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ずぶ濡れの姿で電車に乗るけれど、時間帯が良かったのか乗客は少なかった。
スマホを見ると、北方さんから連絡が来ているけど、無視してラジオを付ける。
昼間のラジオを聴くのは、初めてかもしれない。
どんな人達なんだろうと耳を澄ませていると、小倉駅である光景を目の当たりにする。
「お父……さん?」
帰りが遅くなると言っていたお父さんが、駅のプラットホームにいた。
それはいいのだけれど、隣に女性の姿があった。
会社の同僚かもしれないけれど、その距離感がおかしい。
とても近い位置に立って笑顔で会話をしており、二人の世界に入っているかのようだった。
二人は、隣の車両に乗り込む。
心が冷えて行くのが分かる。
体が反応して、寒いと震えてしまう。
嫌なことが頭の中を駆け巡る。
考えないようにと意識しても、いろんなことが浮かんでしまう。
もし、お父さんがあの人と結婚したら?
私がいたから、お父さんはこれまで一人だったの?
私がいなかったら、お父さんは次に進めてたんじゃ?
私がお父さんから、お母さんを奪ったから。
私がいるから、みんな不幸になる。
私は立っていられなくて、誰もいない車両の隅で蹲ってしまった。
動けるようになったのは、終点に着いた頃だった。
お父さんと女の人は、門司港駅にはいなかったから途中で降りたのだろう。
マンションに着くと、濡れた制服を脱いでぼうっと過ごす。
スマホには相変わらず着信とメッセージが来ている。
見る気も起きなくて、スマホの電源を落とす。
薄暗い部屋で、何も出来ずに涙だけが溢れて来る。
視線を動かすと、写真立てが映る。
それは玄関にある物と違っていて、幼い私が下手くそな絵を広げて、お母さんと二人で写っていた。
お母さんが亡くなる三日前の写真。
二人とも、幸せそうに笑っている写真。
もし、お母さんが生きていて、こんな私を見たらなんて言うだろう。
「お母さん……」
会いたい。
お母さんに会いたい。
成長した鏡に映る姿が、なんて言う人もいるけれど、そんな下らないまやかしはいらない。
ただ、お母さんに会いたい。
でも、それは許されない。
本当に?
「……過去に戻れる?」
荒唐無稽な作り話として切り捨てた噂話。
浅野さんが言っていた過去に戻る方法。
きっと、この時の私はおかしくなっていたんだろう。
こんな夢物語に縋ろうとしているのだから。
起き上がると、シャワーを浴びて準備を始める。
今晩は満月。
過去に戻れるという条件に合致する。
頭の中で、他の条件を確認して行く。
戻りたいと思う過去の写真を持つ。
二十時ちょうどに、関門トンネルの中央を通過する。
電子機器を持っていてはいけない。
満月の日と合わせて、四つの条件を満たさないといけない。
難しい条件もあるけれど、不可能とも言えない条件。
リビングの写真立てから、私とお母さんが写った写真を取る。
「……これって、お父さんとお母さん」
取った写真の裏には、若い頃の二人の写真が潜められていた。
窓から陽が差し込み、写真を照らす。
どうして、お父さんがこんな隠し方をしているのか知らない。だけど、写真に写る二人はとても幸せそうに見えた。
外に視線を移すと、雨が上がり晴れ間が見え始めていた。
◯
マンションを出ると、門司港レトロの近くを通って和布刈公園に向かう。
直接行かないのは二十時まで時間があって、不審に思われると困るから。
夜、一人で出歩くのは初めてかもしれない。
門司港レトロとは違って灯りが乏しく、別世界のように思える。
夜景を目的にしているのか、車両が和布刈公園の坂を登って行く。
前は二人で登った道を一人で歩く。
息が切れる。
この前は平気だったのに、どうしてか今はこの坂が辛い。
やっとの思いで登り切ると、駐車場には少なくない車が止まっていた。
それだけの人達が、夜景を見る為にやって来たのだろう。
「……綺麗」
その景色に圧倒される。
