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いつも通りの日常に戻る。
朝起きて準備をして、お父さんが仕事に出るのを見送る。
一人になったリビングで朝食を食べて、家を出る。
真っ直ぐ門司港駅に向かい、ぼうっと電車を待つ。
電車に乗ると、ラジオを聴きながら時間を潰す。
教室に着くと、顔に笑顔を張り付けて挨拶をして行く。
青葉君とも、それとなく会話をしてやり過ごす。
これまで通り、何も変わらない。
他人とは程よい距離感を保ち、深くは入り込まないようにする。そして、私にも入り込ませないようにする。
こんな面白味のない私からは、青葉君もいずれ離れて行くだろう。
それでいい。
その方がいい。
そんなことを思いながら、日々を過ごす。
付き合って二十六日が経った頃、青葉君はあることを言い出した。
「黒崎さん、俺のこと輝樹って呼んでいいから、俺も香織って名前で呼んでいい?」
「うん、いいよ」
軽く了承するけれど、私が彼を名前で呼ぶことは無いだろう。
青葉君が「香織」と親しげに呼んきても、「青葉君」と呼び返す。
彼は不満そうな顔をするけれど、まだ慣れていないだけだと言い訳をする。
そんな私達の下に、北方さんが興味津々といった様子でやって来る。
「名前で呼び合ってるの? 羨ましい〜。でも青葉君ってさ、輝樹っていうより、青葉君だよね?」
それには激しく同意する。
青葉君は、かっこいいというより可愛い系。
申し訳ないけれど、輝樹というイメージではない。
「何だよそれ、ちょっと酷くない? 俺の名前だよ、親にもらった大切な名前なんだよ」
「あははっ、ごめんごめん。まっ、黒崎さんが慣れるまで待ってあげなよ。彼氏なんでしょ?」
「うん、まあ……。次の休み、デートしてくれるなら許す」
青葉君が真っ直ぐに見て来る。
先週はテスト期間というのもあり、遊びに行けなかった。
その為のお誘いなのだろう。
「まあ、それくらいならいいかな……」
「んじゃ決まり」
こうして次の週末の予定が決まった。
午後の授業が始まる前に、お手洗いに向かう。
用事を済ませて出ようとすると、話し声が聞こえて来て、出るに出られなくなった。
その女子達の声には聞き覚えがある。
同じクラスの子達で、青葉君に告白された時に、一緒にいた人達でもある。
私は、息を顰めて出るタイミングを窺う。
だけど、そんなタイミングなんてやって来なかった。
「ねえ、青葉っていつまで続けんのかな?」
「ああ、あれっしょ、黒崎と付き合ってるやつ」
「そうそう、遊びなんだから、さっさと別れたらいいのにね」
「いや、あれ案外マジになってるかもよ」
「そんなわけないっしょ。黒崎ブスだし、見る目無いって」
「あー、あんた青葉のこと好きなん? だから嫉妬してんだ」
「んなわけないっしょ。いつまで続けるか気になっただけだし」
「はいはい、もうバレバレ。そんなに好きなら、告ればいいじゃん」
「だから違うって⁉︎」
「ムキになって怪しい。まっ、罰ゲームなんだから、そのうち別れるっしょ」
しばらくの間、彼女達の会話は続き、チャイムが鳴る少し前に出て行った。
チャイムが鳴り響く。
私は出るタイミングを見失ってしまって、いまだに動けずにいた。
「…………馬鹿みたい」
◯
よくよく考えてみると、別に落ち込むようなことではなかった。
私も早く別れようとしていたのだから、お互い様だろう。
これまで通り、顔に笑顔を張り付けておけば、これまでと何も変わらない毎日が待っている。
そうだ。何も変わらない。それで良い、もうそれで良い……。
一限サボってしまったけれど、先生に体調が優れなかったと伝えたら、すんなりと受け入れてくれた。
「香織、何かあったのか?」
「別に何もないよ、ただ気分が悪くなっただけだから」
私が知らないと思っている青葉君は、これまで通り彼氏らしく心配した振りをする。だから私も、それらしく振る舞う。
笑顔で、誰も不快にさせないように注意して、ただやり過ごす。
何も変わらない、いつも通りのやり取り。
そのはずなのに、他人の機微に敏感な人には気付かれてしまうのだろう。
「……黒崎さん、誰かに、何か言われたりした?」
それは、北方さん。
同性なだけあって、少しの変化にも気付くのだろう。
でも、それがなおのこと、私の感情を揺れ動かす。
あなたも知っていた癖に。
それどころか、私を嵌めた張本人。
睨みそうになるのを必死に我慢して、笑みを浮かべる。
「本当に何もないよ、気にしないで」
浮かれている私を見て面白かったか?
