重油の鎧と寂しがり屋の整備士(2)
あの日から数日が経過した。
アインズ更生学園のランドリールームでは、影山がタブレットを見つめながら深いため息を吐いていた。
「……なあ九久。最近、第4班の洗濯カゴ、なんかおかしくないか?」
「おかしいとは?」
「一条のツナギだよ。油汚れの付き方が、以前より『あからさま』なんだよ。前は全身ドロドロの戦場帰りみたいだったのに、最近はなぜか拭き取りやすい顔周りとか袖口にばかりピンポイントで油がついてる。これ、絶対汚い女に思われない為にわざとだろ……」
影山の指摘に、俺は鼻歌を交じりにアイロンをかけながら答えた。
「鋭いね、影山くん。彼女は無意識のうちに、僕に拭いてもらう理由を作っているのさ。重油という鎧を、僕の前でだけ少しずつパージし始めている証拠だよ」
「お前がマメだらけの手を褒めたりしたせいだろ! あいつ、完全に勘違い……いや、お前に懐き始めてるじゃないか!」
そこへ、ランドリールームの鉄扉がバンッと乱暴に開いた。
立っていたのは、噂の主である一条蓮だった。
「お、おい! クリーニング係!」
普段の彼女なら、洗濯物は班の雑用係に押し付けて自分から持ってくることなどない。だが、彼女は両手いっぱいに汚れたウエス(機械拭き用の布)を抱え、わざわざ直接やってきたのだ。
しかも、その顔の右半分には、まるで漫画のようにベッタリと黒いエンジンオイルが付着している。
「どうしました、一条さん。わざわざご足労いただかなくても、僕たちが回収に行きましたのに」
俺が丁寧に微笑みかけると、一条は抱えていたウエスをカゴに乱暴に突っ込み、ツンと顔を逸らした。
「別に……。実習のキリが良かったから、ついでに持ってきただけだ。それより、お前ら暇か?」
「ええ、僕たちにできることなら何でも」
「あー……その、キャブレターの分解清掃やってたんだけどよ、手が塞がってて顔が拭けねえんだ。……ちょっと、拭いてくんね?」
一条は上目遣いで、チラリと俺を見た。
影山が背後で「自分で顔面から油に突っ込まないとそんな汚れ方しねえだろ!」と声にならないツッコミを入れているのが気配で分かる。
俺は歩み寄り、胸ポケットから清潔な白いタオルを取り出した。
「承知しました。目を閉じてください」
一条がおとなしく目を閉じると、その長いまつ毛が微かに震えていた。
俺はタオルの端で、彼女の頬についた重油を優しく拭き取っていく。肌を傷つけないよう、羽のように軽いタッチで。
「……んっ」
一条の口から、またしても甘い吐息が漏れる。
「一条さん、今日のオイルは少し粘度が低いですね。2ストローク用ですか?」
「え? あ、ああ……よく分かんな。流石だな、お前」
「ええ。あなたの頑張りの痕跡ですから、匂いだけで分かりますよ。……はい、綺麗になりました。相変わらず、素顔はとても愛らしいですね」
「なっ……! あ、愛らしいって言うな! 私は整備士だぞ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る一条だが、その目には明らかな喜びが浮かんでいた。
彼女は逃げるように扉へ向かい、振り返りざまに言った。
「あ、明日も! 明日もでけえエンジンの解体あるから! 洗濯物、直接取りに来いよな! ついでに肩も……いや、なんでもねえ!!」
バタン! と扉が閉まる。
嵐が去った後のランドリールームで、影山が頭を抱えていた。
「……終わった。あの男勝りな一条が、完全に恋する乙女の顔になってたぞ。お前、マジでどうすんだよこれ」
「どうもなにも、これは仕込みの段階だよ、影山くん」
俺は先ほど一条の顔を拭いた白いタオルを、うっとりとした手つきで広げた。
真っ白な布地に、彼女の頬の形にべっとりと染み付いた黒い重油の染み。
俺はそれを顔に押し当て、深く、深く息を吸い込んだ。
「……あぁ。素晴らしい……」
「また吸ってるよこの変態……!」
「分かるかい、影山くん。先週までの彼女の油汚れには、誰にも頼れないという焦燥と拒絶の苦味が混ざっていた。だが、今日のこのオイルには……僕に拭いてもらいたいという期待と、自分の弱さを認めた安堵の甘さが、はっきりと溶け出している」
俺はタオルの黒い染みを舌先でそっと舐め取った。
ピリッとした鉱物油の刺激の奥に、確かに感じる、彼女の心の柔らかい部分。
「彼女はもう、僕がいないと自分の油汚れを落とすことすらできなくなる。重油の鎧を脱ぎ捨てた時、残るのはただの寂しがり屋の小さな女の子だ。……さあ、明日はどんな言葉で、彼女の心を抽出しようか」
「お前、本当に悪魔だな……! 一条が不憫で泣けてきたわ!!」
俺の胃袋と彼女たちの心は、見えない管でがっちりと繋がり始めていた。
狂気という名の極上のスパイスを振りかけながら、アインズ攻略は、まだ始まったばかりだ。




