硝煙のアルケミストと劣等感の漂白(2)
翌日の昼休み。
俺と影山は、再び防爆扉の奥にある『特殊化学漂白室』へと足を運んでいた。
「……なぁ九久。お前、昨日から息吐くたびにアルコールランプと焦げたカラメルの匂いがするんだけど。完全に胃袋の中で化学反応起きてるだろ」
「最高の褒め言葉だよ、影山くん。天才を自称する少女の『焦燥の酸味』が、僕の体内で心地よく発酵している証拠さ」
プシューッ、という音と共に分厚い鉄扉を開けると、昨日よりもさらに酷い有様が広がっていた。
床には割れたビーカーの破片が散乱し、黒板にはチョークで殴り書きされた無数の化学式が、何度も何度も乱暴に二重線で打ち消されている。
「違う……これじゃない! 姉さん(あのひと)の論文の逆算じゃダメなの! 全く新しい、私だけの完璧なアプローチじゃなきゃ……ッ!!」
部屋の隅で、黄河陽菜が頭を抱えてうずくまっていた。
目の下には濃いクマができ、息は荒い。
徹夜で実験を繰り返したのだろう。彼女が白衣の下に着ている黒い『耐熱性のタイトインナー』は、尋常ではない量の冷や汗を吸って、肌にべったりと張り付いていた。
「こんにちは、黄河さん。随分と行き詰まっているようですね」
俺が声をかけると、陽菜はビクッと肩を震わせ、血走った目でこちらを睨みつけた。
「……またアンタたち!? 何よ、私の邪魔ばっかりして! 今、完璧なインスピレーションが降りてきそうなところなのよッ!」
「インスピレーション、ですか。ですが、そのフラスコ内の触媒、すでに劣化が始まっていますよ。……それに、黄河さん。あなたのその『焦り』が、最大の不純物になっている」
「はぁ!?」
陽菜が噛み付くように立ち上がる。
俺は静かに彼女の実験台へ近づき、フラスコを見下ろした。
「昨日の『ソース』を味わって確信しました。あなたの理論は完璧に近い。ですが、あなた自身の体から発せられる『異常な発汗』と『過呼吸による二酸化炭素の増加』が、この密室の湿度と空気バランスを微細に狂わせているんです。……天才の姉に追いつかなければという、強迫観念からくる『劣等感の汗』がね」
ピキッ、と。
陽菜の顔から、強気な傲慢さが完全に剥げ落ちた。
「……ッ、アンタに何が分かるのよッ!!」
彼女は悲鳴のような声で叫び、バンッと机を叩いた。
「姉さんはいつもそう! 息をするように完璧な答えを出す! 私がどれだけ泥水すすって努力しても、『よく頑張ったわね』って見下してくるのよ! 私は天才なの! あんな姉に同情されるような凡人じゃないのよッ!!」
彼女の叫びと共に、目から大粒の涙が溢れ出す。だが、彼女はそれを必死に腕で乱暴に拭い、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……くそッ、暑い……ッ! 息が、詰まる……!」
パニックと過呼吸、そして極度のストレスによる発熱。
陽菜は耐えきれなくなったように、上に羽織っていた焦げだらけの白衣を脱ぎ捨てると、さらにその下――汗で肌に完全に張り付いていた、黒の『耐熱性タイトインナー』の裾を掴み、一気に頭から脱ぎ捨てた。
「うおっ!? ちょっ、お前、インナー脱いだら下着姿じゃねえか!!」
影山が慌てて背を向ける。陽菜は黒のスポーツブラ一丁になりながら、ゼェゼェと肩で息をしていた。
「……もういい! 頭冷やしてくる! アンタたち、私の機材に指一本でも触れたら、爆弾で木っ端微塵にするからねッ!!」
陽菜は捨て台詞を吐き、ドロドロに汗を吸ったタイトインナーを床に叩きつけると、そのままフラフラとした足取りで実験室の奥の仮眠室へと逃げ込んでいった。
俺は、床に投げ出されたその黒いインナーを、愛おしそうに拾い上げた。
「……素晴らしい。ずっしりと重い。彼女のプライドと、それに押し潰されそうなプレッシャーが、この極小の繊維の隙間に限界まで詰まっている」
