の方が少し高い。熱が逃げずに溜まっているようです」
「羊毛が保温しているのかしら」
「魔石を衝撃から守るために詰めましたが、熱まで閉じ込めたのでしょう」
箱を開けずに熱を逃がす方法が必要だった。
木箱の下へ低い台を入れ、床との間に空気を通す。
周囲の羊毛を一部だけ取り除き、代わりに乾いた砂を増やす。
ただし、箱を持ち上げるには六人ほど必要だという。
「今日、すぐに動かしますか」
私が尋ねると、職人は箱の継ぎ目を確かめた。
「急がない方がよいでしょう。持ち上げる台と縄を先に作ります。箱を傾ければ、中の魔石が動くかもしれません」
「では、今日は温度を記録するだけにしましょう」
ルクスが帳面へ時刻と色を書き込む。
「朝、昼、夕方の三度。変化が大きければ、技師へ早馬を」
「見張りの方へ難しい作業を増やさないよう、見本を置けますか」
「この色までなら安全、という板を作りましょう」
職人が答えた。
皆で話し合い、決めていく。
短剣を抜く場面はなかった。
「ルクス」
「はい」
「今、安心した顔をしましたね」
「魔石が暴れなかったので」
「私が短剣を使わずに済んだからでは?」
「それもあります」
「必要なかったと決まったわけではありません。まだ倉庫を出ていませんもの」
「箱は動きませんよ」
その時だった。
倉庫の奥で、かすかな音がした。
きゅう。
皆の動きが止まる。
私の手は、すぐに短剣の柄へ伸びた。
「今、鳴きました」
「魔石は鳴かん」
グランが低い声で答える。
もう一度。
きゅう、きゅう。
今度は、はっきりと聞こえた。
「箱の中ではありません」
若者の一人が、奥の壁を指す。
薪を入れていない古い木箱が、いくつか重ねられている。
その陰から音がしていた。
「動かさないでください」
私は言った。
「何がいるか、分かりません」
短剣を抜くのではなく、鞘へ入れたまま構える。
グランが長い棒で、手前の空箱をゆっくりとずらした。
白いものが見えた。
雪の塊ではない。
小さな耳が動く。
「狼?」
ルクスが小声で言った。
箱の陰にいたのは、白い毛に覆われた小さな獣だった。
体は私の両腕に収まるほど。
耳はまだ大きく、脚も短い。
青灰色の瞳で、こちらを警戒するように見上げている。
「雪白狼の子だ」
グランが言った。
「まだ乳離れ前かもしれん」
「どうして倉庫の中へ?」
倉庫番が壁を調べる。
裏側の通気口を塞いでいた木板が、一枚外れていた。
「ここから入ったようです。雪が壁際まで積もり、通気口へ届いたのでしょう」
地竜の魔石の熱を感じて、暖かい場所へ入ったのかもしれない。
けれど、子狼だけとは限らない。
「母狼が近くにいますか」
「その可能性が高い」
グランは扉の外へ若者を下がらせた。
「子を探している母狼へ近づけば危険だ。外周を見てくる。誰も子へ触るな」
「分かりました」
私たちは距離を保った。
子狼は立ち上がろうとした。
けれど、右の前脚を床へつけた途端、体を崩す。
「怪我をしています」
私が一歩進みかけると、ルクスが袖をつかんだ。
「待ってください」
「でも」
「グランさんが戻るまでです」
「痛そうですわ」
「分かっています」
ルクスの声も心配そうだった。
「だからこそ、驚かせないようにしましょう」
私は足を止めた。
子狼はもう一度、小さく鳴いた。
今度は威嚇ではなく、誰かを呼んでいるように聞こえた。
*
グランは倉庫の外を一周し、雪の上の足跡を確かめた。
「成獣の足跡がある。だが、古い」
「母狼のもの?」
「おそらく。昨日の雪が降る前だ。子の足跡は倉庫まで続いているが、母親の足跡は森へ戻っている」
