第2話 『少しはドキドキしてくれたかな』
昨日の夜から、どうにも一ノ瀬さんのことが気になる。
授業中、俺はちらりと隣を見る。一ノ瀬さんはいつも通り、真面目な顔で黒板を見ていた。
明るい茶色の髪が胸元まで伸びている。柔らかく波打った髪の一部を、耳の横で細く編み込んでいた。
こうして改めて見ると、やっぱりめちゃくちゃ可愛い。
いや、知ってたけど。
休み時間になると、一ノ瀬さんの周りには自然と人が集まる。女子はもちろん、男子からも普通に声をかけられている。
そのたびに笑顔で応じる一ノ瀬さんを見ていると、昨日の夜に浮かんだ考えが、急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
――もしかして、俺?
いやいや。ないだろ。
あれだけモテる一ノ瀬さんが、まともに話したこともない俺を好きになる理由がない。
隣の席。ただそれだけだ。
俺は教科書に目を戻した。
そのとき、一ノ瀬さんの机から消しゴムが落ちた。ころころと床を転がり、俺の足元で止まる。
俺はそれを拾った。
「はい」
「あ、ありがとう」
差し出した消しゴムを一ノ瀬さんが受け取る。その瞬間、指先が触れた。
ほんの一瞬だった。
一ノ瀬さんは何事もなかったように前を向く。
俺も前を向いた。
なのに、心臓がやけにうるさい。
「……なんで俺がドキドキしてるんだよ」
◇
放課後、校門を出てしばらく歩いたところで、いきなり背中を叩かれた。
「よっ」
「痛いな」
振り返ると、日奈がいた。
「なに一ノ瀬さんのことチラチラ見てんの?」
「見てないよ」
「見てたじゃん」
「……ちょっとだけ」
「やっぱり見てた」
日奈は俺の横に並んだ。
「やめときなよ。一ノ瀬さんなんて」
「なんでだよ」
「だって、あんたじゃ無理でしょ」
「容赦ないな」
「平凡なあんたなんて、ちょっと声が良くて歌が上手いくらいしか取り柄がないじゃない」
「……だよなあ」
「え?」
「やっぱそうだよなあ」
日奈が少し困った顔をする。
「いや、そこまで素直に落ち込まなくても」
「別に落ち込んでないよ」
「落ち込んでるじゃん」
少し歩いたところで、日奈が俺の顔を覗き込んだ。
「じゃ、カラオケ行こ」
「今日?」
「今日」
いつもなら断る理由もない。
だけど今日は、昨日の続きが気になっていた。一ノ瀬さんは、またAIに何か相談しているかもしれない。
「悪い。今日は帰る」
「えー」
「また今度な」
「なんか、付き合い悪くない?」
「そうか?」
「そうだよ」
「じゃあな」
「あ、ちょっと!」
俺は片手を上げ、そのまま家へ向かった。
少し離れたところで、日奈の声が聞こえた。
「……ばーか」
◇
家に帰ると、制服のままベッドに座り、スマホを取り出した。
ChatGPTを開く。
あった。
昨日のスレッドを開く。新しい文章が増えていた。
『チャッピー、聞いて。今日ね、彼が落とし物を拾ってくれたの』
「……え?」
今日、落とし物を拾った。俺の頭に、昼間の消しゴムが浮かぶ。
『渡してくれたとき、ちょっとだけ手が触れちゃって』
俺はスマホを持ったまま固まった。
『もうドキドキして、心臓止まるかと思った』
「……俺じゃん」
思わず声が出た。
いや、待て。落とし物を拾った。手が触れた。完全に一致している。
ChatGPTのスレッドを切り替え、AIに尋ねる。
「これ、俺のことだと思う?」
『その可能性はあります』
「やっぱり?」
『ただし、断定はできません』
「どっちだよ」
『どちらとも言えません』
「役に立たないな」
『情報が不足しています』
「俺のせい?」
『はい』
「そこは即答なんだな」
俺はもう一度、一ノ瀬さんの文章を見る。
いや、まだ決まったわけじゃない。
そもそも、消しゴムとは書いていない。今日は移動教室もあった。そのとき別の何かを拾ってもらったのかもしれない。
そうだ。それなら話は合う。
ピコン。
俺が自分を納得させていると、新しい文章が表示された。
スレッドを切り替える。
『アルトくんも、少しはドキドキしてくれたかな』
「……アルト?」
誰だ、それ。
俺は中西有人だ。アルトなんて名前じゃない。
しばらく画面を見つめる。
「……やっぱ俺じゃないのか」




