月の下で
熊の前脚が、唸りを上げて空を切った。レインはその懐へ潜り込み、振り抜かれた腕の下を抜ける。爪の先が外套を掠めた。
レインは振り返る。熊もまた、巨体を捻ってこちらへ向き直ろうとしていた。
やはり遅い。離れて棘を撃たせるより、ずっとましだった。身体そのものの動きは重い。大きすぎる体は、それだけで武器になる反面、細かな方向転換には向いていない。
レインは熊の周囲を回る。
踏み込ませ、避ける。爪を振らせるが、また避ける。そして、熊は苛立ったように吠える。この繰り返しだった。
怒りで満ちた重く鋭い声が、円形の闘技場へ幾重にも反響した。
上の特等席から、舌打ちが聞こえた。
「なによ、腹立たしいわね!」
富豪の女が身を乗り出していた。扇を握る指に力が入っている。
「さっきから、逃げ回ってばかり!」
レインは聞こえないふりをした。
熊の爪を避ける。斬撃が当たった石床が抉れた。まともに受ければ、骨の二、三本では済まない。だが、今の調子であれば当たらない。
「もういいわ」
女の声が変わった。
先ほどまでの苛立ちに、ぞっとするほど無邪気な色が混じる。
「こうなったら、あの手段を使うわよ」
正装の男の表情が変わった。
「それはいけません!」
初めて、正装の男の声音から余裕が消えた。
「まだ安定しておりません。これ以上の負荷を掛ければ――」
「うるさいわね」
女が指を鳴らし乾いた音がひとつ聞こえた。
その瞬間、熊の身体に、青白い光が走った。
レインの足が止まる。蒼い被毛の下から、幾何学模様が浮かび上がっていく。
魔法陣だった。一つ、二つ、三つの文様が互いに絡み合うように全身へ広がる。
熊が身体を震わせた。低く呻くと口から白い蒸気が漏れた。
皮膚の下で筋肉が不自然に脈打つ。瞳はさらに赤く濁り、焦点が定まらない。
「……おい」
レインの声が低くなる。
熊が頭を抱えるように前脚を上げた。苦しそうに唸っている。身体の奥から、何かを無理やり引きずり出されているような声だった。
そして、ゆらりと立ち上がりレインに身体を向ける。また、目が合った。
次の瞬間、何かが来たと思った。目では追えなかった。肌を叩く空気の圧だけが、ほんの僅かに先に届いた。
レインは反射的に身体を逸らした。直後、肩口が裂けた。
「っ!」
熱いものが走り、遅れて痛みが来た。
外套が切れ、その下から血が滲む。さらに背後の観客席の石壁へ、深い亀裂が刻まれた。レインは息を呑んだ。
熊を見ると、前脚を振り抜いた姿勢だった。爪は届いていないはず。距離はあったが、どういうわけか斬られていた。
「……斬撃を、飛ばしてんのか」
爪の一振りが、空気そのものを刃に変えている。
熊が吠えた。また苦痛を訴えるような声だった。
◇
「素晴らしい!」
富豪の男が立ち上がった。両腕を広げ、子供のように歓喜する。
「やはり間違っていなかった! さすが私たちの最高傑作だ!」
レインは肩口を押さえながら、男を見上げた。
「……最高傑作?」
富豪の男が笑う。
「そうとも!」
止める者はいなかった。
隣の女も同じ顔をしている。正装の男だけが、僅かに顔を伏せていた。
「各地から希少な魔獣を集めたんだ。強い個体を選び、その性質を調べ、魔術を施し——何度も何度も改良したのだよ!」
声は弾んでいて、自慢話のようだった。
「生まれ持った能力だけでは足りない。ならば足せばいい。弱点があるなら消せばいい! そうして最強の魔獣を作る!」
「……」
レインは熊へ目を戻した。熊は頭を振っている。地面へ爪を立てている。苦しみから逃れようとしているようにも見えた。
だが、身体に刻まれた魔法陣は消えない。呼吸するたび、白い蒸気が漏れていた。
「どうだい?」
富豪の男は笑う。
「美しいだろう?」
レインの表情から温度が消えた。
熊がまた腕を振り、空気が震えるのを感じる。レインは横へ跳んだ。斬撃が足元を掠め、石床が裂けた。
熊が止まり、すぐには次が来ない。呼吸をする、身体を捻る、前脚を持ち上げるという、一連の溜めの時間がある。それに斬撃が届く距離にも限界があるはずだ。
レインはさらに後ろへ下がった。熊が腕を振り、衝撃波を飛ばすが届かない。
「……そこか」
