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当時暮らしていた家は、マンションの十五階にあった。
ベランダからは海が見えて、とても見晴らしが良い。
「ここに住んでいたんだ……」
記憶が蘇る。
ベランダに出て、フェンスをよじ登ろうとして怒られたのを覚えている。
エアコンの室外機があり、ちょうど良い足場になっている。もっと高い所から景色が見たくて、一生懸命登ろうとして怒られたのだ。
あの時はどうして怒られたのか分からなくて、わんわん泣いていたな。
「懐かしい……」
思わず言葉が漏れる。
そんな私に、幼い私が呼び掛ける。
「おねえちゃん、だっこして」
「え?」
振り返ってお母さんを見ると、いいよと頷くので、幼い私を抱き上げる。すると、「ベランダいって」と催促されて、掃き出し窓を開けてスリッパを履いて出る。
「きれー」
夕焼けに染まり始めた空、海には船が浮いていて、その先には本州が見える。人の営みと、自然が融合した美しい景色。
私はこの景色が好きだった。
それなのに、どうして忘れていたんだろう。
カウンセリングを受けた時、お母さんが居なくなったのがショックで、記憶が混濁していると言われたけれど、今はとても鮮明に思い出せる。
「二人とも、ちょっと早いけど先にお風呂入っちゃって」
「お母さんっ……沙織さんはどうするんですか?」
「お母さんでいいよ。片付けがあるから、先に終わらせてから入るから気にしないで。それより、香織の面倒を見てもらった方が助かるし」
そう言われて、私はそんなに手の掛かる子だったのだろうか? と疑問に思う。
景色を見るのが好きなだけで、こんなに大人しいのに。
「やだ! おふろ入りたくない!」
そう思ったのだけど、直ぐに前言撤回することになってしまった。
この頃は、どうしてかお風呂に入るのを嫌がっていた。理由は無くて、単に嫌だった。三日間入らなくても平気で、お母さんに怒られるまで入らなかった。
そんな幼い私を、どうにかする術を私は知っている。
「お風呂入らないの?」
「お風呂嫌い!」
「ああ、だから香織ちゃん抱っこした時臭かったんだ」
「え?」
「お風呂入らないから、香織ちゃんもっと臭くなっちゃうよ。幼稚園のお友達からも嫌われちゃうよ」
「わたし、くさい?」
ショックを受けた幼い私は、自分から服を脱ぎ始めた。
そのままお風呂に連れて行って、一緒にお風呂に入る。
別に臭くはなかったのだけれど、頭を洗ってみると一回目は泡立たなかったので、昨日は入ってなかったのかもしれない。
お風呂を上がると、幼い私の分だけでなく、私のも用意してあった。
「これ、使っていいのかな?」
手に取ってみると部屋着のようで、サイズは問題無さそうだった。
袖を通してみると、懐かしい匂いがして動きを止めてしまった。
「どうかしたの?」
「……なんでもないよ」
動きを止めた私に、幼い私はキョトンとしていた。
顔を出して行こうと促す。リビングに戻ると、お母さんと目が合う。
「あっ、サイズ合ってた。それ、私のだけど嫌じゃなかった?」
「全然っ! あの、ありがとうございます……」
お礼を言うと、お母さんは苦笑して手招きする。
「じゃあこっち来て、髪乾かすから」
お母さんの前に座ると、ドライヤーの温かい風が当たる。
威力は弱くて、とても心地いい。
「おかあさん、わたしも!」
「お姉ちゃんが終わったらね」
そんな幼い私に、今度は私が手招きをして前に座らせる。
少しでも早く乾くように、乾いたタオルでまだ付いている水滴を拭っていく。
ふと横を見ると、暗くなったベランダの窓に私達三人が映っていた。その光景が何だかおかしくて、頬が緩んでしまう。
お母さんもそれに気付いたのか、窓に映る顔が楽しそうにしていた。
◯
幼い私を寝かし付けると、飲み物を用意して互いに向かい合って座る。
「じゃあ、カナの話しを聞かせて」
