12
ガラケーに電話が掛かって来る。
それはお母さんからで、直ぐに電話に出る。
『もしもし、今駅に着いたんだけど、まだ公園にいる?』
「公園で雨宿りしてるよ、香織ちゃんも一緒」
「おかあさん、あめすごいよ!」
『傘ある? 持って行くけど』
「ごめん、傘お願いしていい? ちょっと動けそうにないや」
通り雨と思っていたけれど、すでに三十分以上降り続いている。雨足も変わらなくて、降り止む気配が無い。
私のいた時代なら、あと何分で止むというのが表示されるのだけれど、この時代ではそれがない。
十二年という歳月は、こんな小さな所でも技術の進歩を感じさせる。
「止まないね」
「やまないね」
二人で雨を眺めながらお母さんの到着を待つ。
駅から公園まではそう離れていないから、直ぐに来てくれるだろう。
暇な私は、どうでもいいうんちくを披露する。
「ねえ香織ちゃん、雨の匂いにも名前があるって知ってた?」
「しらなーい」
「ペトリコールっていうんだよ。ギリシャ語で、神様に流れている霊液なんだって」
「ぺとりこーる? へー、へんな名前」
「ふふっ、そうだね。変な名前だ」
変な名前と言いながらも、香織ちゃんは「ペトリコール、ペトリコール」と口ずさんでいる。でも直ぐに飽きたのか、また雨を眺めてしまう。
「香織ちゃん、幸せって何だと思う?」
「しあわせ? ……けっこん」
「そっか、じゃあ良い男の子見付けないとね」
「おねえちゃんは?」
「私? 私は……お母さんがいてくれることかな」
そう言うと、香織ちゃんはムッとした顔をする。
「……おねえちゃん、おかあさんのことおかあさんって呼んでるけど、おかあさんは香織のおかあさんなんだからね!」
「うん……そうだね。香織ちゃんのお母さんだ」
どうやら、私がお母さんと呼んでいるのに不満があったみたいだ。
考えてみたら当然だった。
見ず知らずの人が突然やって来て、勝手にお母さんと呼んでいたら、お母さんが取られるんじゃないかと心配にもなるだろう。
雨の中を、赤い傘を広げた人が歩いて来る。
「おかあさん!」
飛び出したいようだけど、雨が強過ぎて踏み出せないみたいだ。
「ただいま! 雨凄いね、二人とも濡れてない?」
「お帰りなさい。早めに屋根の下に入ったから濡れてないよ」
「なら良し。はい傘、じゃあ帰ろうか」
渡されたのはビニール傘。
そこのコンビニで購入して来てくれたのだろう。
「ありがとう。でも……もう必要無いかも……」
ゲリラ豪雨というのは厄介なものだ。
せっかく買ってくれた傘が台無しになってしまうのだから。
「ありゃ、もうちょっと早く上がってくれないかな……」
「いいじゃない。お母さん、香織ちゃん帰ろうよ」
火事がどうなったのか分からないけれど、私の時代には絵本も残っていたから、きっとマンションは無事だろう。
あとは、事故が起こった道を避けて、無事に家に帰ったらいい。
早く帰ろう。
それだけでいい。
それだけでいいのに、どうして不安な気持ちは消えてくれないのだろう。
◯
雨上がりの道を歩く。
曇天だった空に青が戻り、陽の光に照らされた道は光っているようにも見える。
門司駅を通り過ぎて、マンションに向かう。
あと少し。
あと少しで到着する。
マンションに近付くと消防車に加えて、警察車両に救急車の姿も見える。
もしかしたら、誰か怪我をしたのかもしれない。
お母さんが近くの警察官に尋ねると、どうやら一室が燃えるだけに留められたそうだ。
良かった。
これで、何事もなく一日を終えることが出来る。
そう思ったんだ。
それなのに、蛇行するトラックが走って来ているのが見えてしまった。
「お母さん⁉︎」
「え?」
蛇行するトラックは、停車している警察車両に衝突するけど、勢いを落とすことなく歩道に乗り上げた。
お母さんは逃げようと、私達の方に走って来る。
歩道に乗り上げたトラックだけど、方向を変えて消防車に追突してしまった。しばらく引き摺った後で、縁石に乗り上げて横転してしまう。
タイヤは動いているけれど、もう動くことは無いだろう。
「お母さん大丈夫⁉︎」
「今のは死ぬかと思った⁉︎ あれがカナの言ってたやつ?」