距離を測る。熊が動くたび、少しずつ位置を変える。今は時間を稼ぐ、それだけでいい。
「無駄だよ」
富豪の男が静かに言った。
さっきより速く、熊が腕を振った。レインは身体を反らすが、斬撃が頬を掠める。細い血の筋が浮いた。
男が満足そうに笑った。
「慣れていくんだよ。戦えば戦うほどね」
熊が咆哮する。また、苦しそうだった。レインは滴る頬の血を手の甲で拭った。
「……ほんと、救えねえよ」
低い声で、そう言った。
男が眉を寄せた。
「ん?」
女が扇を閉じる。
「何なの、あなた――」
言葉が途切れると、女の首筋に、小さな針が刺さっていた。
「え……?」
もう一本、男の首にも刺さっている。
二人の身体が揺れる。膝が折れた。ほとんど同時に、特等席へ崩れ落ちる。
「な――」
正装の男が振り返ると、観客席の陰から、二人の姿が現れた。
レインが声を上げる。
「シオン!」
その隣にはニコ。息を切らしながらも、しっかり立っている。
「間に合った……」
ニコが小さく呟いた。
シオンは返事をせず、腰から一振りの短剣を抜いた。
「レイン!」
投げられた短剣が宙を回った。レインが手を伸ばし掴む。
見覚えのない武器だった。鞘からして上等。細かな装飾と滑らかな革だった。
熊が吠えた。この短剣が一体何なのかを聞いている時間はない。
レインは鞘へ手を掛けた。
引き抜くと、刃が夜気へ晒された。湾曲した刀身とそこに映るのは暗い銀色。月の鎌を思わせる、流れるような形。
雲の切れ間から月光が落ちていた。白い光が刀身を撫でる。刃に刻まれていた細かな紋様が淡く浮かび上がったように見えた。
それを遠くから見たシオンの目が僅かに見開かれる。
「……これは」
——熊の身体の魔法陣が明滅している。限界が近いらしい。
それは、魔術に詳しくないレインにも分かった。
息は乱れ、口から漏れる蒸気は濃くなっている。脚も震えていた。
それでも、熊の身体は止まらない。止めてもらえない。
熊が吠え、前脚を振り上げる。レインは正面へ踏み込んだ。
熊が腕を振る、その動きより先に懐へ。衝撃波は背後へ抜けた。
レインは鋭く床を蹴り、さらに一歩踏み込んだ。
「……ごめんな」
湾曲した刃を喉元へ突き立て、引き寄せた。肉を裂く感触が伝わってくる。刃は驚くほど深く入った。
縦に開いた線から血が噴き出した。レインの顔と上半身の前面を濡らす。
温かさと鮮やかな赤を感じた。
レインは刃を抜き取った。熊の巨体が揺れ、一歩、二歩と後ろへ下がる。
瞳から、狂気のような赤が、少しずつ薄れていった。そのまま後ろへ倒れ、地響きが鳴った。
闘技場に、静けさが戻った。レインは血に濡れた短剣を握ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、レインは息を吐いた。
「——終わった、か」
その瞬間、身体から力が抜けた。
◇
「レイン!」
ニコが駆け寄り、シオンが階段を飛び降りる。
「二人とも」
足元の感覚が覚束ないまま、レインは二人を見る。
顔だけはいつものように、少し笑った。
「後は……頼んだ……」
そして、そのまま二人の方向に倒れた。
「レイン!」
ニコの声が裏返る。肩へ手を置く。たくさんの血。服まで赤い。
「シ、シオン! 血が……!」
「落ち着け、ニコ」
シオンがすぐに膝をついた。レインの身体の向きを変え、首筋へ指を当てる。
呼吸、胸の上下、傷。一つずつ確認する。
「呼吸はある」
「でも!」
「致命傷はない」
「本当に?」
「ああ」
シオンは脈を取る。
「少し速いが、正常の範囲内だ」
ニコの肩から僅かに力が抜ける。
「……助かる?」
「落ち着いて処置すればな」
ほどなくして、上からやや重たい足音が聞こえてきた。
「おーい!」
バルドが階段を下りてくる。血まみれで倒れているレインが目に入る。
「……なんだ。また無茶したのか、こいつ」
シオンが短く答える。
「いつものことだ」
バルドは一拍置いた。
「まあな」
少しだけ笑った。
◇
富豪二人と正装の男は縄で縛った。
残されていた書類、施設、魔獣たちも、すべてそのままにした。
帰り道、レインは意識を失ったままだった。
