遭遇
夜の森は、昼間とはまるで別の場所だった。
頭上では枝葉が幾重にも重なり、月明かりを細く切り分けている。足元には湿った土と枯葉が積もり、四人が歩くたび、わずかな音を立てた。
レインは先頭を歩きながら、何度か足を緩めた。静かすぎる。
前にここへ来た時は、森へ入って間もなく狼型の魔獣に襲われた。それも一頭や二頭ではない。進む先から、次々と現れた。
それが今夜は、一度もない。茂みの奥から獣の息遣いすら聞こえなかった。
レインは左目を細める。
「……前の奴、いないな」
後ろを歩いていたバルドが声を潜めた。
「いないならその分、楽でいいだろ」
「まあな」
言いながらも、レインは納得していなかった。あれだけいた魔獣が、一晩で消えるとは考えにくい。
散歩にでも出ているのか、それとも餌の時間か。はたまた別の場所へ移送されたのか。理由はいくらでも考えられる。
だが、どれもしっくりこない。答えのない違和感だけが、喉に刺さった小骨のように残っていた。
シオンも同じものを感じているのか、いつも以上に周囲へ視線を配っている。ニコは三人の様子を見比べた。
「……やっぱり、何か変なの?」
「いや、たぶん気のせい」
レインはそう答えた。あまり確信が持てない事を、口にはしない事にしている。そして、何気なく腰の短剣へ手を添えた。
ガルドが遺した古い短剣。長く使い込まれた柄の感触が、掌に馴染んでいる。少し安堵に近い感覚を覚えた。
四人はそのまま森を進んだ。
◇
やがて、岩壁に開いた洞窟が見えてきた。入口に人影はなく、この前と変わったところは見られない。
レインが先に中へ入る。湿った冷気が肌を撫でた。奥から漂ってくる獣臭。そして、微かに混じる血と糞尿の匂い。前と同じだ。
壁際に並んだ鉄格子の向こうでは、魔獣たちが身体を縮めている。相変わらず、どの個体もこちらへ襲いかかる様子はない。
視線だけを向け、じっと息を潜めている。生き物がいる場所なのに、妙に静かだった。
さらに奥へ進み、大きな熊型の魔獣が眠っていた部屋の前へたどり着く。扉へ耳を当てると音は感じなかった。
レインはゆっくりと開いた。中を覗くと広い部屋、石の床。そして——あの蒼い熊はいなかった。
「あれ、……なにもいないね」
ニコが小さな声で言った。
「どっか行ったのかな」
レインは部屋の奥を見た。さらに先へ続く扉がある。だが、あれほど大きな魔獣が消えているのに、鎖を引きずった跡も、争った形跡もない。
「誘われてる気がするな」
レインが言った。
「じゃあ、ずかずか入っていくなよ」
バルドが返す。
「それはそうなんだけど」
レインは一歩、部屋へ踏み込んだ。
「何か、落ち着かないんだよな」
「お前な……」
後ろでバルドが呆れたように息を吐く。ニコはレインについて行き、奥の部屋に入る。
シオンとバルドは部屋の入口付近に残った。二人とも、あえて中へ入らない。後方や、部屋の天井、壁の継ぎ目に視線を分ける。
レインは中央付近まで進む、その時だった。何か小さな音がした。聞き逃してしまいそうなほど、小さな金属音。
そして、足元の床が左右へ口を開けた。
「——っ!」
レインの身体が落ちる。隣にいたニコも一緒だった。
「レイン! ニコ!」
シオンの声が頭上から降ってくる。レインは咄嗟に手を伸ばした。だが掴めたのは空気だけだった。闇が二人を飲み込んだ。
◇
シオンは穴の縁へ駆け寄った。
「レイン! ニコ!」
返事はない。穴の底は暗く、どれほど深いのか見えなかった。
身を乗り出そうとした時、背後から足音が聞こえた。ゆっくりと重い。接近を隠すつもりなど、最初からないらしい。
シオンが洞窟の出口のある方向を振り返る。暗がりから、一人の男が歩いてきた。
見覚えがあった。王都の高級商店で見かけた、大柄な護衛だ。身に包んだ装備から太い腕、分厚い胸板を覗かせている。男の手には、棍棒が握られていた。
シオンは僅かに目を細めた。
「……少し、まずいか?」
「いいや。ここは任せろ」
バルドが前へ出た。肩に担いでいた鉄棍棒を下ろす。