「置いていかれたのでしょうか」
「雪白狼は、弱った子を簡単に捨てる獣ではない」
グランは首を横へ振った。
「母親が戻れない理由があるか、別の場所で待っているかだ」
「探しに行くの?」
「今日は行かん」
私が尋ねる前に答えられた。
「足跡は雪で途切れている。子を置いたまま、手がかりもなく森へ入る方が危険だ」
「では、この子は?」
「怪我を見なければならん。ただし、狼だ。小さくても歯はある」
治療師を呼ぶことになった。
獣の怪我に詳しい猟師も、村から来てくれるという。
それまで、倉庫の扉を閉めずに待つ。
母狼が戻った時、子の匂いを見失わないためだ。
「寒くなりませんか」
「魔石の熱がある。今のところ、子が凍える温度ではない」
地竜を倒した後に残った魔石が、白狼の子を温めている。
不思議な巡り合わせだった。
「お茶を飲みますか」
ルクスが小声で尋ねた。
「子狼に?」
「フィリア様にです」
「今?」
「治療師が来るまで、少しかかります」
「でも、この子を見ていなければ」
「見ながら飲めます」
彼は倉庫の隅へ布を敷き、籠から杯を出した。
温かい香草茶の香りが広がる。
子狼の鼻が、僅かに動いた。
「お茶が気になるようです」
「飲ませてはいけませんよ」
「分かっています」
「パンもです」
「分かっていますわ」
ルクスは私へ杯を渡し、自分も隣へ座った。
子狼からは十分に離れている。
「短剣より、お茶が役に立ちましたね」
「まだ分かりません」
「子狼と戦うつもりですか」
「戦いません」
「では、短剣の役目は?」
「何かを切る必要があるかもしれません」
「何を?」
「包帯や、縄を」
「それなら小刀があります」
倉庫番が道具箱を持ち上げた。
私は黙ってお茶を飲んだ。
温かかった。
*
治療師と猟師が到着すると、まず子狼を厚い布で包むことになった。
猟師が革手袋をはめ、低い声で呼びかける。
「怖くない。動くなよ」
子狼は耳を伏せ、喉の奥で小さく唸った。
けれど、噛みつこうとはしない。
猟師が前脚へ触れようとすると、怯えて身を縮めた。
「人の匂いに慣れていない。押さえる者がもう一人要るな」
「私がします」
「領主様」
グランとルクスの声が重なった。
「動物の扱いに慣れているのですか」
猟師が尋ねる。
「いいえ」
「では、わしが」
「待ってください」
治療師が子狼の様子を見ていた。
「この子、領主様の方を見ています」
「私を?」
私が僅かに動くと、子狼の青灰色の瞳もこちらを追った。
先ほどから、何度か目が合っていた。
けれど、警戒されているのだと思っていた。
「剣の匂いかもしれん」
グランが言う。
「アイリス様の剣の鞘には、昔使った獣脂の匂いが残っている」
「私は短剣しか持っていません」
「では、手袋か外套でしょう」
ルクスが私の袖を見る。
森を歩いた時についた匂いが残っているのかもしれない。
理由は分からない。
「近づくだけにしてください」
猟師が言った。
「手は出さず、噛みつく様子があれば下がること」
「分かりました」
私はゆっくりと膝をついた。
子狼と目の高さを合わせる。
「怖くありません」
人の言葉が分かるとは思わない。
それでも、穏やかに話した。
「怪我を見せてください。終わったら、離れますから」
子狼の耳が動く。
私は手袋を外し、手のひらを上へ向けて床へ置いた。
こちらから触れない。
選ぶのは、子狼だ。
しばらくすると、小さな鼻が近づいてきた。
指先の匂いを嗅ぐ。
温かな息が触れた。
次の瞬間、子狼は私の手のひらへ顎を載せた。
「……重くありませんわ」
誰に言うでもなく呟く。