俺は、姉への強烈な劣等感がドロドロに染み込んだそのインナーを、大切に籠へと収めた。
【夜 23:00 禁断のランドリールーム】
「……回線オンだ。同接31万。お前、今回はタイトインナーかよ。しかも徹夜でプレッシャーに耐え続けたガチの冷や汗まみれ……。相変わらず変態の極みだな」
影山がタブレットを見ながら呆れ返っている。
俺は漆黒の黒仮面を装着し、カメラの前で不敵に笑った。
「親愛なる共犯者たち! 今夜の素材は、天才の姉という巨大な壁の前で、もがき苦しむ少女の……『劣等感とプレッシャーが極限まで濃縮された耐熱インナー』だ!」
俺はカメラの前に、理科室から無断拝借してきた巨大な『ロータリーエバポレーター(減圧蒸留装置)』をドンッと置いた。
「おい! なんで本格的な化学実験の機材がランドリールームにあるんだよ!」
「今夜の抽出法は『真空減圧蒸留』だ! このインナーに染み込んだ彼女の冷や汗は、非常に繊細なトラウマの成分を含んでいる。熱を加えすぎれば、その『嫉妬の苦味』が飛んでしまうからね」
俺はフラスコの中に汗だくのインナーを押し込み、真空ポンプのスイッチを入れた。
ギュイィィィン……という機械音と共に、フラスコ内の圧力が下がり、低温のままインナーに染み込んだ水分(汗)が沸騰を始める。
「見てくれたまえ! 彼女が徹夜で流した極限の冷や汗が、純粋な気体となって抽出され、冷却管を通って再び液体へと戻っていく……!」
ポタッ……ポタポタッ……。
受け器のフラスコに、透明でありながらどこか澱んだ、ひどく酸っぱい匂いを放つ『純度100%の冷や汗のエキス』が溜まっていく。
「……うわぁ。見た目は透明な水なのに、匂いがヤバい。胃液みたいな、すげえ酸っぱい匂いがツンツンくるぞ……」
影山が顔をしかめる。
数十分後。
俺は受け器のフラスコを取り外し、その底に溜まった数十ミリリットルの『劣等感の蒸留水』を、テイスティング用のワイングラスに静かに注いだ。
「さぁ……喰らおう」
俺はグラスを傾け、その澄み切った、しかし重すぎるトラウマの液体を口の中へと流し込んだ。
「ゴクッ……チリッ、ジュルルッ……!!」
【コメント欄】
抽出ジャンキー: 飲んだあああああ!! インナーの減圧蒸留エキス!!
靴下煮出し中: 化学機材で女の子の汗を抽出する変態錬金術師ww
ママンバレ生存者: 透明なのに劇薬飲んだみたいな顔してるぞ!!
出汁の探求者: 神の舌がピクピク痙攣してる……!
全裸待機: うぉおおおお!!!純粋なコンプレックスの味!!
「……ッ!! あぁ……ッ!! 痛い……舌が、痛いッ!!」
口の中に入れた瞬間、まるで濃塩酸を直接飲んだかのような強烈な『酸味』と『苦味』が、舌の粘膜を容赦なく焼き払う。
「……なんという純度の高さだ!! 余計な汚れ(ニオイ)が一切ない! あるのはただ、姉への嫉妬! 追いつけない自分への絶望! そして『私は天才なんだ』と自己暗示をかけるたびに分泌される、胃を削るようなプレッシャーの味だけだ!!」
俺はグラスの底に残った最後の一滴を指ですくい、白目を剥きながら貪るように舐め回した。
「レロォッ……ズズゥッ!! あぁ、最高だっ! 君の張っているその虚勢が分厚ければ分厚いほど、その裏で流すこの冷や汗は、極上の劇薬となって僕の脳髄を痺れさせる! 凡人であることを認めたくない、その悲痛なまでのプライドの味……たまらないよ……ッ!!」
「おい九久!! お前マジで化学薬品キメたヤバい奴のテンションになってるぞ!! 蒸留した汗飲んで舌出してる絵面、完全にアウトだから切るぞ!!」
影山が慌てて電源コードを引き抜き、配信の画面が暗転する。
真っ暗になったランドリールームの中。
俺は舌の奥に残る、胃酸のように強烈な『劣等感の酸味』をくちゃくちゃと味わいながら、明日、彼女のその高すぎるプライドを根元からへし折り、俺の胃袋へ完全依存させるための『完璧な化学式』を完成させていた。




