14
私には二つの記憶がある。
一つは、お母さんが亡くなった記憶。
もう一つは、お母さんが事故で目覚めなくなった記憶。
そのどちらでも、私は“大丈夫”という言葉が嫌いだった。
私が私についた嘘の言葉。
安心させようとついた優しい言葉。
私自身に言い聞かせる為についた、慰めの言葉。
今でも大丈夫という言葉は好きではないけど、以前よりは嫌いではなくなっていた。
「お母さん」
「なに?」
「何でもない」
病室で、お母さんの隣に座って呼んでみる。
すると、「何それ?」と訝しまれるけれど、それも笑って誤魔化す。
お母さんは助かった。
あの日、トラックのタイヤに轢かれて、一時は危険な状態に陥った。だけど、事故後直ぐに搬送されたことと、傘でわずかに勢いを衰えさせていたのもあり、奇跡的に一命を取り留めた。
だけど、あの日から昨日までの十二年間、昏睡状態に陥ってしまっう。
目覚めたら十二年も経っていたなんて、普通なら嫌なのに、お母さんはあっさりと受け入れていた。
内心では、いろいろと葛藤があるのかもしれないけれど、それを見せてくれる人ではない。
特に、私には弱さなんて見せようとはしないだろう。
そこはもう、お父さんかお祖父ちゃんお祖母ちゃんに頼るしかない。
お母さんは、笑う私に聞いて来る。
「香織は、あの後どうなったの?」
「私はあの時……」
◯
十二年前の四日間、私は変なお姉ちゃんが一緒に暮らすようになった。という他人事のような感覚で捉えていた。
お母さんが受け入れていたし、お母さんに似ているのもあって、親戚のお姉ちゃんなのかな? と疑問にも思わなかった。
改めて考えると、未来の私といたなんて凄い経験をしてたんだなと思う。
カナお姉ちゃんは優しかった。
それに、綺麗だった。
自分で言うのも何だけど、周りから視線を集めるくらい綺麗だった。
お母さんが事故に遭った時、抱き締めてくれたから安心出来た。
大丈夫と言ってくれたから、信じようと思った。
『香織ちゃん、絶対に幸せになるんだよ。どんなことがあっても、幸せになるのを諦めちゃダメだよ。だってあなたは、お母さんに愛されているんだから』
その言葉を最後に、カナお姉ちゃんが消えてしまう。
まるで、初めからそこに居なかったかのように、フッと消えてしまった。
辺りを見回しても誰も居なくて、一人という孤独に泣き出しそうになる。
でも、代わりにお父さんが来てくれた。
「おとうさん⁉︎」
「香織⁉︎ 沙織は⁉︎ 他に人は居ないのか⁉︎」
「おねえちゃんが、どこかいっちゃった」
「お姉ちゃん?」
困惑するお父さんに抱き抱えられて、私はただ待っていることしか出来なかった。
私の記憶はここから二分する。
お母さんの手術が終わり、お父さんが説明を受ける。
安堵するお父さんと、絶望して崩れ落ちるお父さん。
門司港に引っ越すのは同じだけど、頻繁にお母さんのお見舞いに行くのと、ただ家で泣き続ける日々。
共通しているのは、笑顔を張り付けるようになったことと、幸せになるのを諦めたこと。
一つは、お母さんを殺してしまった罪の意識から。
もう一つは、幸せにならなかったら、お母さんが心配して目を覚ましてくれるんじゃないかと思ったから。
結局は似たような日常を過ごすのだけれど、その胸にはお母さんの死という絶望と、いつか目を覚ますのかもしれないという希望という相反する思いがあった。
そして、今の私は、絶望の記憶が薄れ始めている。
確かにあった気持ちが、流した涙の記憶が、段々と失われ始めていた。
◯
お母さんが目覚めてから二日、私は学校に行く準備をする。
昨日は休んで、お母さんと一緒にいた。
休みの連絡をすると、先生も納得してくれて受け入れてくれた。
「今日もお母さんの所行くのか?」
お父さんが靴を履きながら聞いて来る。
「うん、学校の帰りに行くつもり」
「そうか、お父さんも帰りに行くつもりだ。帰りに、何か食べて帰ろうか」
「うん、じゃあ行ってらっしゃい」
「行って来ます」
お父さんを見送ると、学校で許される範囲のメイクをする。
