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上等な短剣

 

 蒼い熊が、低く唸った。鎖が石床を擦る音が、静まり返った闘技場に長く尾を引く。

 レインは舞台の中央に立ったまま、その巨体を見上げていた。


 前に見た時より、近い。近いからこそ、その大きさがよく分かる。四肢は太く、前脚だけでも人間の胴ほどある。

 蒼い毛並みの下では、呼吸に合わせて分厚い筋肉が盛り上がっていた。


 隣ではニコが完全に固まっている。

 無理もない。檻越しに眺める魔獣と、自分へ牙を向ける魔獣とでは、同じ姿であったとしても、まるで別物のように脅威として映る。


 レインは正面の正装の男を見た。

「ずいぶんな歓迎みたいだな」


 男は涼しい顔を崩さなかった。

「客人をおもてなしするのが、私共の役目ですので」


 その言葉を合図にしたように、上から拍手が聞こえた。

 乾いた音だった。三度音が鳴った後、レインがゆっくりと顔を上げる。闘技場の上部、観客席の中でも、ひときわ見晴らしのよい場所に男女が立っていた。


 数日前、王都で見た富豪の夫婦。男は上等な上着を纏い、その横で女は扇を口元へ添えている。二人とも、楽しそうな笑みを浮かべていた。

 その表情だけで、レインの中にあった嫌な予感が形を持った。


「本当に、来たな!ハニー」

 男が声を弾ませた。


「本当に、待った甲斐があったわね!ダーリン」

 女も身を乗り出す。


「随分若いじゃない。もっと厳つい盗賊が来るものだと思っていたわ」


 レインは答えなかった。

 正装の男が熊の首から伸びる鎖を、手から放した。重たい鎖が床へ落ちた直後、鞭が鳴った。熊の背へ叩きつけられる。


「——ッ!」

 熊が咆哮した。

 それは怒りというより、痛みに耐えかねた声に聞こえた。次の瞬間、巨体が走った。


「ニコ!」

 レインの声が飛ぶ。

 それを合図に二人は左右へ分かれた。


 熊がその間を突き抜ける。

 止まれず、そのまま闘技場の段差へ激突した。石が砕け、鈍い破壊音が響く。衝撃で床が震える。

 ニコの顔から血の気が引くのが分かった。


 熊はゆっくりと身体を起こした。頭を振り、顔をレインの方へ向ける。

 さっき声を出したせいだろう。——今しっかりと、熊と視線が合った。


「……まあ、そうなるよな」

 レインは小さく息を吐く。熊が再び駆けだした。


 ◇


 追いつけないほど速い。——というほどでもなかった。

 少なくとも、直線的な動きだけなら。巨体ゆえに加速には時間がかかる。方向を変えるにも一拍遅い。

 レインは正面から熊を迎えず、半歩ずつ軸を外した。

 熊の突進を避ける、前脚が振られる、爪が頭上を通り過ぎる、石床が削られる。熊の力は圧倒的だった。だが、当たらなければ意味はない。


 レインは距離を測った。深く踏み込まず、逃げすぎない。相手の攻撃を誘い、避ける。


 熊は苛立ったように吠えた。そして、背中の毛並みが逆立つ。

 レインの左目が細くなる。熊の皮膚の下から、何かが盛り上がってくる。


 鋭い赤い棘が、蒼い被毛の間から次々と伸びた。前に洞窟で見たときに生えていたものだ。棘の先端が淡く光る。——嫌な感じがした。


 レインは床を蹴る。次の瞬間、空気が弾けた。一本の赤い棘が飛んでくる。それも、生えた方向へ真っ直ぐ飛ぶわけではなかった。

 発射される直前、それぞれの棘が、わずかに角度を変える。レインのいる方向へ向かう。


「っ……!」


 横へ跳んだ。棘が床へ突き刺さる。石片が弾けた。一本、二本、三本と続けざまに飛ぶ。矢どころではない速さだ。


 見てから避けるのでは、遅い。レインは棘が光りかける気配を捉え、光り切る前に動く。

 それでも一本が外套の端を裂いた。背後で、硬い音が次々と重なる。数秒後、熊の背から棘が消えた。


 ようやく打ち止めか。そう思ったのも束の間だった。また赤い先端が皮膚の下から伸び始めた。


「……冗談だろ」


 何度でも生えるらしい。レインは短く深い呼吸をした。長くは躱し続けられないだろう。

 熊の身体の動きそのものは鈍い。それなら、離れ続けるより、接近した方が、まだマシかもしれない。


 もっとも、倒す必要はない。——ここでこいつを倒すことが、今の目的ではない。

 レインは視線だけを横へ流した。ニコが壁際にいる。逃げ道はある。階段を上がった先の扉だ。


 だが、鞭を持つ正装の男も近くにいる。上には富豪たち。こちらが何を狙っているか知られれば、妨害してくるだろう。


 レインは熊の突進を避け、石段へ手をつき体勢を立て直した。


「ニコ!」

 ニコが顔を上げた。


「この部屋から出ろ!」


「——っ、置いていくなんて、できないよ!」


 そう言うと思った——。

