泥濘の聖母と人間不信のテラリウム(4)
翌日の昼休み。
「……おい九久。お前、マジで病院行った方がいいって」
台車を押す俺の横で、影山が本気で心配そうな、あるいは心底気味が悪いものを見るような目で俺を見ていた。
「どうしてだい? 僕は今、かつてないほど体調が良い。全身の細胞が、大地の恵み(ミネラル)と彼女の汗の酸味で満たされて、活性化しているのを感じるよ」
「その大地の恵みってのが、オーブンで直焼きした帆布のエプロンだってのが問題なんだよ! お前、昨日終わった後、泥と布の塊をゴクンって……ッ。喉詰まらせて死ぬかと思ったぞ!」
影山が青ざめながら自分の喉をさする。
「あははっ! 帆布の繊維は確かに強敵だったけれど、彼女の『依存の芽生え』という極上の隠し味のおかげで、最後の一切れまで美味しくいただけたよ。……さあ、今日も彼女の『泥濘』を洗濯しに行こう」
俺たちが『大温室』のガラス扉を開けた瞬間。
昨日までとは比較にならない、ひどく濃厚で生臭い、死の匂いが鼻を突いた。
「……あ、あ、ああああ……ッ!!」
温室の最奥。
四葉結衣は、床に座り込み、プランターの前に突っ伏して慟哭していた。
彼女の目の前にあるハエトリグサの交配種は、ついにその赤黒い葉を溶かし、ドロドロとした黒い粘液となって、プランターから床へと溢れ出そうとしていた。
「……ッ、九久! こいつ、マジで……!」
影山が絶句する。
昨日、俺の手で土を入れ替え、一時的に持ち直したかに見えた植物。だが、その努力を嘲笑うかのように、植物の枯死は急激に加速していた。
「……どうして、どうしてッ!! 土も変えた、水もあげてない、血も……血もあげてないのにッ!!」
四葉が顔を上げる。
その顔は涙と泥でドロドロに汚れ、髪はボサボサに乱れ、瞳は完全に焦点を失っていた。いつもの人間への嫌悪感すらも、絶望の波に飲み込まれて消えていた。
「私が、毒……? 私の血が、毒なの……? ……あぁ、そうよね。お母さんも言ってた。結衣は嘘つきで、冷たくて、誰からも愛されない、毒みたいな子だって……ッ!!」
泣き叫びながら、彼女は自分の腕を掻きむしった。
絆創膏が剥がれ、昨日よりもさらに増えた、無数の指先の傷が、血と泥にまみれて露わになる。
彼女のトラウマ――それは、幼い頃からの凄惨な『裏切り』の記憶だ。
両親からのネグレクト。彼女が庭の隅で健気に花を愛でている姿を見るたび、両親は己の苛立ちをぶつけるように暴言と八つ当たりを繰り返した。
そんな地獄のような日々の中で、彼女の唯一の救いは小学校の『花壇係』の仕事だった。
花は暴力を振るわない。
嘘をつかない。
言葉を交わさなくても、ただ純粋に愛情(水)をあげれば、それに応えるように元気に育っていく。
日々の成長を心の支えにし、満開の時を夢見て、彼女は孤独な心をすり減らしながら花たちを大切に育て上げた。
――しかし、いざ花壇が満開を迎えるはずだった翌日。彼女の愛した花たちは、心ないクラスメイトたちの手によって無残に踏み躙られ、根こそぎ荒らされていた。
親からも、同級生からも、愛情を注いだ証すらも徹底的に踏みにじられた絶望。
それが決定的な引き金となり、彼女は完全に人間を不信し、自分を絶対に裏切らない『植物』への狂気的な依存へと堕ちていったのだ。
彼女がこの食肉植物に注いでいたのは、純粋な愛情などではない。
二度と奪われないための強固な呪いと、孤独を埋めるための卑屈な依存。
そのドス黒い『感情の滓』が、彼女の血を伝って、植物を細胞レベルで腐らせ続けていたのだ。
「……やっぱり、人間は嘘つきよッ!! あなたも! 助けるなんて嘘……ッ!! 結局、私を独りにして、嘲笑うんでしょッ!!」
四葉が俺に這い寄り、泥まみれの手で俺のズボンの裾を掴んだ。
傷ついた小動物のような、縋るような、しかし人間への深い憎悪を秘めた瞳。その瞬間、彼女から漂う『絶望の匂い』が、昨日までの泥や血の匂いを超えて、俺の鼻を激しく愛撫した。
「四葉さん」
