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重油の鎧と寂しがり屋の整備士(1)



「……なあ、九久。お前、マジで最近どうかしてるぞ。昨日の『タイツ蒸し餃子』のダメージ、まだ胃に残ってんだろ?」


翌日の放課後。


俺たちは台車に大量の洗濯物を乗せ、実習棟エリアを歩いていた。


影山の言う通り、俺の胃袋は昨夜の強烈な香水とホコリの暴力を受けて、未だに微かな鈍痛を訴えている。だが、俺の足取りは羽のように軽かった。


「問題ないよ、影山くん。神の胃壁は日々の抽出によって強靭に進化している。それよりも、今は彼らに『無垢な日常』を届ける使命があるからね」


俺たちが向かっているのは、第4班の重機ガレージ。


金髪の整備少女、一条蓮のテリトリーだ。


ガレージに足を踏み入れると、今日もむせ返るようなガソリンと鉄サビの匂いが充満していた。巨大なブルドーザーのキャタピラの下に潜り込み、一条が仰向けの状態でレンチを振るっている。


「ちぃっ……! このボルト、固ってえな……!」

ギリ、ギリ、と金属の軋む音が響くが、ボルトは一向に回る気配がない。


彼女は忌々しげに舌打ちをしてキャタピラの下から這い出てくると、真っ黒に汚れた軍手で額の汗を拭い、ドンッと重いレンチを床に投げ捨てた。


「あーもう! 腕パンパンだっつーの……!」

彼女は無意識に、右の肩甲骨の下あたりと、腰の右側をトントンと叩いている。


その瞬間、俺の脳内に先日の「生軍手カルパッチョ」の記憶がフラッシュバックした。


強烈な鉄サビと重油の味の奥底にあった、彼女の疲労物質(乳酸)の濃いエッセンス。その苦味は、間違いなく彼女の右半身、特に肩甲骨と腰部に集中していた。


俺は台車を影山に任せ、静かに一条の背後へと歩み寄った。


「お疲れ様です、一条さん。洗濯物をお持ちしました」

「あ? おお、クリーニング係か。そこらへんに置いといて……って、わっ!?」

振り返ろうとした一条の右肩に、俺は両手を添えた。

そして、重油の味から逆算して弾き出した「最も疲労が蓄積している筋肉の結節点」を、親指で的確に、そして優しく押し込んだ。


「……ッ!? な、なんだお前、急に……!」

「右肩の三角筋から広背筋にかけて、異常なほどの張りがみられます。常に重い工具を右手だけで振るっている証拠だ。少し、力を抜いてください」

俺が絶妙な力加減で揉みほぐすと、一条の口から「ひゃうっ……」と、普段の男勝りな彼女からは想像もつかないような、可愛らしい声が漏れた。


「こ、こら……! 触んな、油で汚れるだろ……!」

「気にしないでください。あなたの誇り高い油汚れを洗うのは、僕たちの仕事ですから」

一条は顔を真っ赤にして身をよじろうとしたが、俺の指先が急所を捉えすぎているせいで、完全に力が抜けてしまっているようだった。


「……なんで、ピンポイントで一番痛いとこ……」

「洗濯物を洗っていれば分かりますよ。ツナギの右半身の繊維だけが、異常に引き伸ばされている。……一条さん、あなたはこの学園の重機とインフラを、その小さな背中でたった一人で背負っているんですね」


俺の言葉に、一条の肩がビクッと跳ねた。

「……バカ言ってんじゃねえよ。ただの作業だ。誰もやりたがらねえから、私がやってるだけで……」

「いいえ。誰もやりたがらない重圧を、あなたは文句も言わずに引き受けている。強がって、重油の鎧を纏って。……でも、本当は」


俺は一条の右腕をそっと取り、彼女の手に握られていた真っ黒な軍手を、指先から優しく引き抜いた。


現れたのは、マメだらけで傷だらけだが、骨格そのものは華奢で、驚くほど小さな女の子の手だった。


「……本当は、こんなに小さくて、綺麗な手をしているのに」

俺は彼女の指先についた油汚れを、自分の持っていた清潔なハンカチで丁寧に拭き取った。


「い、いや……綺麗じゃねえよ……。マメだらけで、ゴツゴツしてて……男みたいな手だ」

一条は視線を泳がせ、恥ずかしそうに手を引っ込めようとする。


「そんなことはありません。誰かのために懸命に働く手は、世界で一番美しい。……でも、たまにはこの手を休ませて、誰かに頼ってもいいんですよ。たとえば、僕のような人間に」

俺は微笑みながら、先ほど彼女が投げ捨てた巨大なレンチを拾い上げた。


そして、キャタピラの下へ潜り込み、彼女が苦戦していた固いボルトにレンチを噛ませる。


「九久くん!? お前、素人にはそんなの無理……」

「ふっ!」

俺は全身の力と、てこの原理を利用して一気に体重をかけた。


ギギギッ、と甲高い音を立てて、あれほど頑固だったボルトが緩む。


「……ほら、回りましたよ。仕上げはお任せしますね、親方」

俺はレンチを彼女の足元に置き、ウインクをして見せた。


一条はその場に立ち尽くしたまま、緩んだボルトと、自分の小さな両手を交互に見つめている。

重油で汚れた頬は、エンジンの熱のせいだけとは思えないほど、リンゴのように真っ赤に染まっていた。


「……あ、ありがとよ。……その、肩、軽くなったわ」

蚊の鳴くような声で呟き、彼女は顔を逸らした。

「どういたしまして。また明日、洗濯物を取りに来ますね。……あまり無理はしないように」

俺は優雅に一礼し、ガレージを後にした。


少し離れた場所で台車を押していた影山が、ガクガクと震えながら俺にすり寄ってくる。


「……お前、お前お前お前ッ!!」

「どうしたんだい、影山くん。急にテンションが上がって」

「どうしたんだいじゃねえよ!! なんだ今のスマートなやり取りは!? なんでお前、あの一条のツンデレフラグをへし折って、最短ルートで好感度爆上げしてんだよ!!」


影山は周囲を気にしながら、小声で絶叫した。

「手口が最悪すぎるんだよ! 『洗濯物洗ってれば分かる』じゃねえよ! お前、あいつの汗と油を直接食ったから、乳酸の溜まってる場所も心理状態もDNAレベルで把握してただけだろ!!」

「人聞きの悪いことを言わないでくれ。僕はただ、彼女の『孤独な味』を一番の特等席で理解してあげただけだ。美味しい料理には、極上の賛辞で返すのが礼儀だろう?」

「猟奇的なクソ変態が、結果的に世界一の理解者ヅラしてんじゃねえよ!!」


影山が頭を抱えてしゃがみ込むのをよそに、俺は自分のハンカチについた一条の油汚れをこっそりと鼻に近づけ、深く息を吸い込んだ。


……強がりの奥底にあった寂しさが溶け出し、彼女の重油の香りは、昨日よりもずっと甘く、芳醇なものへと変化し始めている。


アインズ更生学園のヒエラルキーは、俺の胃袋を通して、静かに、そして確実に書き換えられようとしていた。





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