暗い海の上に、ライトアップされた関門橋。その先に見える下関市の光は、心を掴まれるほどに美しい。
流石は、日本夜景遺産といったところだろう。
昼と夜の境目の景色も、とても綺麗だと思ったけれど、夜景はまた一段と心を奪われる。
私は、この夜景を初めて見る。
近くにあるというのもあって、いつでも見れるからと、これまで行くのを拒んでいた。
この景色を見て、とても勿体無いことをしていたんだなと後悔してしまう。
これまでの損失を取り戻すように、私はこの景色を胸に刻み続けた。
スマホが鳴る。
着信は止まっていて、最後のは二時間前の物になる。
メッセージも無視して時間を確認すると、十九時を回ろうとしている所だった。
公園から降りると、今度は和布刈神社に向かう。
夜というのもあり人の姿はなく、代わりに神聖さと不気味さが混在した空間を作り上げていた。
祭る神様は、月の女神である『瀬織津姫』。
潮の満ち引きを司る、導きの女神様なのだそうだ。
波の音を背にして、社の前に立つ。
財布から小銭を取り出すと、賽銭箱にそっと入れて願う。
「……どうか、お母さんに合わせて下さい」
無理なのは知っている。それでも、願わずにはいられない。
もしも、お母さんに会えるのなら、私は消えてしまってもいい。お母さんを助けられるのなら、私は死んでしまってもいい。
必死に願っていると、波の音が突然消えた。
「え?」
目を開けると、世界が青白くなっていた。
思わず後退ってしまい、階段から落ちそうになる。
何が起こっているのか分からず、辺りを見回すけれど、色と音意外に変化は無い。
海を見ると、波は立っているしタンカーも動いている。
橋を見れば、車両の明かりが動いており、世界が動いているのだと教えてくれる。
明らかに異常なことが起こっている。
それなのに、私自身がこの変化に恐怖していない。
初めこそ驚きはしても、怖いとどうしても思えない。
理由は分からない。でも、向かうべき場所は分かっている。
関門トンネルの人道に向かう。
建物には灯りが点いているけれど、人がいるような気配は無い。
エレベーターのボタンを押して乗り込むと、トンネルのある地下六十メートルまで下降する。
エレベーターを降りても、世界は青白いままで、まるで夢の中にいるような感覚に襲われる。
エレベーターを降りて右手には、門司港を紹介するパネルが並び、下関からやって来る人達を歓迎している。
きっと向こう側にも、下関を紹介するパネルが並べられているのだろう。
時計を見て時刻を確認すると、十九時五十四分を回ろうとしていた。
二十時まであと五分。
トンネルの距離は七百八十メートルあり、中央に到着するのはちょうどいいか、やや早いくらいだろう。
浅野さんは、中央を通る時に電子機器を持っていてはいけないと言っていた。なら、途中まではいいはずだ。
誰もいないトンネルを歩く。
私の足音だけが、トンネル内に異様に響く。
壁に描かれた海の絵は、愛嬌があって可愛いく、余裕があるのならゆっくりと見て行きたかった。
しばらく歩いていると、境目の印でもある白い境界線が見えた。
逸る気持ちを抑えて、私は境界線の前に立つ。
境界線の壁には、本州『下関』と九州『門司』が矢印と共に記されており、ここが県の境目だと教えてくれる。
スマホと腕時計を外すと、壁際に置いて深呼吸する。
過去に戻る。
それは、荒唐無稽でしかない。
でも、この異常な世界でなら、出来るんじゃないかと思ってしまった。
鼓動が早くなる。
横目でスマホを見ると、五十九分を表示していた。
でも、あと何秒なのか分からない。
誤差はどれくらいまでいいのだろう?
少しでも許されるなら、二十時に変わった瞬間に越えよう。
そう思っていたら、着信が鳴った。
時計は消えて『北方』の文字が表示されている。
着信を消そうにも、距離があって届かない。
その間に時間が過ぎてたら、ここまで来た意味が無い。
こうして迷っている間にも、二十時を過ぎているかもしれない。
「もうっ⁉︎」
私は境界線を跳ぶ。
次の瞬間、世界が元に戻った。