俺は動じなかった。
泥まみれで俺にしがみつく彼女の体を、優しく、しかし有無を言わせぬ力で抱き寄せた。
「ひっ……! 触ら、ないで……嘘つき、大嫌い……ッ!!」
「ええ、人間は嘘をつきます。でも、僕の舌と胃袋は絶対に「嘘」をつかない」
俺は怯える彼女を強く抱きしめたまま、彼女の絶望が染み込んだばかりの、腐敗して粘液状になったプランターの土(泥濘)を、直接指ですくい上げた。
「……ッ!? な、に……」
四葉の涙がピタリと止まる。
背後で影山が「ウ、ウワアアアッ!?」と絶叫した。
「ジャリッ……ムチャッ、ゴリッ、ジュルルルルッ……!!」
俺は、四葉の目の前で、彼女の涙と血、そして絶望のトラウマがドロドロに溶け込んだ真っ黒な泥を、そのまま口の中へ放り込んだ。
原型を留めない衣服の抽出液ではない。
彼女のトラウマそのものである『泥濘』を、ダイレクトに咀嚼する。
「……ッ、あぁ!! なんて、なんて芳醇で、重く、生臭い毒だ……ッ!!」
口の中で爆発するのは、腐敗した土の強烈な臭気。
咀嚼するたびに砕ける砂利の食感の奥から、彼女の腕から流れた血の鉄分と、愛情を踏みにじられた凄絶な過去の『甘酸っぱい酸味』が、涎と共に溢れ出し、脳髄を直接殴りつける。
「美味しいよ、結衣……ッ! 君の毒、君の孤独、君の自己嫌悪……すべてが愛おしい、最高の滋養だ!」
俺は口の周りを真っ黒な泥と涎で汚し、白目を剥きながら、彼女の絶望をくちゃくちゃと噛み締め続けた。
「……あ、あ、あなた……、た、た、た、、食べて……た、食べた?……なんで……」
四葉が呆然と俺を見上げる。
人間を拒絶し、嘘をつかない植物(土)だけを信じてきた彼女。
だが、目の前の男は、その毒された土を、彼女自身すら忌み嫌う『毒』を、『美味しい』と言って喰らっているのだ。
自分と同じ、いや、自分以上に、彼女の深く汚れきった泥濘を愛し、肯定し、血肉に変えようとする、圧倒的な狂気。
『人間は裏切る、愛情は踏みにじられる』。彼女が築き上げてきたその絶対的な防壁が、今、俺の圧倒的な狂気によって、完全に叩き壊された音がした。
「結衣。君は毒なんかじゃない。君の毒は、僕が全部食べてあげる。……これからは、僕の胃袋を『嘘をつかない新しい家族』にすればいい。花壇を荒らされた君の孤独も悲しみも、すべて僕の中で温かく発酵させてあげるから」
俺は、泥まみれの口元で、彼女に極上のフルコースを差し出すような紳士的な笑顔を向けた。
「……九久くんの、胃袋……?」
四葉の瞳に、怯えではない、何かに憑かれたような、陶酔と依存の色が宿り始めた。
「……ええ。ごちそうさまでした。……ああ、そのエプロン。昨日入れ替えたばかりなのに、また泥と涙でドロドロに汚れてしましましたね……」
俺は、彼女が身につけていた帆布のエプロン(昨日の予備)に手を伸ばした。
「……ッ、あ……はい。……お願いします」
四葉は抵抗しなかった。
ただ、俺の狂気と歓喜に呑み込まれたように、虚ろな目をしてエプロンを俺に手渡した。
「影山くん、回収だ。今日は最高の素材(土)の余韻を楽しみたいから、配信は休みだ」
俺は影山にエプロンを投げ渡し、泥まみれの四葉を温室に残して立ち去った。
【夜 22:30 ランドリールーム】
「……おい九久。お前、マジで死ぬぞ。土をそのまま喰うとか、帆布のエプロンよりヤバいだろ。喉に砂詰まって顔色土気色じゃねえか」
影山がタブレットの電源を落とし、本気で心配そうな声でボヤく。
「あははっ! 大丈夫さ。彼女のトラウマは、僕の胃壁にしっかりと根を張った。……感じるよ、影山くん。彼女の孤独な魂が、僕の体内で温かく発酵し、僕自身の血肉と完全に同化していくのを……ゴクンッ」
俺は喉を鳴らして、口の中に残っていた泥と彼女の毒の余韻を、最後の一粒まで胃袋へと流し込んだ。
泥濘の聖母の攻略は、いよいよ最終段階。
俺の胃壁は、彼女の強烈なトラウマを吸い込んで、ますます狂気に満ちた肥沃な土壌へと進化を遂げようとしていた。




