16.意外な出来事
理屈は分からないが私が少年の危機を救ったようなものであった。名前を覚えることができる自信は欠片もなかったが、とりあえず私は少年の名前を訊いた。あのとき私に無関心を貫いたことに、少しだけ興味を持っていた。私が同じ立場だったらどうしただろうかと疑問に思ったから。
少年は口を閉じた。水色の目で睨み付けるように私を見る。だがさすがにここで口を閉ざすのはどうなのかと思ったのか、十秒ほどの沈黙の後、口を開いた。
「メネウズアトバー」
メネウズアトバー・・・・・・ほとんど覚えていないが、今まで結構な数の入居者の名前を聞いたことがある。その中でもダントツにセンスのない名前だと思った。私の名前がヴィォヴァントで良かったと心の底から思う。いや、どの名前だって適当につけられたのだろうから、別に本当に心の底から思っているわけではないけれど。
「通称は?」
メネウズアトバーは元から鋭い目を更に鋭くした。お前にそんな権利はないだろとでも言いたげである。あの時思った通りだ――――整った顔立ちをしている。
「・・・・・・ヨミ」
これはまたえらく簡素な。
「そっちは?」
聞き返されて私は口を噤んだ。この少年は私のことを知らないかもしれない。そんなはずはないのに、私は一瞬だけそう思ってしまった。知らなかったら――――?知らなかったら良かったか。
「ヴィォヴァント、――――一応ヴィアが通称」
一応、ね。シュナ以外その名前で呼ばれたことなどないけれど。名前を呼ぶのはその人がその世界に存在していて、そこに存在価値があることを認める行為だから、私の通称を呼ぶ人はいない。いや、ヴィォヴァントとすら呼ぶ人はいないか。
「最底辺、か」
「そうだね」
ぼそりとヨミは言って、私はごく自然にそれに返答した。私が壁に押しつけられているのを少年は見ているし、私だって少年が暴力を振るわれているところを見ている。多分、この少年も十級だ。不思議なものだ。私とヨミの間には天と地ほどの実力差があろうに、こうして同じ十級として分類されるとは。
「なんであいつら、お前を見て逃げたんだ?」
ヨミは座り込んで、私から視線をずらして問うた。私が知りたい、と思った。いつもああなら、この世界も少しは生きやすくなろうに。
「私が怪物にでも見えたのでは」
「なわけないだろ」
お互い愛想の欠片もない返答だ。私はそこで去って良かった。少しだけ、シュナの存在がちらついたのがまずかった。
「ヨミは【絡の籠】を締結していないの」
言ってから、言わなければよかったと思った。それを知ってなんになろうか?ただいたずらにヨミの気分を害するだけで終わるだろうに。
案の定、ヨミはじろりと私を見た。だがその目には怒りというより、諦めのような投げやりさがこもっていた。ああ、きっとそれは私も同じだ。知ってなんになろうか?――――知られてなんになろうか?何にもなりはしない。
「人に飼われるように思えんの」
なるほど。これは、【絡の籠】の締結を頼まれたことがある答え方だ。でもなんだか納得だ。ヨミを気に入る人もいるだろう。もちろん、私は今まで一度も打診されたことはない。
「利用すれば良いのに」
私がそれを言うか?まあ、口が勝手に動いたんだから仕方がない。私はヨミの視線を真っ向から受け止めた。苛ついた?不快に思った?だが、自分でも自分の目が彩度を失っていることに気づいていた。嘲るわけでも、同情するわけでもなく、ただ淡々としていた。こんな私と話すのはさぞかしつまらないだろう。だが律儀なのか、ヨミは返事をした。
「戦場にでたら、何の役にも立たないさ」
だろうね。同意見だよ。私はそれをなんとなく口の中にしまった。別にヨミと共有することではないだろう。戦場に出たら、自らのことで手一杯になるだろう。
「そっちは?【絡の籠】に興味は」
「ない」
私はヨミが疑問符を付ける前にそう断言した。ヨミは小さく瞬きした。シュナを見ていると、それがどれほど遠い世界か思い知らされるから――――私はあのように人を好きになることは無理だ。あんな風にするより、最底辺として生きていた方がどれほどましか。
二人とも黙った。私は人と話すこと自体になれていないし、ヨミもそうだろう。話すことはもうない。私は歩き出した。歩き出してヨミの横を通って、そのまま歩いて行った。ヨミは止めなかった。
別れの挨拶――――?そんなものをして何になるだろう。こんな疲れた日々を生きていて、人との出会いを惜しむような余裕など欠片も残ってはいない。ヨミとはまた会えるかもしれない。だが、言葉を交わすがどうかは分からない。社交辞令で終わるなら、話す意味などどこにもない。社交辞令で生きていける世界に生まれていないから仕方ない。
私は自室に入って、そうしていつも通り沼に沈み込むように眠りに落ちた。
今日は少しだけ、いつもと違うことがあった。一日の中で誰かと話すことは珍しい。だけど明日からは変わらない日々が続くだろう。もし変わるとすれば、それは私達が監獄からだされるときだろう。
――――そう、私は思っていた。そうなるものだと、何一つ疑っていなかった。
だが次の半日の自由時間であった。
「――――俺と生きない?」
目も覚めるほどの鮮やかな緑髪、大きく開かれた金の目。先週図書室で出会っただけなのに、にっこりと笑った目の前の少年は確かにそう言って、私にその手の平を差しのばしたのだった。
――――どうして?




