8.近づく死
液体が垂れる。臭気がする。人の、内側の臭いだ。刺激的で生々しく、痛々しい。
垂れた液体の正体は赤く、赤い血。留めなく垂れては床に、服に際限なく広がり、静かに、だが確実にその輪を広げる。
その血を流している本人は、少女は――――ヴィアは、身動きのできないように鎖に囚われていた。
肌に直接食い込んだ何本もの鎖はヴィアの皮膚表面を削る。鎖の隙間を縫うように、ヴィアの身体には大人の腕ほどの長さの細い針が刺さっていた。貫通し、外界に顔を出した針の先からは血が垂れる。
ご丁寧に両の親指の付け根にも針は貫通していた。いつも握っているはずの短剣は、かようにも容易くその手から離れている。
ヴィアは俯いていた。頭にこそ針は刺さっていないものの、前髪から除く顔一面は頭の表面から湧き出たのか乾きかけの血に染まっており、ヴィアは抵抗するそぶりを一切見せない。
その身体は想像を絶する痛みに襲われているだろうに、ヴィアの口からは呻き声一つでてこなかった。
だがそうであるからこそ、ヴィアは非常に良くできた人形のようであった。――――それは壊れかけで破れかけの身体を針と鎖とでつなぎ止める、滑稽な少女。
ヴィアの口から小さな息が漏れた。
――――――――――――――
試合。それは十日に一回やってくる、問答無用の入居者同士の、《刻印》の使用が許可されている戦い。決闘とは違って試合は自動的に組まれ、対戦相手は選べない。《ランク》の低い者が《ランク》の高い者に勝てばもちろん《ランク》は入れ替わる。勝てば《ベラ》の払いもいい、らしい。仮定にすぎないのは私が一度も試合で勝ったことがないからだ。
一級が参加する決闘と同様に、私の試合の結末は決まっている。私が負ける。なんせ《刻印》が使えないのだから。重要なのは、どうやって負けるかだ。
十日に一回とはいえ、試合の日だけは気分が優れない。逃げられないとわかっているからこそ、暗い感情は拭えない。
運が良いときは、試合の相手は私を倒して、直ぐに勝利を宣言する。腕の一、二本、腹の一部、足、どれがなくなるかは分からないが、どれかがなくなるだけですむ。それが一縷の希望だった。
運が悪ければ――――、運が悪ければ?
「ああ、ラッキー――!!最底辺が相手なんて!」
試合の相手の少年は私を認めると同時に大声で笑って、そう吐き捨てた。どれほどまでに鬱憤と劣等感を詰め込めれば、そのような声が出せるのだろうかと不思議に思うほどだった。
「ああ、良かった、良かった」
少年はそう繰り返した。案の定、どこかで見たような、一度も見ていないような顔である。私の相手をするからには低であり、今まで対戦していてもおかしくはないけれど・・・。
少年の顔は歪んだ。それは笑みと呼んでも良かったかもしれないが、そう呼ぶのには抵抗があった。少なくともフュスラのような、戦闘中でありながらも慈愛と偽りに満ちた笑みでも、シュナのような圧倒的美に飾られた笑みでもない。もっと、人間らしい。もっと人間らしく、歪んでいる。
《ランク》の高低は生活の質に直結する。勝ちが確定した試合を目の前にして、少年の喜びは多少嘲りに満ちているとはいえ、普通の喜びであるのかもしれない。
少年は《刻印》を盛大に展開させた――――うねる鎖と殺意と敵意に満ちた針が私に照準を合わせる。瞬時に悟る。
今日は運が悪い。しかも多分、とびきりに。
《刻印》の能力の有無は絶対的だ――――私がどれほど身体的に強くなろうと、戦闘のセンスを磨こうと、短剣の扱いに習熟しようと、《刻印》の能力には勝てない。
私は毎度、それを試合で思い出さされる。
短剣は届かない。魔法は打ち消せない。私の身体は紙くずのように裂かれ、散らばる。絶対的、圧倒的な実力格差。
私は十級から永遠に抜け出せない、私は一生、ここから抜け出せない。
鎖は身体に巻き付いて容易く行動の自由を奪い、針は私の身体を貫通し、床に固定した。連続して刺される針は、最早私の目にすら遊戯のように映った。人形の皮膚を刺して、弄ぶような――――残酷な。
痛みも、衝撃も、ここまでくればどれほど増えようと同じに思えた。周囲を把握できないし、私が最低限できることは叫び声を内にしまい耐えることのみ。
しばらくしてようやっと、攻撃の嵐は収まった。鬱憤が収まったのかどうなのかは妖しかったが。
「ねぇ、最底辺、なんでお前は生きてんの?生きてけんの??」
遠くからそう言われた気がした。実際には近かったかもしれないが、私にはよく分からなかった。とりあえず痛い。痛い。痛い。痛みが、身体の中を暴れ回っている。
両手が短剣を握っているのかすら分からなかった。
私は短剣の感触を求めるのを止めた。身体から力を抜いた。崩れ落ちるはずの身体を鎖と針は頑丈に支えた。
なんで私が生きてるのか?なんで生きていけるのか?
その質問は頭を巡り、途中で考えるのが億劫になって私は目を閉じた。
なんとなく、これで終わりだという感触がした。このまま死ぬのだと思った。
心残りはないかと、私は心の中で私に訊いた――――とくになかった。
やり残したことがあるほどに何かに打ち込んだことはない。何かを後悔するほどに、何かを大切にしたことはない。何かを恨むほどに、何かに情熱を傾けたことはない。何かを愛するほどに、何かを愛おしく思う勇気も覚悟もなかった。
ああ、やはり私の人生なんてこんなものか。
意識の消える寸前、シュナの顔が頭の中に浮かんできたのが、どうしてかどうしようもなく癪に障った。障ったがそれをなんとかしようとは露とも思わなかった。
シュナの生きる世界と私の生きる世界は違う。だから、生きる世界を分けたまま、私は今から死ぬのだ。私のような人には恵まれた最期であるような気がした。
私は意識を手放した。