石床に先端が触れ、鈍い音が響いた。
「力比べなら自信がある」
護衛の男が踏み込んだ。バルドも同時に前へ出る。二本の棍棒がぶつかった。洞窟の空気を震わせるような音が響いた。
どちらも退かない。護衛の棍棒は重い。だがバルドのそれも負けてはいなかった。正面から打ち合うたび、バルドの腕へ衝撃が返ってくる。
シオンは横へ回り込もうとした。——俺も、援護に入るべきだ。
その瞬間、何かが空気を裂いた。
「——」
身体を反らす。鼻先すれすれを、細い刃が通り過ぎた。シオンは距離を取った。しかし何もいない。
いや、いた。一瞬だけだが。周囲の壁が、不自然に揺らいでいるのが見えた。
「あら」
声がした。少し高い。男のものにも、女のものにも聞こえる。
「あの子じゃないのね」
空間が歪む。そこから、華奢な男が姿を現した。以前レインとバルドが気絶させたという、血のような染みがついたエプロンを身に着けた男。
「この前のお返し、したかったのに」
シオンは黙ったまま男を見る。次の瞬間、華奢な男の輪郭が消えた。
壁、床、鉄格子。周囲の色へ身体が溶け込んでいく。
シオンが僅かに重心を落とす。右か? いや違う。背後から風が鳴る。シオンは横へ跳んだ。刃が肩先を掠める。
次は左、ぎりぎりで避ける。男の姿は見えなかった。
だが、動いた瞬間だけ空間が歪む。水面を指先でなぞった時のように、輪郭が微かに揺れる。
シオンは攻撃を避けながら、目を凝らした。もう一撃と刃が迫り、身体を沈める。男の腕が頭上を通った。
その一瞬、シオンは踏み込み、拳を振った。鈍い音と手ごたえを同時に感じる。
「ブぁっ」
何もなかった場所から、華奢な男の顔が浮かび上がった。空間への擬態が崩れ、華奢な男がよろめく。
「どうして……」
鼻を押さえながら、信じられないようにシオンを見る。
「どうして分かるの!?」
シオンは華奢な男の背後にある壁を一度見た。
「全部、まる見えだから」
華奢な男の顔が引きつった。再び姿が溶ける。
だが、もう遅い。一度見つけた。
呼吸するたび、動くたびに、ほんの僅かに空間の色が崩れる。そこにいるのが手に取るように分かる。
華奢な男が踏み込んだ。シオンも踏み込む。華奢な男の顎元を目掛け、踵を鋭く突き上げた。
骨を通して衝撃が伝わる。華奢な男の身体が仰け反った。そしてそのまま、力を失って石床へ倒れた。
華奢な男の擬態が完全に解けた。そして、全身を確認した。完全に意識が途絶えているようだ。シオンは一度だけ呼吸を整える。それから、バルドの方を見た。
ちょうど護衛の男が膝をついたところだった。男の棍棒が床へ落ち、そのうち上半身も床に沈んだ。
バルドは肩で息をしながら、自分の棍棒を担ぎ直した。
「こっちは終わったぞ」
「見れば分かる」
「そっちもな」
シオンは倒れた男たちを見る。それから、先へ続く扉へ目を向けた。バルドが尋ねる。
「で、どうするよ」
シオンは穴を一度振り返った。レインとニコ。二人の声は聞こえない。暗闇が深く姿も確認できない。だが、ここで立ち止まっている理由もない。
「先へ進む」
扉へ手を掛ける。
「下に繋がる道があるかもしれない」
バルドが頷いた。二人は扉の奥へ進んだ。
◇
落ちる。どれほど落ちたのだろう。ニコには分からなかった。
身体が宙へ放り出される感覚。冷たい風。そして——全身へ衝撃が走った。
「……っ!」
息が詰まる。だが、思っていたほど痛くない。ニコはしばらく動けなかった。
身体の下にあるものが、妙に柔らかい。土ではない、布でもない。毛の感触。その下に、硬いもの。
鼻を刺すような臭いが、遅れて押し寄せてきた。腐臭、獣臭、血の臭い。
「ひどい臭い……」
声を出してみるが返事はない。辺りは真っ暗だった。
上も、下も、右も左も分からない。
あまりにも静かで、自分の呼吸だけが妙に大きく聞こえた。不意に胸の奥が冷たくなる。
「……レイン?」
声が少し震えた。
「——ああ。ここにいるよ」
近くから返事があった。その声を聞いた瞬間、身体の奥に張りついていたものが、少しだけほどけた。