鏡に映るのは、あの日のカナお姉ちゃん。
私自身のはずなのに、まるで別人のような気がしてしまう。
不思議な感覚だけど、これにも慣れて来るのだろう。
笑みを浮かべる。
すると、そこにあるのは作り物じゃない、ごく自然な笑顔だった。
時間は少し早いけれど家を出る。
門司港レトロを通って、関門海峡を眺める。
今日はとても天気が良くて、遠くまで見渡せる。
ここからじゃ、お祖父ちゃん家までは見えないけれど、あっちの方かなと目を細めて見てしまう。
朝の門司港を散歩している人達とすれ違い、門司港駅に向かう。
到着すると、構内のベンチに座りノスタルジックな風景を眺める。
この雰囲気は、今はまだ好きにはなれないけれど、その良さが何となく分かるようになった。
ここは優しいんだ。
もう、戻らないはずのあの日を思い出させて、どうしようもなく心を騒つかせる。もっと歳を取れば、良い思い出として受け止められるようになるかもしれないけれど、今の私にはまだ無理そう。
もう、お母さんが居ないあの頃に戻りたくないから。
ふうと息を吐いて、電車を待つ人達を見る。
そこに、あの人の姿は無くて、少し残念に思う。
お礼を言いたかったのだけれど、それも学校に付いてからになりそうだ。
「……あの人?」
そう呟くと電車がやって来る。
私はイヤホンを取り出すと、スマホを操作してラジオを起動する。
流れて来る音楽は、昔に流行った曲だけど、流れる景色と合っていて心地良い。
二人の軽快なトークも楽しくて、一日のスタートを良くしてくれる。
電車に揺られて、ゆっくりとした時間が流れる。
多くの人が乗って来るけれど、逼迫するほどではなくて、まだ余裕はある。
駅をいくつも通り過ぎて、高校の最寄り駅に到着する。
私はいつものように、笑みを浮かべて歩いて行く。
いつものペースで歩いていると、背の高い男子が私の横を通り過ぎて行く。
大きいなぁと見ていると、彼が隣のクラスの中川大輔という男子だと気が付いた。
彼には噂がたくさんある。
中学の時に同級生を病院送りにしたとか、されたとか、歳上の恋人がいるとか、彼女を亡くしたとか、夜な夜なバイクを乗り回して暴れ回っているとか、根も葉もない矛盾だらけの噂がたくさん流れている。
こんな悪質な噂もあってか、彼はいつも一人でいる。
彼も、自分から他人に関わろうとしないので、一人でいるのが当たり前のようになっていた。
そんな彼に続いて校門を通る。
クラスに到着すると、「おはよう」と挨拶をして席に着く。
少しすると、クラスメイトが駆け寄って来て興味深そうに聞いて来る。
「黒崎さん、なんか雰囲気変わったね?」
「あっ、少しメイクしてるからかも」
「綺麗になったっていうか、明るくなったよね。メイクするようになったのって、やっぱり青葉達が原因?」
「それは関係無いよ」
そう言われて、そんなこともあったなと思い出す。
それくらい、私の中ではどうでもよくなっていた。
寧ろ、過去に戻る切っ掛けを作ってくれたことに感謝したいくらい。
噂をすると影がさすとは言うけれど、タイミング良く彼らが入って来た。その表情は明るくて、これまでと変わらない様子だった。
でも、教室に入った途端に勢いを失ってしまった。
「あっ……」
青葉君の声が聞こえて来る。
「げっ、こっち見たよ。黒崎さん逃げといた方がいいんじゃない?」
「どうして? 私は別に気にしてないよ」
心配してくれて嬉しいけれど、何もやっていない私が引くのは納得がいかない。
青葉君は私の前までやって来る。
一体どういう心境で、私に絡んで来るのだろう。
「香織、話があるんだ。時間いいか?」
「悪いけど、私は話す気なんて無いよ。この前のことなら、もう気にしてないから。もう関わらないでくれたらいいよ」
「お願いします。改めて香織と話しがしたいんだ」
とても真剣な表情だ。
そういえば、あの時もこんな顔をしていた。
中川君の背後で見ているグループの人達は、何が面白いのか笑っている。
きっと、カラオケ店の時も笑っていたのだろう。
