6.生き方
少女は私を持ち上げた。
少女の顔は近かった。口が開いて、綺麗に並んだ白い歯がよく見えた。
「なんであいつが選ばれるの!?」
多分、その声は本心を表していた。歪みのない心の底からの叫びであったろう。
なんであいつなのかと、なんで私は低なのかと、その痛みは激しく、まともであった。私にその嫉妬と恨みを否定することはできない。至極真っ当な感情であるから。
誰だってそう思うのが普通だ。
誰だって、普通ならそう思うだろう?
「うざいよ。顔がいいからってさ、なんでそこにいるん?なんで自分が実力者です、みたいな顔をしていんの?ねぇ、お前だってそう思っているだろ、そう思うよな!」
少女は普通であった。普通に、真っ当に恨みを身のうちに育てていた。醜く、汚泥のような悪感情。
だがシュナにやつあたりをすれば間違いなく、少女は一級から報復を受ける。
私は運が悪かった。運の悪い時間帯にシュナを憎む人に出会って、運の悪いことに絡まれた。それだけだった。
私はシュナの存在をうざいとも、不当だとも思っていない。よって少女の問いかけのような押しつけには口を閉ざした。
今このとき一番穏便に物事が終わるのは、少女の言葉に全面的に賛成することだった。何も考えず相手の言葉を受け入れることであった。それはよく分かっていた。
だが私はそうしなかった。
不器用にしか生きられない。他者に追従し、すり寄っていけば、多少はこの人生もましになろうに。私はそうは生きられない。
「おい、なんか言えよ!!私を馬鹿にすんの!?」
さらに力がかかった。《刻印》の能力の一部が、激情により発動していた。こめられる力が増加するのを、私はどこまでも冷めた目で見ていた。
だが、このままいけば私は間違いなく怪我をする。もしかすればかなり重い怪我を。それに訓練に遅れる。これ以上、遅刻によって《ベラ》を減らされるのは勘弁だ。
そう考えている内に我慢の限界がきたのか、少女の右手が握り拳を作るのが見えた。悩んでいる暇はない。一番良いのは叫ぶことか。それで溜飲を下げてくれるならこれ以上ない。私にできることはそのくらい。
「なんか言え!!!」
ここで迷えば殴られる。私が叫ぼうとした瞬間、目の前を不意に少年が横切った。そう、横切った。
それは全くもって自然な動きで、あまりにも予想外のことだった。
私はその少年が近づいて来ているのに気づかなかった。どこから出てきたのかと疑問に思ったぐらいだった。もちろん、廊下をあるいて曲がり角を曲がってきたのに違いない。
突然の登場は少々の衝撃だった。《刻印》が目覚めていない分、感覚を鋭くしてきたのに私は全く感知できなかったのだ。
私を押さえつけた少女にも予想外だっただろう。束の間、動きが止まる。
で?
――――少年は私達の横を、何事もないかのように通り過ぎる。
少女の行動を咎めるでもなく、私を憐れむのでもなく、ただ淡々と歩いていく。
一つ結びの水色の髪が揺れて、同じ水色の目が凜と尖っていて、中々に整った顔立ちだと、阿呆のように思った。
少年の姿はすぐに見えなくなった。歩いて行ったのだから、それはそうなのだが。
はっと息を吐き出すような笑いが、目の前の少女の口から吐かれた。それは微量の安心を含んでいるように感じられた。きっと気のせいではない。
再び目が合う。だが、相手は今の少年の登場で頭が冷えたようだった。
「覚えとけっ!」
それだけ言い捨てて、少女は足早に去って行った。私は息を大きく吸って、反動で酷く咳き込んだ。痕が残ったかもしれない。
疲れが全身に巡っていた。できれば、何事もなかったことにしたかった。
一級の圧倒的な強さも、シュナが寵愛を受けていることも、私が見下され襲われようとしたことも、どこまでも無関心だった少年も、全てが重苦しく、鬱々としていた。
明らかなことはただ一つ――――逃げ場などない、変化など、望みようもない。
私は歩き出した。
訓練だ。訓練だ。
その言葉を頭の中で繰り返した。その言葉で埋めていれば、楽だと思った。
訓練を行う部屋に私はいた。昨日もいたし、一昨日もいた。明日も、明後日もいるだろう。
この部屋は私の居場所であった。自室で寝る以外では最も多くの時間をこの訓練部屋で過ごしてきた。誰にも邪魔されないこの訓練の時間は、肉体的には辛いものの悪くはなかった。
簡単にではあるが身体を伸ばす。昨日も訓練をしたばかりであるから、鈍っている心配はないが念には念をいれておかねば。
一通り伸ばしながら、私は見慣れた部屋を見回した。
広い部屋である。皮肉なことにも自室の十倍は広い。部屋の中にいるのは私一人。広がる床の上に障害物は一つもない。四方は壁に覆われ、特筆すべきものは特にない。いや、壁にはスピーカーと小さなモニターが付いている。それを通して訓練の指示は行われるのだ。と、いっても毎日ほとんど変わらない。
突然、がこりと壁の一部が前に倒れて開いた。差し出された金属のトレイの上には二振りの短剣が置かれている。使い込まれてすり減った柄は黒色で、鞘はない。どちらも私の肘から指先ほどの長さである。
私は短剣を手に取った。持つと同時に重さを指先から肘、肩にかけ感じる。金属の重さだ。
身体は動かさず、くるりと手首だけを返した。短剣は手の延長上で動く。身体全体を使って多少複雑な動きを挟んで、ウォーミングアップは終了。実践で使えなければ何の役にも立たない。
短剣は手に馴染んだ。重さが心地よく感じるほどになった。
忘れさせて。
苦々しさを、疲れを、痛みを、未来を覆う果てしなき泥沼を、全てを、この短剣を握っていて訓練を行っているときだけは、知らない世界であるようにと。
訓練が始まる前というのに、私の頭は少しだけぼんやりとしていた。だからだろうか?不意に脳内に言葉が浮かび上がった。
“誰かを下に見て、踏みつけて生きていかねば、自分が上から押さえつけられていることに耐えられない。”
少し前に私自身が思ったこと。真っ直ぐな言葉を吐く自らを嘲笑する笑みが沸き起こる。
分かっている。分かっているとも――――その言葉は踏みつける相手のいない十級、最底辺にとっては、何の救いにもならない。




