帳簿が示すもの
翌日。高級商店の入口に、シオンの姿があった。昨日とは服装を変えている。行商人らしい粗末な服ではない。派手さを抑えた上着に、汚れのない靴。
裕福な家の若い使用人。そのあたりの人物に見えれば十分だった。
入口には、制服を着た従業員らしき女が立っている。シオンが近づくと、女は無言で手を差し出した。出来上がったばかりの会員証を渡す。
女は数秒、その一枚に目を落とした。シオンは顔を動かさない。心臓の鼓動まで、意識の底へ押し込める。やがて、会員証が返された。
「どうぞ」
扉が開く。店内には、外の喧騒が嘘のような静けさがあった。厚い絨毯が靴音を吸い込んでいる。展示台の上では、宝石を散りばめた首飾りや指輪が柔らかな照明を受けていた。
壁も床も、装飾のひとつひとつまで整えられている。金のある場所には、埃さえ居場所を与えられないらしい。
シオンは商品を見る客を装いながら、店内を観察した。店員の人数や視線、奥へ続く扉の位置。関係者以外の立ち入りを禁じる札が掛かっている。
シオンは急がなかった。盗みにおいて、急ぐ理由の大半は自分で作るものだ。
店員が他の客に呼ばれた。外にいる従業員の視線もこちらを向いていない。生じた短い隙にシオンは展示台から離れ、奥へ歩いた。
扉には鍵が掛かっていなかった。持ち手を引いても音はほとんどしない。扉を少し開き、身体を滑り込ませる。向こう側は細い廊下だった。
さらに進むと、棚の並んだ一室へ辿り着く。紙と革の匂いがする。帳簿や書類が、壁際を埋め尽くしている。シオンは近くにあった一冊を開いた。
『項目 宝石の仕入れ』 『決済形式 金銭』
最初は、ごく普通の商売の記録だった。だが、数冊目から内容が変わった。
『項目 飼料用穀物——100袋』 その横に、『搬出先 南部施設』
別の帳簿を開ける。シオンの指が頁の端で止まった。
『生体保管費』と『希少種買入』の項目が目に付く。レインとバルドから聞いた話と一致する。
さらに書類を探る。宝飾店だというのに、あってはならない品目が次々と出てくる。
『項目 小麦——32袋』
『項目 保存肉——14箱』
『項目 市場野菜——36箱』
数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、それを指示した人間だけだ。
シオンは頁をめくった。次に現れたものを見て、動きが止まった。人の名前、年齢。その横に、金額。まるで家畜や荷物でも記すように、整然と並べられている。
シオンの目から、わずかに温度が消えた。これは、明らかに人身売買だ。取引屋の男の情報は、噂ではなかった。
問題は、全部を持ち出せないことだった。帳簿そのものがなくなれば、すぐに気づかれる。必要な頁だけしか持ち出せない。横流しの支援物資、買い占められた作物、人身売買の履歴。
あとは短時間で選び、抜き取るだけであった。
その時、廊下を歩く足音が近づいてくる。シオンの手が止まる。人数は一人、一定の歩幅で近づいてきている。通り過ぎるような足遣いではない。ほぼ間違いなくこちらへ来る。
今しがた抜き取った紙を服の内側へ滑り込ませる。シオンは扉の陰へ身を寄せた。
足音が止まり、取っ手が動く。扉が開いた。上等な長いコートを着た男が入ってきた。男は何の疑いもなく机へ向かう。
シオンは呼吸を浅くし、一歩近づく。男が椅子へ手を伸ばす。
衣擦れひとつ立てず、もう一歩近づく。シオンは背後へ回ると、用意していた布を男の鼻と口へ押し当てた。
「——っ!」
男の肩が跳ね、腕が振り上がる。だが、その力は長く続かなかった。男の身体から力が抜ける。
シオンは倒れる身体を受け止め、床へ音を立てないよう横たえた。
呼吸を確かめ、眠っていることを確認する。どうやら問題なさそうだ。
布をしまいながら、シオンは小さく呟いた。
「……効きすぎだろ、ニコ」