バルドが背負おうとしたものの、傷へ触れることを嫌って、結局は肩に抱える形になった。
「重くなったな、こいつ」
「昔よりはな」
「昔はもっと軽かった」
「お前もだろ」
「俺は成長したんだよ」
「レインも同じだ」
「こいつの場合、もう少し横に成長してもいいだろ」
そのやり取りを聞きながら、ニコは何度もレインの横顔を確かめていた。
眠っているだけ、そう分かっていても、少し安心した。
◇
次の日、あの取引屋へ話を持ち込んだ。帳簿、施設、拘束した富豪たち。
そして、その裏に繋がる数々の取引。
男はいつもの細い目を、ほんの僅かに開いた。
「……随分な大物だったみたいだね」
それだけ言った。
その後、どこへ、どの情報を売ったのか。富豪たちがどう処理されたのか。レインたちには詳しく知らされなかった。
知る必要もなかった。ただ、報酬は十分だった。取引屋の取り分を差し引いても、灰冠街が寒冷期を越すために必要な食料を揃えられる。
少なくとも今年は、飢えだけを恐れて冬を待つ必要はなくなった。
◇
マルタの診療所の窓から昼の光が差し込んでいる。
寝台の上で、レインは上半身を起こしていた。肩や胴には包帯、頬には細い傷。それでも、顔色は決して悪くない。
「これでしばらく、ゆっくり過ごせそうだな」
「お前が本当にゆっくりするならな」
椅子に座るシオンが答える。
「するって」
「信用できない」
「ひどいな」
レインは笑った。
その傍らに二本の短剣が置かれている。長年使ってきた短剣とあの施設から持ち出した、湾曲した短剣。
レインは新しい方の短剣を手に取った。
「これ、本当に俺が持ってていいのか?」
「ああ」
シオンの返事は迷わなかった。
「お前が一番相応しいと思う」
「高く売れると思って持ってきたんじゃなかったっけ」
「気が変わった」
「へえ」
レインは湾曲した刃の鞘を撫でた。それから、古い短剣を見る。
「……まあ、ちょうどよかったか」
ガルドの短剣を持ち上げる。
刃は何度も研がれているが、それではもはや補えないほどの細かな欠けや小さな歪みが生じている。今回、石床へ投げつけたことで、新しい傷まで増えていた。
「もう限界っぽい」
シオンも短剣を見る。
「随分使ったな」
「まあな」
レインは柄を握り、使い慣れた感触を確かめる。これまで、何度もこの刃に助けられた。
「ちょっと雑に使いすぎたかも」
「それはたぶん、ちょっとじゃない」
「そう?」
レインは笑い、古い短剣を鞘へ戻した。捨てる気はないが、もう戦わせるつもりもなかった。
◇
夜、診療所は静かだった。レインはすでに眠っている。
枕元では、規則正しい寝息が聞こえる。傍らの椅子には、新しい短剣が置かれていた。
すぐ傍でシオンが一冊の古い絵本を抱えている。表紙は擦れ、角は丸くなっている。子供が何度も開いた本特有の、柔らかな傷み方だった。
シオンは椅子へ腰を下ろした。短剣を取り、鞘から抜く。窓から差し込む月光が、湾曲した刀身へ落ちた。
光に照らされ紋様が浮かぶ。いや、光の加減ではない。やはり、淡く発光しているように見える。
「……似てるな」
シオンは絵本へ目を落とし、表紙を見る。
題名の周囲を囲う、古い装飾模様。刀身に刻まれたものと、よく似ている。
完全に同じなのか、それとも偶然なのか。シオンにも分からない。そして、見慣れた題名に再び視線を落とす。
——『月の下で誓った勇者』
子供向けの、どこにでもある英雄譚だった。勇者が旅をし、仲間を得て、悪しき王を倒す。
物語に出てくる武器は、短剣ではなく一本の剣だ。そしてその剣は、月の光を受けることで、不思議な力を発揮した。
「……まさかな」
シオンは短剣を鞘へ戻した、その時。寝台から声がした。
「う……うーん……」
シオンが振り返る。レインは眠ったまま眉を寄せていた。
「熊は……もういいよ……」
「……」
「ミーナ……熊鍋は……。もう……、飽きた……から」
シオンはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「どんな夢見てるんだ」
窓の外の月は静かに夜を照らしている。椅子の上では、まだ名も知られぬ湾曲した短剣が、鞘の中でひっそりと眠っていた。