そう聞きたかったけれど、私には許されない。
これからは、極力関わらないようにしよう。この人達は、人を馬鹿にして遊ぶ最低な人種なのだから。
今日の授業も全て終わり、家に帰る。
「香織、一緒に帰ろ!」
「ごめん青葉君、今日用事があって急いで帰らないといけないんだ」
「えっ、そうなん?」
「ごめんね」
鞄を持つと、足早に教室を後にする。
誰かの笑い声が聞こえた気がするけれど、そんなのどうでもよかった。
今はとにかく、あの空間にいたくなかった。
電車に乗ると、気持ちを落ち着けるようにラジオを付けて景色を見る。
軽快なトークは相変わらずで、とても聞き取りやすいのだけど、何故だか頭の中に入って来ない。
悔しいと思うべきじゃない。
お互い様なのだから、私に怒る権利は無い。
ただ、下らないことに巻き込まれてしまったと思うべきだ。
それだけの出来事だったと、思っておけばいい。
深呼吸をして心を落ち着かせる。
空を見ると、白い月が浮かんでいた。
◯
淀んだ空の色。
今にも雨が降って来そうで、私は傘を持って家を出る。
電車を待つ間に天気予報を確認すると、夕方まで雨予報だった。
せめて、学校に着くまで持ってくれたらなと思うのだけれど、途中から雨が降り始めてしまった。
電車の扉が開く度に、雨の匂いが入って来る。
この匂いにも名前があって、ペトリコールと呼ばれている。
確かギリシャ語の言葉だったはずだ。
そんな名前があるなんて素敵だなと、一人で感動したのを覚えている。
「……誰に教えてもらったんだっけ?」
幼い頃に教えてもらったのは覚えているけど、その人物が思い出せない。
両親でもなくて、幼稚園の先生でもない。
祖父母だろうかと考えるけれど、どうにも違う気がする。
誰だっただろうかと思い出そうとしていると、浅野さんと目が合った。
私は即座に笑顔を張り付けて、会釈をする。
すると、浅野さんは近付いて来て、私の前に立つ。
「ねえ、そんなに自分を偽って楽しい?」
最初、何を言われたのか分からなかった。
それもジワジワと理解すると、いつの間にか私の盾は外れていた。
「楽しいわけないじゃない」
そう冷たく言い放つと、浅野さんは驚いた顔をする。
一体何を言っているんだろう。
こんなの、ただの処世術でしかないのに。
そこに、楽しいなんて思いは無い。
「そう、無理はしないでね」
浅野さんはそう言うと、私から離れて行った。
私は再び笑顔という名の盾を張り付けて、学校に向かう。
午前中の授業を終えて昼休み、これまで通り青葉君と教室で昼食を取る。
雨というのもあり、半数は教室に残っていた。
「今度の休み、どこ行こうか?」
「どこでもいいよ」
「それが一番難しい。どこでもいいなら、俺の家になるけど、それでもいい?」
「それは嫌かな」
身の危険を感じるような場所には行きたくない。
「映画でもいい? 何か好きなのある?」
「最近のは分からないから、話題のでいいんじゃない?」
「話題のね……どれ系がいい?」
「何でもいいよ」
「だから、それが難しいんだよなー」
頭を抱える青葉君。
一体何に頭を悩ませているのだろう。
適当に選んで、時間を潰せばいいのに、わざわざ悩む理由が分からない。
青葉君を見ていると、スマホがメッセージが届いたと知らせて来る。
それはお父さんからで、帰りが遅くなるという内容だった。
画面を消して黒くすると、そこに私の顔が映った。
口は弧を描いているのに、目が笑っていない。
まるで、能面のようだと思ってしまった。
ふと、浅野さんの言葉を思い出す。
『自分を偽って楽しい?』
大きなお世話だ。
でも、ここで本心を話せたら、どんなに楽になるだろう。
そんなことを考えてしまったせいだろう、衝動的に口が動いていた。
「ねえ、この遊びいつまで続けるの?」
「……え?」
青葉君は、何を言われたのか理解出来ていない顔をする。
私も下手なこと言ってしまったなと後悔するけど、もういいかと開き直ってしまった。
「話し聞いたよ。カラオケで私に告白したの、あれ、遊びだったんでしょ? みんなでグルになって、酷いよね」
「えっ、いや、違っ……」
青葉君は、気まずそうに視線を逸らす。
もしかしたら、違ってたのかもと思ったけれど、どうやら本当だったらしい。
「それで、どうするの? このまま、恋人ごっこ続けた方がいい?」
いつの間にか、私達に視線が注がれている。
大きな声で言ったつもりはなかったけれど、よほど人の興味を引く話題のようだった。
「もう終わりでいい?」
「それは……」
早く答えてほしい。
私としても、そんなに注目を浴びたくはない。
「……ごめん」
「いいよ、気にしてないから。……最低」
最後の言葉は、私に向けた言葉。
被害者ぶっている自分に対する嘲笑。
青葉君はそう受け止めなかったかもしれないけれど、もうそれもどっちでもいい。
私は鞄を持って席を立つ。
「気分が悪くなったから、私帰るね」
「あっ、待って……」
「なに?」
「いや、俺は……」
「用が無いなら話し掛けないで」
しばらく待っても、何も言って来なかった。
それが青葉君の答えで、今のが私の返事。
もうこれで、青葉君との関係も終わり。
クラスメイトにも知られてしまったから、明日には笑い話として広まっているだろう。
教室を出ると、北方さん達とすれ違うけれど、無視して通り過ぎる。
どうやら今の私には、笑顔を張り付ける余裕も無いらしい。
外は雨が降っているのに、傘を教室に忘れて来てしまった。
「最悪……」
でも、顔を隠すのには、ちょうど良かった。