返事をする者はいない。眠った男を机の陰へ移し、乱れた椅子と書類を整える。
部屋を出る前に、一度だけ振り返った。一見だと、何もなかったように見える。それが、一番大切だった。
廊下を戻る。店内へ続く扉を抜け、元の位置へ戻す。そして、何食わぬ顔で店内へ出た。
誰もシオンを見ていなかった。いや、見てはいる。だが、誰も「見るべき人間」だとは思っていない。それでいい。
出口を抜け、外の喧騒が一気に戻ってきた。シオンはそこで初めて、ゆっくり息を吐いた。
◇
その日の夕刻。灰冠街の一室に、四人が集まっていた。粗末な机の上には、数枚の帳簿が広げられている。窓から差し込む夕陽が、紙の上の文字を赤く染めていた。
「……これは、黒だな」
バルドが腕を組んだまま言った。
「真っ黒……だね」
ニコの声には、普段より元気がなかった。レインは返事をせず、帳簿へ目を通している。
飼料用穀物、南部施設への輸送。生体保管費と希少種の搬入。人身売買の履歴。
そして——灰冠街へ届くはずだった支援物資。書類の上では、いくつかの数字が途中から別の行へ流れていた。
本来こちらへ来るはずだったものが、どこかへ消えている。偶然に間違ったとしても、数が多すぎた。
「俺たちが食い物探して歩き回ってる間に、こいつらは魔獣に穀物食わせてたってことか?」
バルドが机を指で叩いた。
「全部とは断定できない」
シオンが言う。
「だが、買い集めた相当量が南の施設へ流れてる」
レインの目が、紙の一行で止まった。
数日前に見た洞窟を思い出す。檻の中の怯えていた見たこともない魔獣。奥の部屋で眠っていた、蒼い毛の巨大な熊。
あの数を生かしておくなら、当然、餌がいる。市場では、人間が食べる穀物すら足りないというのに。
レインは帳簿を机へ置いた。
「これだけでも、成果としては十分だな」
王都の取引屋へ渡せば、買う者はいる。証拠としても価値がある。今回の目的は、灰冠街が寒冷期を越えるための金と食料をどうにかすることだった。
それだけを考えるなら、ここで手を引くのが安牌だろう。
「……で、どうするんだ」
シオンがレインを見る。
「何が?」
バルドが横から笑った。
「分かりやすいよな、お前」
「……そんな顔、してたか?」
「してるよ」
ニコまで頷いた。レインは困ったように頬を掻いた。それから、少しだけ黙る。
「やっぱり、一昨日見た洞窟の奥が気になるんだよな」
巨大な熊が眠っていた部屋、そしてさらに奥にあった扉。見なかったことにして、ここで忘れてしまうには、妙に引っかかる。
「俺もだ」
バルドが言った。
「ここまで分かって、あそこだけ残すのもなんか気持ちがわりい」
「二人が行くなら……僕も行くよ」
ニコが続く。三人の視線が、最後にシオンへ集まった。シオンは黙っていた。
帳簿に視線を移し、レインを見た。続いてバルド、ニコに顔を向ける。
「証拠はもうここにある」
「分かってる」
「ここから先は、調査じゃ済まないかもしれない」
「それも、分かってる」
レインの返答は早かった。シオンはしばらく何も言わなかった。
窓の外では、夕陽が王都の城壁へ沈みかけている。赤い光が薄れれば、ほどなく夜が来る。やがてシオンは、小さく息を吐いた。
「……一度だけだ。駄目なら引き返す」
レインの口元が緩む。
「ありがとな」
「三人で勝手に行かれるよりマシなだけだ」
「さすがシオン。優しい」
「これは優しさではない」
間髪を入れず返された。バルドが鼻で笑った。ニコも、ようやく少しだけ表情を和らげる。
机の上には、盗み出した帳簿。紙に並ぶ数字は静かなものだった。けれど、その向こうには、腹を空かせた人間と、檻に閉じ込められた魔獣がいる。
数字だけでは、飢えた腹の音は聞こえない。恐怖に震える獣の息遣いも残らない。それでも、確かにそこへ繋がっている。
レインはもう一度、南の方角を見上げた。夕闇の向こう。森はすでに、黒い影の塊へ変わり始めていた。