「ここじゃ言えないの?」
「うん、別の場所で話しがしたい」
仕方ないと席を立つ。
断りたいけれど、また言って来そうなので、諦めて一度だけ付き合う。
移動すると、本当に二人になった。
てっきり、あのグループの人達も一緒に来るのだと思っていたけど、北方さんが止めているようだった。
周囲に人がいなくなると、青葉君は頭を下げる。
「あの時はごめん! カラオケでの告白が遊びの延長ってのは否定しない。でも、好きな気持ちは本当なんだ! あいつらに囃し立てられて、あんな形になってしまったけど……。俺は本気で、香織が好きなんだ! お願いします! 俺にもう一度チャンスを下さい!」
必死な思いが伝わって来る。
彼なりの、誠心誠意気持ちを込めた言葉なのだろう。
だから私は、ちゃんと答えないといけない。
「ごめんなさい。あなた達のことは一切信用出来ない」
たとえ気持ちを込めていたとしても、他人のせいにしている時点で言葉が軽い。
信じるに値しない。
青葉君には、何の魅力も感じない。
だから断ったのだけど、青葉君は引き下がらなかった。
「あいつらと関係切ったら信用してくれるか⁉︎ 俺、ちゃんと香織だけ見てるからさ、他の女子との連絡だって切るからさ! お願いだから、もう一回やり直そう!」
「痛っ⁉︎ 離して……」
青葉君に肩を掴まれて壁に押し付けられる。
ひ弱な私の力では、男子に抵抗出来ない。
「なあ、頼むよ!」
「嫌っ!」
顔が近くに来て気持ち悪い。
息が臭くて吐き気がする。
男子と二人きりで会うのは危険だった。
やっぱり、断ればよかったと後悔してしまう。
誰か助けて!
情けなくも、そんなことを考えてしまった。
そんな弱い自分に腹が立つ。
足を振り上げて、気持ち悪い男の足を思いっきり踏みつけた。
「痛って⁉︎」
「どいて」
冷たく告げると、青葉君は驚いて私から離れる。
「ご、ごめん……」
「悪いけど、そういうことだから。私はあなた達と関わる気ないの、もう話し掛けて来ないで」
もう直ぐホームルームが始まる。
だからこの話もこれまでと、終わろうとするのだけれど、青葉君は引き下がらない。
「……離して」
私の手を取って、止めて来る。
いい加減しつこいと言おうと振り返ると、青葉君の背後に頭一つ大きな人が立っていた。
「頼むよ、諦めたくないんだ……」
青葉君が何か言っているけれど、大きな人に気を取られて聞き流してしまった。そんな私に気付いたのか、青葉君も振り返って驚いている。
「なあ、もう通っていいか?」
「あっ、ごめんなさい……」
私は横にズレて道を譲る。
まさか、一連のやり取りを見られていたのだろうか?
通り過ぎて行くのは、隣のクラスの中川君。
その中川君は途中で振り返って告げる。
「あのよ、部外者の俺が言うのも何だけど、最低なことしてフラれてんだから諦めろよ。今のお前、すげーカッコ悪いよ」
そう言われた青葉君は、自分が女々しく縋り付いていたのを理解したのだろう。顔を真っ赤にして歩いて行ってしまった。
残された私は、中川君にお礼を言う。
「あの、ありがとうございます」
「いや、俺は何もやってないから……」
中川君は視線を逸らすと、悲しそうな顔をする。
その表情を見て、ある噂を思い出す。
“中川君は彼女を亡くした”
この噂が違っていたとしても、彼は大切な誰かを失ったのではないかと思ってしまった。
だってあの悲しそうな顔は、前までの私がしていた表情に似てたから。
「中川君、あなたには過去に戻って助けたい人はいますか?」
「は? 助けたい人?」
「もし、過去に戻れるのなら、誰を助けたいですか?」
「……」
気付いたら私は、過去に戻る方法を中川君に教えていた。
きっと、次は中川君の番なんだ。
今度は中川君が、誰かを、自分自身を救う番なんだ。
私は、関門トンネルを使ったタイムトラベルの方法を教えながら、ある疑問か浮かぶ。
私は、この方法を誰に教えてもらったんだろう?
どんなに考えても、思い出すことは出来なかった。