 レインは熊から目を離さず、ほんの一瞬だけ、出口へ視線を送った。そして叫ぶ。


「二人だ!」


 ニコが息を呑んだ。二人……レインが送った視線の先……シオンとバルドのことだ。

 まだ上にいる、無事のはずだ。助けを呼べ、ここに残るな。——レインはそう言っている。


 しかし、上から女の笑い声が降ってきた。

「あら? 一緒に来たあの二人なら、もう駄目なんじゃない?」


 扇の陰で、富豪の女が笑っている。ニコの動きが止まる。


「腕の立つ護衛も残してあるもの。あの子たち、今頃どうなってるかしらね」


「ニコ!」

 レインの声が強くなる。


「そいつの言葉に耳を貸すな!」


 ニコがレインを見る。

「行け!」


 一拍の間を置き、ニコは頷いた。そして、出口の方へ駆け上がった。鞭を持った正装の男の表情が初めて変わる。


「行かせませんよ」

 男が動く。ニコの進路へ回り込もうとする。

 レインは腰へ手を伸ばした。いままでに何度も握った古い柄の感触。


 ひと思いに投げた。刃が闘技場を横切った。短剣は男の身体ではなく、長いコートの裾を貫き、そのまま硬い床へ射止めた。


「な——」


 正装の男の身体が前へつんのめり、派手に転ぶ。ニコは振り返らず、扉へ飛び込みそのまま姿を消した。

 レインはそれを見届ける。無意識に入っていた肩の力が、ほんの僅かに抜けるのを感じた。


 直後、熊の棘が光った。


「っと」

 レインは再び駆け出した。今は、一人で充分だった。


 ◇


 その頃、シオンとバルドは、最初の階層を調べ終えていた。

 人影はない。使われている部屋はいくつかあったものの、そこに残っていたのは書類や器具、家具ばかりで、レインたちの姿はなかった。廊下の先で階段が二つに分かれていた。


「ここに人の気配はなかった」


 バルドが棍棒を肩に担ぎ直す。


「じゃあ外れか?」

「まだ上と下がある」

 シオンは階段を見る。


「手分けした方が早い」

「分かった」


 そう答えたところで、バルドが眉を寄せた。


「……おい、それ何だ」


 シオンが視線を落とす。右手には、一振りの短剣が握られていた。

 細かな金属装飾が施されている上質な革の鞘に収まっている。安物でないことは、バルドにも一目で分かった。


「いつの間に取ったんだよ」

「さっき。部屋に飾ってあった。高く売れると思ってな」

 シオンは何でもないことのように言う。


 バルドが深いため息を吐いた。

「お前な……今、仲間探してるんだぞ」

「そうだな。俺も探してる」

「じゃあ盗むなよ」

「事のついでだ」

「ついでで盗むな」


 シオンは答えなかった。

 短剣を腰へ差す。鞘だけでも高値がつきそうなほど、妙に出来が良かった。

 何より、持った時の重さが妙だった。軽すぎず、重すぎない。


 まるで最初から、手の中へ収まる形を知っていたような感触。今までに経験したことのない不思議な感覚だった。

 ——だが、今はそれをゆっくり確かめている場合ではない。


「で、どっちがいい? 上か下か」

 シオンが階段を見た。バルドは少し考えた。


「……じゃあ、なんとなく、上だな」

 シオンが僅かに眉を上げる。


「なんだよ、文句でもあるのか」

「……別にないが」


 シオンは下へ続く階段へ目を向けた。

「では、俺が下だな」


 二人は分かれる。


 シオンが下へ数段降りたところでバルドは口を開いた。

「シオン」


 振り返る。バルドがこちらを見ていた。

「気をつけろよ」


 シオンは一瞬だけ黙った。

「お前もな」


 それだけ言って、二人はそれぞれの階段へ消えた。


 ◇


 下へ降りると石造りの階段がまだ続いていた。シオンは歩調を速めた。壁際の蝋燭が、足元に細長い影を落とす。


 足音が聞こえてきた。シオンが止まる。向こうから、誰かが走ってくる。一人だ。軽くて速い。

 敵か。シオンは腰を落とした。手が武器へ伸びる。曲がり角のところまで足音が近づくと、影が飛び出した。


「——!」

 攻撃しかけて、止めた。


「ニコ?」


 ニコもシオンに気づいた。立ち止まり、肩で息をしている。顔色は悪く目元は赤い。泣く寸前だったのだろう。——いや、半分はもう泣いているようだった。


「シオン……」

 声が震えた。


「レインが……!」


 シオンの表情が変わった。

「ニコ、落ち着いて話せ」


「下……闘技場みたいなところで、大きい熊と……レイン一人で……!」


 最後まで聞く必要はなかった。シオンは階段の先を見る。

「わかった。行こう」


 ニコが大きく頷き、二人は走り出した。

 シオンの腰元で、先ほど持ち出した短剣の鞘が、足音に合わせて小さく揺れていた。


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