「まだ誰も聞いていません」
ルクスが隣で言った。
「先に答えただけです」
子狼が、きゅう、と鳴いた。
「今のは、何でしょう」
「分かりません」
猟師が答える。
「ただ、嫌がってはいないようです」
私は顎を支えたまま、もう片方の手で背を包んだ。
子狼の体は温かい。
細かな震えが伝わってくる。
「今です」
猟師が素早く布を巻き、治療師が前脚を調べた。
肉球の間に、小さく尖った氷晶石が刺さっている。
「これが原因ですね」
「抜けますか」
「浅い傷です。動かなければ、すぐに」
短い針金のような道具で、氷晶石を取り除く。
子狼が身を震わせ、私の手へ鼻先を押しつけた。
「もう少しです」
私は背をゆっくり撫でた。
「よく我慢していますね」
「フィリア様」
「何かしら」
「声が、いつもより柔らかいです」
「怪我をしているのですよ」
「僕が怪我をした時も、同じ声でしたか」
「比べるところですか」
「少し気になっただけです」
「ルクスも、怪我をすれば心配します」
「怪我をしなくても?」
返事に困っている間に、治療が終わった。
「消毒しました。傷は深くありません」
治療師が細い布を前脚へ巻く。
「二、三日は、長く歩かせない方がよいでしょう」
「母狼が戻ったら?」
「傷を塞ぐ薬は、人にも獣にも害のないものです。返して構いません」
子狼を床へ戻そうとした。
けれど、子狼の前脚が私の袖へかかった。
小さな爪が布へ引っかかる。
「離れません」
私が言う。
「見れば分かります」
グランが答えた。
「どうすれば?」
「ゆっくり外すしかないでしょう」
私は片方ずつ前脚を外した。
床へ下ろす。
子狼は三本の脚で立ち、私の靴へ体を寄せた。
「また、くっつきました」
「懐かれたようですね」
治療師が微笑む。
「なぜ私に?」
「助けてもらったと思ったのでしょう」
「治療したのは、皆です」
「それを説明するのは、難しいですね」
子狼は私の外套の裾へ鼻を入れ、その場で丸くなった。
どうやら、離れるつもりはないらしい。
*
母狼が戻る可能性を考え、子狼はその日のあいだ倉庫で休ませることになった。
裏口の近くへ藁と毛布を敷き、水を置く。
食べ物は、猟師が持ってきた山羊の乳を少しだけ与えた。
「肉ではないの?」
「まだ乳を飲む年頃です」
「狼ですのに」
「狼も、最初から肉を食べるわけではありません」
知らないことだった。
子狼は浅い皿から乳を舐めた。
口元の白い毛へ乳がつく。
「白いので、目立ちませんね」
私が言うと、ルクスが布を一枚差し出した。
「拭きますか」
「触りすぎない方がよいのでは?」
「先ほどから、フィリア様の膝へ前脚を載せています」
私は倉庫の低い椅子へ座っていた。
子狼は私の足元にいたはずなのに、いつの間にか前脚を膝へかけ、こちらを見上げている。
「抱き上げてほしいのでしょうか」
「フィリア様なら、分かるのでは?」
「私は狼ではありません」
「地竜の気持ちは分かるのに?」
「地竜の動きが読めるだけです」
「では、この子の動きは?」
子狼が、きゅう、と鳴く。
後ろ脚で立ち上がろうとして、包帯を巻いた前脚を浮かせた。
「無理をしてはいけません」
私は両脇へ手を入れ、そっと抱き上げた。
驚くほど軽い。
胸元へ収めると、子狼は私の外套へ鼻を埋めた。
「大人しくなりましたね」
ルクスが言う。
「温かいからでしょう」
「倉庫も温かいです」
「私の外套の方が柔らかいのです」
「そうでしょうか」
ルクスが、私の袖へ触れた。
指先で布地を確かめる。
「何をしているの?」
「柔らかさを確認しています」
「子狼と比べないでください」
