2. 同室
冷たい金属でできた扉を開く。耳を貫くような軋む音。温かみの欠片もない剥き出しの鉄で壁は形成され、開かれた小部屋にあるのは小さなタンスが二棹、壊れかけの二段ベッド、かび臭い浴室に繋がる鉄製の扉が一つ。面白みも楽しみもない部屋。外界と繋がる窓はなく、なにもない。当たり前のように扉に鍵はかからない。
それが自室。私の寝る場所。
自室に入った直後、どさりと身体を床に投げ出した。衝撃と、少し遅れて冷たい鉄の感触がした。染み入るような冷たさ。
服と床が擦れて血が滲み、数え切れないほど床にできている赤黒い染みが僅かに広がる。身体が痛い。身体が裂かれたように感じる。いつも通りのことだが、訓練の後はこの通り。治療は行われるが服は余程のことがない限り交換されない。つまり血を吸い込んだまま。そんなもの。
動かないでいると、留まりを知らない疲れがどっと押し寄せる。
鉛のような言うことを聞かない身体だ。叶うことならば、このまま寝てしまいたいと、頭の隅で考えた。だがそうすれば明日にも影響がでる。それに、もうすぐあいつが帰ってくるかもしれない。
私はどうにか身体を起こした。こんな毎日には慣れているのだから、今日もいつもと同じように動かなくては。私は浴室まで這いずるように進んだ。
浴室の扉を開けた瞬間、腐ったような臭いが鼻につく。かびが壁の隅からごっそり生えている。蠅か何か、虫が飛んでいたっておかしくはない。不衛生、不潔、――――それで?
水ともお湯とも判別が付かない温かさのシャワーで身体を洗う。十分ぐらいで終わる。濡れた黒髪が額に張り付いた。髪を掻き上げる。瞬時に冷えていく身体をふるりと震わせた。そろそろ髪を切らねばならない。
だが、と私は思った。
果たして髪を切るまで私は無事でいるのか。それは決して冗談ではなく。まして実現しそうにない未来でもなく。
――――無事ではいられないかもしれない。
今日も、明日も、明後日も、このような毎日を繰り返すのであれば?
毎日が全身をすりおろすような日々で構成されるのならば?
そこで考えを止め、ベッドに腰掛けぼんやりと天井を見上げた。冷然たる青白い照明が目を刺す。私はまるでその照明が目を持つかのように、光自体を無感動に見つめ返した。
ふいに視界が暗くなる。視点を虚空に合わせていたので、目の前の人物に焦点を合わせるのに時間がかかった。目の前の物体は音を発する。
「ヴィア」
それは仄かな甘さを滲ませる男性の声。私の名前を呼ぶ真夜中の底を拍つような具現化した黒が滴るような声。
黒々とした髪が流れていた。適度に鋏を入れられ、青白い照明を照り返し怪しく艶めいている。眼前にある開かれた両目は燦めく重厚な銀に染まり、睫毛に繊細に、丁寧に縁取られていた。張り出した広い肩、しなやかな長い手足。薄く微笑みをつくる淡い色の唇。
「まだ寝てないの?」
綺麗な形の唇が音を出しながら宙をなぞるように動く。傷一つない滑らかな肌は、光を遮った影の中で奇妙な艶を帯びている。
私はこういう人をなんというか知っている。
――――とびきりに顔がよい。
「カハティナビアヴァラン」
私の声は掠れていた。そのままシュナが私に伸ばした手を弾く。ぱちりと視線が合って、シュナは笑みを浮かべたまま手を引っ込めた。名前と呼び名は全く異なっていて、それは監獄に住まう者の最低限の意地。虫けらほどの尊厳の主張。
「触るな」
吐き出した私の声には、自分で聞きながら刺が生えているように感じた。だが、触られたくないのは本当であったし、シュナに私に触る権利は一切ない。
「まだ寝てないのが意外なんだよ」
その声が消えきる前にシュナは動いた。軽い衝撃と共に私はベッドに押し倒されていて、シュナの顔は直ぐ真上にあった。触れられている場所からシュナの体温と力が伝わってくる。それは男性のもので、水も浴びていないくせに濡れたような黒髪が肩に引っかかっているのが目に付いた。
ああ、そう、シュナの身体は目を背けたくなるような妖艶さを纏っていた。染みつくような色香が薫っている。この閉じられた光のない監獄のどこで、どうやってその甘さを身につけたのだろうか?いや、光がないからこそだろうか?
シュナは更に顔を近づけてきた。私の耳に口を近づけ、解けるような声で囁く。
「俺を待ってたの?」
反射的に跳ね上げた私の右足の甲がシュナの足を蹴り上げた。小さな呻き声と同時に、加えられた力が緩む。私は身体をくねらせてシュナの下から抜け出した。無理矢理動いたせいで身体が少し痛い。
シュナは私を引き留めようとはせず、私は跳ねるようにシュナから距離をとった。だがどこから湧き出たのかも分からない爆発的な一瞬の怒りは直ぐに熱量を失い、私は無感動にシュナを見た。
シュナは表情こそ変わらなかったものの、少々怯んだようだった。私に歩み寄る代わりにベッドの上に足を組んでこちらを見た。シュナは首を傾げた。肩に届くほどの黒髪がその動作に合わせて揺れた。
「俺ってそんなに魅力ないかなぁ?」
ふてくされてシュナは呟く。その動作も美しいままで、最早返答する気も起きなかった。
意地の残りかすを集めて、私は助走なしで二段ベッドの上の段に飛び上がった。どすんと音がなる。二段ベッドはどうにか倒れずに、その存在意義を保った。勢いのまま、倒れかかるように寝転がる。天井しか見えず、シュナは視界から消えた。私は感情を見せない声で言った。
「他の人を誘ったら?シュナの顔ならいくらでも落とせるよ」
小さなため息が聞こえたのは気のせいか。シュナはなにも返答しなかった。
そこで会話は終わりだった。シュナは不機嫌になったかもしれない。
だが私の言っていることは間違いではない。
この部屋に押し込められたのは最低辺同士――――男女を一緒にするとか最早巫山戯ているのはおいておいて、とりあえずシュナは私と同じくらいには疲れていなければいけない。疲れ果て、泥沼のように眠るような毎日を送っていなければいけない。
だがシュナはそうはならない。絶対にならない。絶対に、絶対に。
理由は単純で、理由は蹴飛ばしたくなるほど阿呆の台詞。
シュナは顔が良いから。より正確に言えば、シュナは顔がとびきりに良く、一級、いわゆる最上に心底惚れられているから。
シュナは特別だ。シュナは例外なのだ。
それは色香を焚きしめた純黒の宝石。監獄に咲く、最上が心底求める極上の華。
それがシュナ。カハティナビアヴァラン――――。