「よかった……」
ニコは息を吐いた。闇の中で、レインが身を起こす気配がする。
「怪我は?」
「たぶん……してないよ」
腕、脚、腰の感覚を確認する。痛みはあるが動く。それに骨は折れてはいない。
「レインは?」
「俺も大丈夫」
しばらく二人は動かなかった。目が暗闇に慣れるのを待つ。少しずつ、本当に少しずつ、黒一色だった世界の中に、形が浮かび始める。
ニコは自分の手元を見た。そして、息を止めた。大小さまざまな骨、その隣に獣のような頭蓋。残った毛皮。半ば腐りかけた魔獣の死骸。
それらが何層にも積み重なっている。自分たちは、その上へ落ちたのだ。
「……うわわっ」
それ以上の言葉が出なかった。落下の衝撃を吸収してくれたのは、この死骸と毛皮だった。
死骸の山があったおかげで助かったという事実と、身体が無事で安心したという感情がどうしても結びつかない。
レインが立ち上がった。
「ニコ。こっち」
レインが死骸の山を歩き出す。足場はひどく不安定だった。踏むたびに骨がずれ、毛皮が滑る。ニコも後を追うが、数歩進んだところで、足元が崩れた。
「わっ」
身体が傾く。その腕を、すぐに誰かが掴む。レインだった。
「掴まってろ」
短く言う。
ニコは素直に腕へ掴まった。レインは足元の感覚を頼りにゆっくり進んでいく。暗闇の中では、その背中だけが道標のようだった。
やがて、壁が見えた。そして、そこに一枚の扉がある。レインが取っ手へ手を掛ける。
「開けるぞ」
「うん」
扉が開くと同時に光が飛び込んできた。
「っ……!」
眩しい。暗闇に慣れた目が痛む。ニコは顔を背けた。
◇
レインは目を細めた。光に慣れてから、扉の向こうを見る。そこは、洞窟ではなかった。石造りの廊下。壁には蝋燭が一定の間隔で並び、橙色の炎が静かに揺れている。
古い城か、あるいは砦。そんな場所を思わせる造りだった。
「……なんだろ、ここ」
ニコが後ろから呟く。
「さあな」
レインは廊下へ出た。
足元には、長い年月で擦り減った石床、壁には古い装飾の跡が残っている。ただし、人が長く暮らしているような場所ではない。二人は慎重に進んだ。
やがて廊下の先に、上へ続く階段が見えた。一つの大きな扉がある。ここに来るまで他に部屋はなかった。
レインは扉へ近づき、耳を当てた。残った左目を閉じる。
——風が抜けるような低い微かな響きを感じる。空間が広く、かなり広いらしい。
「この向こう、たぶん外に繋がってる」
ニコが目を瞬く。
「分かるの?」
「風の音がする」
レインは取っ手を握った。ゆっくり扉を押し、向こう側に出る。
最初に目に入ったのは、空だった。天井の一部が大きく開いていて、夜空の中に星が浮かんでいる。観客席のような段差が周囲を円状に囲み、中央を見下ろしている。
二人は、窪んだ丸い石造りの舞台の、片隅に居た。
「闘技場……?」
ニコの声が響く。レインは周囲を見渡した。かなり古い。だが、今も使われているようだった。
床に残る傷、乾いた血の跡。観客席の一部には、比較的新しい布まで置かれている。そして、舞台を挟んだ反対側に、別の扉が見えていた。
「あそこから出られそうだな」
レインが言う。
二人はゆっくりと舞台を通り過ぎようとした。その時、向こう側の扉が開いた。
夜の静けさの中で、その音だけが妙に長く響いた。上等な正装の一人の男が現れる。
——見覚えはない。だが少なくともここの関係者だろう。
その後ろから、鎖の音が聞こえる。暗闇の中から、大きな影が姿を現した。
蒼い毛と巨大な身体の熊に似た魔獣。前に洞窟の奥で見たものと同じだった。
ただし、背中に、あの赤い棘はなく、今は太い鎖が首元へ繋がれている。蒼い熊と正装の男はゆっくりと階段を下りていく。
鼻から荒い息を吐き、低い唸り声をあげる。その眼は、まっすぐレインとニコへ向けられていた。
ニコの喉が鳴った。レインは何も言わず、腰の短剣へ手を伸ばした。
夜空に浮かぶ星々だけが、平然と瞬いていた。