「フィリア様の外套が羨ましいわけではありません」
「まだ何も申し上げていませんわ」
彼は少し黙った。
子狼が私の胸元で顔を上げる。
青灰色の瞳がルクスへ向いた。
「ルクスも、触ってみますか」
「よいのですか」
「この子が嫌がらなければ」
彼は手袋を外し、手の甲を子狼の鼻先へ近づけた。
子狼は匂いを嗅ぐ。
少し考えるように首を傾げた後、ルクスの指を舐めた。
「受け入れられたようですね」
「はい」
ルクスの顔が、明らかに嬉しそうになった。
「撫でても?」
「ゆっくりと」
「フィリア様が許可を出すのですか」
「今、この子を抱いていますから」
ルクスが子狼の頭を撫でる。
小さな耳が一度伏せられ、また立った。
「柔らかいですね」
「ええ」
「フィリア様の髪も、同じくらいでしょうか」
私の手が止まる。
「なぜ、そこで私の髪が出てくるの?」
「色が似ているので」
「色が似ていれば、手触りも同じなのですか」
「確かめたことがありませんから」
ルクスは言ってから、自分の言葉に気づいたらしい。
耳が赤くなる。
私の頬も熱くなった。
「……子狼を撫でていてください」
「はい」
「私の髪は、今は関係ありません」
「今は?」
「そういう意味ではありません」
少し離れた場所で、職人が金属棒を箱へ当てていた。
倉庫番は温度の記録をつけている。
二人とも、こちらへ背を向けたままだった。
聞こえていないふりをしてくれているらしい。
*
昼になっても、母狼は戻らなかった。
グランと猟師が周囲を調べたけれど、新しい足跡は見つからない。
「今夜も倉庫へ置くのですか」
私が尋ねると、猟師は首を横へ振った。
「人の見張りが出入りするたび、扉を開けることになります。子には寒い。傷が治るまでは、館の物置か厩の一角がよいでしょう」
「母狼が来た時、分からなくなりませんか」
「子の使った毛布を倉庫へ残します。匂いで気づくでしょう。見張りにも伝えておきます」
「館のどこへ?」
セバスチャンが考える。
「厨房の隣に、薪を一時的に置く小部屋がございます。今は空いております」
「火に近すぎませんか」
「壁を隔てております。床も石です。窓には格子がございます」
「では、そこを借りましょう」
決まった後、子狼を運ぶ役目が問題になった。
「籠へ入れます」
猟師が言い、毛布を敷いた大きな籠を用意した。
私は子狼を下ろそうとした。
けれど、前脚がまた私の外套へしがみつく。
「離れませんわ」
「領主様が籠を持てばよい」
グランが答える。
「中へ入れてから?」
「いえ。領主様が抱き、籠はルクスに持たせる」
「僕が籠だけを?」
ルクスが少し不満そうに聞こえた。
「予備だ。子が暴れた時に使う」
「暴れそうには見えません」
子狼は私の腕の中で、すっかり眠そうにしている。
「ルクスも抱きたいの?」
私が尋ねると、彼は一瞬黙った。
「少しだけ」
「この子を?」
「はい」
「本当に?」
「ほかに誰がいるのですか」
「いいえ」
私が子狼を差し出すと、ルクスは慣れない手つきで受け取った。
「首とお尻を支えてください」
「こうですか」
「もう少し体を寄せて」
私は子狼の位置を直すため、ルクスの腕へ手を添えた。
彼の胸元へ、白い毛の塊が収まる。
子狼は少しだけ身じろぎした。
ルクスの顔を見上げ、鼻先を顎へ近づける。
次の瞬間。
ぺろり、と顎を舐めた。
ルクスが固まる。
「舐められましたね」
「はい」
「好かれたようです」
「そうでしょうか」
「私の時は、指だけでした」
「フィリア様より僕を気に入ったということですか」
「それは困ります」
思わず答えてから、自分の言葉に気づく。
