5.魔物の生命倫理
薬学生だった頃、何度かラットを使った実習をしたことがある。
実習の前には必ず生命倫理の講義があって、そのときに聞いた言葉を今でも覚えていた。
『人間以外の動物が、人間のために生きていると思ったことはありますか?』
教室のなかのほとんど全員が首を振ったと思う。
ペットを飼っている人もいる、動物が好きで薬に関わる仕事を志す人もいる。
そんな中で、実習を取り仕切る教授は淡々と言った。
『動物実験を初めて行なった人間は、本気で他の動物はみな人間のためにあると信じていた。でも今の私たちはそうではないはずです。“伝統だから”、“昔からこうだから”と思考を放棄するのはやめるように』
ただ動物に感謝しろ、という話ではなかった。
無駄に命を消費しないこと、生きた動物に不要な苦痛を与えないこと。
実験上の原則や代替方法を教わってから挑んだ実習は、想像していた以上に心に来た。
研究職を目指すわけではないから、もう経験することはないと思っていたけれど。
「……なるほどな。ラットで試すのはありだ。ここにはいくらでも実験台がいる」
「でもエレノアはただの実験台だと思ってないから、私が呼ばれたんでしょう?」
牧場の管理棟の一室。
捕まえてきたマウントラット2匹を両手に抱きかかえたレイモンドと、その隣にはロゼもいた。
彼女を呼んでほしいと頼んだのはエレノアだ。
ぷひぷひと不服そうに鼻を鳴らすラットの顔は決してかわいくはないし、エレノアは特段魔物好きでもない。
むしろ魔物に故郷を壊されかけたり遠征先で襲われたりして、どちらかというと怖く思う。
それでも、ラットはこの牧場で穏やかに生きていただけの無害な生き物だ。
前世で教わったように、エレノアはこの魔物たちのことを深く考えていたかった。
「はい。ロゼさんには、ラットに麻酔をかけてほしいんです。それから、もし薬草ビーフが効かなかったときの治療も」
「自分を顧みないわりに、魔物のことは気にするなんて驚きだけど……麻酔は承ったわ。ちゃんと騎士団からのお仕事にしてくれるみたいだし」
「侯爵殿なら許してくれるだろ。でも、麻酔はってことは……」
痛いところを突かれて、エレノアは黙って目を逸らす。
代わりにレイモンドが言葉尻を咎めると、ロゼは肩をすくめて頷いた。
「ええ、治癒魔法は無理よ。あれは人間同士だからできること。魔物の体に効くかどうかは、それこそ実験をしてみないとわからないわ」
「え、そうだったんですか!?」
「治癒師も万能ではないの。というか、今まで魔物の傷を治そうと思った治癒師がいないのよ。だから、薬草を使う方が確実」
知らなかった。麻酔の方を引き受けてくれただけで十分ありがたいのだが、わざわざロゼを呼ぶ必要はなかったかもしれない。
申し訳なく思いながらも、エレノアはレイモンドが集めてきてくれたラットの方に向き直る。
ケージに入った1匹と、レイモンドが抱えている2匹。
毛並みも模様もよく似ていて、この牧場で繁殖した個体なのだからきっと近い親戚だ。
不健康そうに見えるものもいない。薬効の比較対象としては十分だろう。
「この子たちに麻酔をかけてもらったうえで、体の同じ場所に傷をつけます。できるだけ急所を外せるといいんですが」
「体が小さいから気をつけないと簡単に致命傷だろうな……。背中の方が血管が少ないし、内臓もないはずだ。そこは俺がやろう」
「お願いします。そして、薬草を与えるラットA、薬草ビーフを与えるラットB、何も与えないラットCに分けてしばらく観察します。麻酔の効果も考えると、30分くらいが目処ですかね」
「ええ。あまり強い麻酔をかけすぎると、餌も食べないでしょうから」
これで実験の流れは決まった。
ちょうどそのとき、部屋にジュードが入ってくる。
彼は手に小さな紙皿を持っていた。
「お待たせしました。こちら、新飼料で育てたタウロスの肉です。指定のとおり、食用としては人気のない部位を細かく刻んだだけの生肉ですが……一体何を?」
「ありがとうございます。これから実験なので、よければジュードさんも見ていってください」
怪訝な目で床に並ぶケージを見つめるジュードを、エレノアは呼び止める。
いよいよ、薬草ビーフの効能を試す実験の始まりだ。
レイモンドは小脇に抱えていたラットをケージの中に下ろし、小型ナイフを手に取った。