二車線を潰して止まったトラックを見て、多分そうだと頷く。
「そうだと思う……」
あのトラックがそうなのか、私には分からない。
事故が起こった時の記憶が、私には無いのだから……。
「早くマンションに入ろう、ここに居たら危ないかも……」
二人の手を引いて、マンションの玄関に誘導する。
あそこに入れば、全てが解決する。
だけど、そうはならなかった。
「避けろ‼︎」
誰かの声がこだまする。
声に反応して振り返ると、そこにはトラックから外れた大きなタイヤが走って来ていた。
避けようにも、気付くのが遅すぎた。
咄嗟だった。
幼い私に覆い被さって、体に力を込める。
私にはそれしか出来なくて、情けなくなる。
「おかあさん?」
「え?」
幼い私の呼び声を聞いて、私は再び振り返る。
叫びたくて喉が震える。
でも恐怖で声が出て来なくて、泣きそうになる。
私達を庇うようにお母さんが立っていて、タイヤを防ごうとしていた。
赤い傘の残骸が飛び散って、まるで赤い血のように見える。それが不吉で、吐き気を覚えてしまう。お母さんは地面に叩き付けられて、タイヤはわずかに向きを変えてマンションに衝突して止まった。
「お母……さん……」
ああ、何でこうなるんだろう。
私は何の為にここに来ているんだろう。
「お母さん!?」
這うようにお母さんの所に行くと、目が少し動いて、口が動く。
「……よかっ……た」
コポリと口から血が溢れる。
お母さんの目から光が失われる。
命が消える。お母さんが死んじゃう⁉︎
「お母さん⁉︎ 誰か! 誰か助けて‼︎ お母さんが‼︎ お母さんが⁉︎」
嫌だ、死んじゃ嫌だと泣き叫ぶ。
助けてと、誰でもいいからと力の限り叫ぶ。
救急隊が私の横を通り過ぎて、お母さんに駆け寄る。
お願いします。
お願いだから、お母さんを助けて下さい……。
そう願いながら、私は涙を流す。
「おねえちゃん……おかあさんは?」
「香織ちゃん⁉︎」
私は香織ちゃんを抱き締めて、大嫌いな言葉を使う。
「大丈夫だから! お母さん大丈夫だから! 直ぐに帰って来るよ! 大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
この言葉を、自分自身に使っているのに気付いて、言葉が途切れそうになる。
それでも言い続けるのは、香織ちゃんが震えているからだ。
「香織ちゃん大丈夫だよ! お母さんならあれくらい大丈夫! 大丈夫だからね、大丈夫だから……」
だから、助かってよお母さん。
私は、救急隊の人に促されるまで、香織ちゃんを抱き締めていた。
◯
私達は、警察車両に乗せられて病院に向かう。
お母さんが運ばれる救急車には、一緒に乗せてもらえなかった。
それだけ緊急を要するのか、もかしたら……。
お父さんへの連絡は警察がしてくれるらしく、私達は待っていることしか出来ない。
集中治療室の前で、私達は座って待つ。
飲み物も購入しているけど、飲む気にならなくてまだ蓋を開けていない。
病院の独特な匂いと、この静寂な空間に耳鳴りを覚える。
恐らく、極度の緊張からだろう。
香織ちゃんは大丈夫かと心配になる。
「香織ちゃん?」
「なに?」
見てみると、香織ちゃんは平気そうな表情をしていた。
「大丈夫?」
「うん、だいじょうぶだよ。おかあさん、すぐにかえってくるんだよね?」
ああ、私だ。
この子は私だ。
私が言った言葉を信じて裏切られる、幼い私だ。
そして、私はもっと嘘をつく。
「……そうだね、良い子にして待ってたら、お母さんも、戻って、来るよ」
声が詰まってしまう。
我慢したいのに、感情が溢れ出す。
「おねえちゃん?」
視界がボヤける。
耳鳴りが更に激しくなる。
手を見ると、半透明になっていた。
何が起こっているのか、ようやく理解出来た。
私はもう、この時代に残れない。もう終わりが来てしまったんだ。
香織ちゃんの手を優しく包んで、最後の言葉を告げる。
「香織ちゃん、絶対に幸せになるんだよ。どんなことがあっても、幸せになるのを諦めちゃダメだよ。だってあなたは、お母さんに愛されているんだから」
不思議そうな表情を浮かべている幼い私。
どうか、幸せになってと願うと、視界は白く染まった。