ルクスがこちらを見る。
「困るのですか」
「私に先に懐いたのですから」
「はい」
「それに、この子は私の外套で眠りました」
「そうですね」
「ですから、私の方が少しだけ好かれています」
「競うところでしょうか」
「ルクスが先に仰ったのでしょう」
子狼は私たちを交互に見た。
それから、ルクスの腕の中から前脚を伸ばす。
私の方へ。
「やはり、私ですわ」
「そうですね」
ルクスは残念そうにしながらも、子狼を私へ返した。
けれど、戻る前に子狼はもう一度、彼の指を舐めた。
「両方のようですね」
猟師が言った。
「二人とも、群れの者だと思われたのでしょう」
「群れ?」
「狼は、一緒にいる者をよく見ますから」
私とルクスは顔を見合わせた。
群れ。
家族とは少し違う。
けれど、離れずに暮らし、互いを守る者たちという意味なら、どこか似ている。
「二人で世話をする必要がありますね」
ルクスが言う。
「母狼が戻るまでです」
「はい」
「仕事もありますから、皆へ頼りましょう」
「はい」
「私たちだけで、ずっと抱いていてはいけません」
「それは、フィリア様がご自分へ言い聞かせていますか」
「ルクスにもです」
「僕は、まだ少ししか抱いていません」
「では、館までお願いしても?」
子狼をもう一度渡す。
今度は先ほどより、ルクスの腕が安定していた。
「籠は、私が持ちます」
「フィリア様が?」
「半分ずつでしょう?」
私たちは並んで倉庫を出た。
ルクスは子狼を抱き、私は空の籠を持つ。
雪の上へ、二人分の足跡が続く。
その間から、小さな白い尾が覗いていた。
*
館の小部屋には、すぐに寝床が作られた。
古い毛布。
浅い水皿。
山羊の乳を入れる器。
噛んでもよいように、皮を剥いだ木の枝も置かれる。
「何もない部屋だったのに、ずいぶん賑やかになりましたね」
ルクスが言う。
「白い子が一匹いるだけです」
「名前は?」
「つけません」
「なぜですか」
「母狼が迎えに来るかもしれません」
名前をつければ、別れがつらくなる。
そんな気持ちもあった。
「呼ぶ時に困りませんか」
「白狼の子でよいでしょう」
「少し長いです」
「では、子狼」
「ほかの子狼が来たら?」
「何匹も来る予定なの?」
「分かりません。地竜の魔石を目当てに」
「それは困ります」
倉庫が白狼の子でいっぱいになる場面を想像した。
少しだけ見てみたいと思ったけれど、倉庫番は困るだろう。
「白いので、シロでは?」
料理人が乳の器を置きながら言った。
「シロ」
呼んでみる。
毛布の上にいた子狼が、顔を上げた。
きゅう。
「返事をしました」
ルクスが言う。
「偶然です」
「シロ」
彼が呼ぶ。
子狼は立ち上がり、三本の脚でゆっくりと近づいてきた。
ルクスの靴を嗅いだ後、私の足元へ座る。
「やはり、私の方へ来ましたわ」
「呼んだのは僕です」
「では、二人に返事をしたのですね」
「公平ですね」
「ええ」
名前をつけないつもりだった。
けれど、シロと呼ばれた子狼は、もう一度小さく鳴いた。
「仮の名前です」
私は言った。
「母狼が迎えに来るまで」
「はい」
「別れられなくなるような呼び方は、しません」
「シロは、十分に可愛い呼び方だと思います」
「……そうですわね」
困ったことに、もう少しだけ別れがつらくなっていた。
*
午後、私は執務室で魔石の契約書を確認した。
ルクスは向かいの席で、朝の温度記録を整理している。
シロの世話は、料理人と猟師が引き受けてくれた。
私たちがいなくても、きちんと休んでいるはずだ。
そう分かっているのに、扉の外で音がするたび、気になってしまう。