「私のですか? 事故のことじゃなくて?」
「そう。私が事故に遭うっていうのは聞いたから、今度はカナがどんな人生を歩んで来たのか教えて欲しいの」
「あの、私から言い出したのになんですけど、本当に信じているんですか? 私が十二年後の香織だって……」
改めて考えてみても、信じられる要素が無い。
全部私が語っただけで、何の確証も無いのだから。
それなのに、お母さんは信じてくれている。
「そりゃね、香織と仕草が同じなんだもん。横に並べたら、それがはっきり分かったわ。これで違うなら、私に見る目が無かったって諦める」
だから話してみて、そうお母さんは促して来る。
私は、お母さんを見て、お母さんが死んでからどう生きて来たのかを話す。
門司から門司港に引っ越したのは、お母さん側の祖父母がこちらに来やすいようにする為だった。まだ幼い私の面倒を見てくれるのが、下関市に住む祖父母しかいなかったから。
お父さんは福岡市出身で、距離が微妙に離れていて毎日来れる距離じゃなかった。
それも、小学校高学年になる頃には無くなっていて、今では年に数回しか会わなくなってしまっている。
「父さんと母さん、元気にしてるんだ」
「うん、この前行った時も仕事してた」
「そっか、なら良かった……」
お母さんは紅茶に口を付ける。
私も飲むと、レモンのほのかな香りが抜けていき、気持ちを落ち着けてくれる。
小さく息を吐き出すと、再び話を始めた。
学校での私はというと、目立たず地味な学校生活を送っていた。
それは小中高変わりなく、ただ静かに目立たないように、笑顔を張り付けて暮らしていた。
「それはどうして?」
「人と関わるのが怖くなって。また誰か居なくなるんじゃないかって思うと、怖かった」
それでも声を掛けてくれる子はいて、友達とまでは言えないけれど、顔を合わせれば話すくらいの親しい人はいた。
高校に入って辞めてしまったけれど、中学の頃は美術部に入っていた。辞めた理由は、勉強に付いていけないと困るからだ。
「えっ、どこの高校に入ったの?」
「××高校です」
「進学校じゃん⁉︎ よく頑張ったね。何か目標があったの?」
「そんな大層な物じゃなくて……。いつか、誰かの役に立てる仕事に就けたらって……」
「香織、良い子に育ったね! お母さん嬉しいよ!」
喜ぶお母さんを見て、どう反応すればいいのか分からなくなった。
私に目標は無い。ただ、将来の幅を広げようと思って勉強していただけで、お母さんが期待するような理由ではない。ただ少しでも、不幸な終わり方をする人を減らしたかった。
ただ、それだけ。
笑顔のお母さんは、聞いたら駄目な話題を振って来る。
「香織には彼氏って出来た? 私に似て美人なんだし、男子も放っておかないでしょう? ……あれ?」
眉を顰めて、不機嫌そうな顔になっているのは自分でも分かる。
あれは彼氏じゃない。
ただの性格の悪い人達。
だから、忘れてしまった方がいい。
なのだけれど、どうしても顔がチラついてしまう。
あの悪意の無い顔が、童顔の優しい顔が思い浮かんでしまう。
「お母さん聞いてよ〜」
気が付いたら愚痴っていた。
お母さんのリアクションは『あんな進学校でもあるの?』という驚きで、私に対する同情は無かった。それどころか、共感すら得られなかった。
「あのね香織、そういうのは舐められたら終わりなの。あなた、日頃から化粧してないでしょう? 初めて見た時、下手な塗りだなって思ったのよね。そんなんだから、遊び道具扱いされるの。まずは身嗜みから入るようにしなさい。そうすれば、少なくとも馬鹿にされることはなくなるから。明日休みだし、メイクの仕方教えてあげる。分かった?」
「うっ、うん……」
納得行かない。
まるで私が悪いみたいな言い方に納得出来ない。
共感してくれたらそれで良かったのに、お母さんは期待に応えてはくれなかった。
とはいえ、どう教えてくれるのか、明日を楽しみにしている私がいた。




