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重油の鎧と寂しがり屋の整備士(3)



翌日の放課後。


約束通り、俺と影山は第4班の重機ガレージへと足を運んだ。


ガレージの中からは、リズミカルな金属音が響いている。だが、その音のピッチが昨日よりも明らかに早い。

焦りか、それとも高揚か。俺の耳には、彼女の胸の高鳴りがそのまま工具を通して伝わってくるようだった。


中に入ると、一条が巨大なクレーンのフックにワイヤーを掛けようと、背伸びをして悪戦苦闘していた。


驚いたことに、今日の彼女はいつもの無骨なダボダボのツナギではなく、少しサイズの合った、身体のラインが綺麗に出る新しい作業着を下ろしていた。首元には、油よけのタオルではなく、赤いバンダナが巻かれている。


「おい九久」と影山が小声で突っ込む。

「あいつ、絶対お前を意識して身だしなみ整えてるぞ。赤いバンダナとか、昨日まで巻いてなかっただろ」

「乙女のささやかな自己主張だよ。愛おしいじゃないか」


俺が静かに近づこうとした、その時だった。

「ああっ」と一条の短い悲鳴が上がった。

背伸びをして無理な体勢をとっていたせいで、足元の油で滑り、重いワイヤーフックを抱えたままバランスを崩したのだ。


「危ないっ!」

影山が声を上げるよりも早く、俺の身体は動いていた。


ガシャンッ!


鈍い音と共に、俺は一条の背中側から彼女の身体を両腕でしっかりと抱き止め、落ちてきそうになったワイヤーフックを片手で受け止めていた。


「……え?」

一条は、背中から俺の胸に完全に預けられた状態のまま、目を丸くして固まっている。俺の腕の中にある彼女の身体は、分厚い作業着越しでもわかるほど華奢で、そして小鳥のように震えていた。


「怪我はありませんか、一条さん」

俺が耳元で優しく囁くと、彼女の顔が文字通りゆでダコのように真っ赤に沸騰した。


「く、九久……くん!? 離っ、あ、いや、ごめん! 私、ドジ踏んで……!」

彼女は慌てて離れようとするが、足元が滑って再び俺の胸に収まってしまう。


「大丈夫ですよ。昨日の今日で、まだ右の広背筋に疲労が残っているはずです。無理をしてはいけないと言ったでしょう?」

「……だって」

一条はうつむき、自分のオイルまみれの指先をギュッと握りしめた。


「だって……今日、お前が来るって言ってたから……。ちょっとでも、かっこいいとこ見せようと思って……。それに、この新しい作業着、お前に……一番に見せたくて……」

消え入るような声で紡がれる、あまりにも無防備な本音。


かつてアインズのインフラを一人で背負って牙を剥いていた孤独な整備士は、今や完全に俺の腕の中で、ただ褒められることを待つ寂しがり屋の少女へと還っていた。


「とても似合っていますよ。赤いバンダナも、あなたの勝気な瞳にぴったりだ」

俺はそう言って、彼女の首元に巻かれていた赤いバンダナをゆっくりと解いた。


「え……?」

「これは、汗で濡れていますから。風邪を引く前に僕が洗っておきます。代わりに、これを」

俺はポケットから、昨日彼女の顔を拭いた真っ白なタオル(洗濯済)を取り出し、彼女の首元にふわりとかけた。俺の匂いと、彼女自身の昨日までの強がりの匂いが微かに残るタオル。


「……ん。ありがと……」

一条はタオルに顔を半分埋め、嬉しそうに目を細めた。その姿は、完全に飼い主に懐いた子猫そのものだった。



夜、ランドリールーム。


俺は漆黒の黒仮面を装着し、カメラの前に立っていた。


「……回線オンだ。同接人数、今日は15万人スタート。この間のタイツ餃子の余韻で、みんなお前の狂気を待ってるぞ」

カメラの枠外から、影山がタブレットを見ながら報告する。


「……親愛なる僕の共犯者たち。今夜は狂気の調理はお休みだ。ふふっ……極上の『恋のシロップ』を、静かに抽出するだけのティータイムだからね」



【コメント欄】

靴下煮出し中: ティータイムきたああああ!!

出汁の探求者: 今日はなんだ!?赤い布!?

ママンバレ生存者: 理科の実験みたいにビーカーで煮込んでるww

抽出ジャンキー: 狂気がないだと……?逆に怖いぞ。

全裸待機: 早くその赤い汁を飲んでくれ神!!



俺は一条から受け取った赤いバンダナを、カセットコンロに乗せたビーカーのお湯の中で静かに煮出していた。


「……お前、ついに直接身体に触れるアイテムを、あんな少女漫画みたいな手口で奪い取るようになったんだな……」

影山が遠い目をしながら、ミシンで他の生徒のほつれた服を縫っている。


「スワップ(すり替え)だけが手品じゃない。自ら喜んで差し出させる。これこそが、信頼という名の至高のスパイスさ」

俺はビーカーから立ち昇る、微かなガソリンと、彼女の甘い汗の香りが混ざり合った蒸気を深く吸い込んだ。


そして、赤く染まったお湯をグラスに注ぎ、カメラに向かって優雅に乾杯の仕草をしてから、ワインのように一口含む。



「……ッ。あぁ……これはッ……」


俺は恍惚と目を閉じた。



【コメント欄】

靴下煮出し中: 飲んだあああああああ!!

出汁の探求者: 今日は綺麗な飲み方だ!

抽出ジャンキー: ガソリンの匂いがするシロップってヤバいだろww

ママンバレ生存者: 神が完全に恋する乙女の顔になってるぞww

全裸待機: 俺もそのシロップで乾杯したい!!同接16万突破!!


「どうだ? 今日の味は」

影山が呆れ半分で尋ねる。


「完璧だよ。重油の苦味も、孤独な鉄サビの味も、もうここにはない。ただ純粋に、誰かに寄りかかりたいという甘えと、恋する乙女の熱情だけが、極上のシロップとなって僕の舌を溶かしている……」



一条蓮……俺の胃袋に、また一つ、甘く重い愛情が永遠のコレクションとして刻み込まれた。



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