「フィリア様」
「何かしら」
「今、同じ条項を四度読んでいます」
「三度です」
「四度です」
「ルクスも、先ほどから数字を一つも書いていません」
彼の筆先は、帳面の同じ場所で止まっている。
「僕は計算していました」
「何を?」
「シロが次に乳を飲む時刻を」
「それは料理人が覚えてくださっています」
「分かっています」
二人で黙る。
「一度だけ、見に行きますか」
私が尋ねる。
「休憩として?」
「ええ」
「二人とも休ませる会ですか」
「今日は、シロも休ませる会です」
「会員が増えましたね」
「怪我をしていますから」
「会長は?」
「料理人です」
「強そうです」
「グランも認めていました」
私たちは書類を閉じ、小部屋へ向かった。
扉を開ける。
シロは毛布の上で、丸くなって眠っていた。
小さな腹が、静かに上下している。
「寝ていますね」
ルクスが囁く。
「起こさないようにしましょう」
「はい」
私たちは扉のそばへ並んで座った。
何もする必要はない。
撫でる必要も。
乳を与える必要も。
ただ、眠っている姿を見る。
「フィリア様」
「何かしら」
「僕たちも、少し休みませんか」
「ここで?」
「静かですから」
壁へ背を預ける。
ルクスも隣へ座り直した。
肩が僅かに触れる。
以前なら、離れるべきか迷ったかもしれない。
けれど今は、そのままにした。
「眠ってもよいですよ」
私が言う。
「フィリア様も」
「私は、シロを見ています」
「僕も見ています」
「では、どちらも眠れません」
「半分ずつ眠りますか」
「どのように?」
「先にフィリア様が」
「ルクスが先です。昨日も遅くまでお茶を運んでくださったでしょう」
「フィリア様が執務室に残っていたからです」
「それでも」
譲り合っているうちに、シロが目を覚ました。
ゆっくりと顔を上げる。
私たちを見つけると、毛布から出てきた。
まだ前脚を浮かせながら、少しずつ近づく。
「歩いてはいけません」
私は手を伸ばした。
シロは私の膝へ前脚をかける。
抱き上げると、今度は私とルクスの間へ体を押し込んだ。
白い頭が、二人の腕へ触れる。
「ここで眠るつもりでしょうか」
「そのようです」
ルクスが毛布を持ってきて、シロごと私たちの膝へ掛けた。
「フィリア様も眠ってよいですよ」
「シロが落ちます」
「僕が支えます」
「ルクスが眠ったら?」
「フィリア様が支えてください」
「結局、半分ずつですね」
「はい」
私は目を閉じなかった。
けれど、仕事へ戻ろうともしなかった。
シロの温かさ。
隣にいるルクスの肩。
厨房から聞こえる、食器を片づける音。
窓の外で静かに降る雪。
何かを成し遂げるためではない時間が、ゆっくりと流れていく。
「ルクス」
「はい」
「この子の母親が来たら、返しましょう」
「はい」
「寂しくても」
「はい」
「でも、それまでは」
私はシロの背をそっと撫でた。
「安心して眠れる場所にしてあげたいです」
「そうしましょう」
ルクスの手も、白い背へ重なる。
シロは二人の手の下で、小さく息を吐いた。
きっと、私たちが完璧だから懐いたのではない。
地竜を倒したからでも。
帳簿が読めるからでもない。
ただ、寒い時にそばにいて、痛い時に手を差し出したから。
人の居場所も、そうやって生まれるのかもしれない。
役に立つからではなく。
一緒にいたいと思い、ここにいてよいと伝え合うことで。
私たちの膝の上で、白狼の赤ちゃんは、もう一度安心したように眠り始めた。
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