32、湖畔にてもう一度
そこは、なだらかな丘が続いていた。風に揺れる草花が、さわさわと優しい音を立てている。
「もうすぐ到着します」
彼はそう言って、軽く手綱を引いた。
同じ馬に乗るのは気が引けて、マチルダは慣れないながらも一人で乗った。そんな中で、広がる景色をマチルダはぼんやりと見つめていた。
(……やっぱり、来るべきじゃなかった)
そこは知っている場所だ。
二度目の人生で、彼と訪れた。
あの時と同じように風が吹いているのに、彼は何も覚えていない。
マチルダは平気な振りをするしかなかった。視線の先に紫の花が映る。
(この花はまだ見頃じゃない……)
「あと少し経てば、もっと一面に咲く……」
思わず零れた言葉に、マチルダははっとする。
フェリシアンは馬を止め、不思議そうに彼女を見つめていた。
「どうして、それをご存知なのですか?」
静かな問いに、言葉が出てこない。
「以前いらしたことが?」
「ええ、まあ……そんな感じよ」
視線が揺れ、胸の奥がじわりと重くなる。
(今、私はうまく笑えている……?)
やがて馬は湖のほとりで止まった。
静かな水面が、空をそのまま映している。
フェリシアンが先に降り、マチルダに手を差し出した。
「足元をお気をつけください」
「……ありがとう」
その手に触れた瞬間、心臓が強く打つ。
地面に降り立つと、そこには素晴らしい景色が広がっていた。
陽光を受けてきらめく湖面。その脇は豊かな緑が続く。風は穏やかで、どこまでも静かだ。
(あの時、あなたとここで……)
マチルダの頭に、二度目の人生での記憶が蘇る。だがすぐに頭の片隅に追いやった。
自分を律して笑顔を作る。
「……いい場所ね」
「そう言っていただけて光栄です」
「あなたは、よくここに来るの?」
「そうですね。時間がある時は」
彼は柔らかな笑みを見せながら言葉を続けた。
「ここに来ると落ち着くんです」
「……そう」
湖の向こうを見つめる横顔は穏やかで、どこか満たされているように見えた。
自然と頬が緩む。
(私の選択は正しかった。あなたは窮屈な王宮よりも、ここが似合うわ)
そう思いながら見つめていると、フェリシアンもその視線に気づく。
しばらく互いに見つめ合う形になってしまった。言葉はなく、静かな時間が流れた。
先に視線を逸らしたのはフェリシアンだった。その頬はわずかに赤い。
「……私の顔に何かついていますか?」
「いいえ、見ていただけよ。気を悪くしないで」
マチルダが微笑むと、フェリシアンはどこか困ったように息をつく。
「聖女様は……少しお疲れのように見えます」
「……そうかしら」
不意にかけられた言葉に、苦笑する。
うまく隠しているつもりだったが、旅の疲労に加えて、積もり積もった心労は簡単には隠せなかった。
「そろそろ戻りましょうか」
「もう? まだ大丈夫よ」
そう告げると、彼はそれ以上は何も言わなかった。
風の音が二人の間を通り過ぎる。
ここにいると、抑え込んでいた感情がほどけていく。
「……私ね、近いうちに結婚するの」
湖を見つめたまま、言葉がふと口をついていた。
その瞬間、フェリシアンの動きがわずかに止まる。
「それは……おめでとうございます」
祝福の言葉が、心の奥にちくりと刺さる。
「相手はとても立派な方よ。優しくて、賢くて……私にはもったいないくらい」
言葉を重ねるほどに、息が詰まっていく。
「きっと……幸せになれると思うわ」
言い切った瞬間、マチルダの中の何かが軋んだ。
押し留めていたはずの言葉が、意図せず溢れ出してくる。
「……だけど」
声が震える。視界が滲む。
止めようとしても、もう止まらない。
「だけど本当は……結婚したくない」
溢れた言葉に、自分で息を呑んだ。
(……何を言ってるの、私は)
はっとして口元を押さえる。
フェリシアンは、言葉を失ったままこちらを見ていた。
取り繕おうとしても、声が震えてうまくいかない。
「えっと、今のは違うの。そんなこと思ってない。ちゃんと……分かってるもの」
自分に言い聞かせるように、何度も頷く。
これが正しい選択だと。
これが、幸せな未来だと。
それなのに。
どうしてこんなにも苦しいのか分からない。
涙がぽろりと溢れた。
それをきっかけに、堰を切ったように感情が溢れ出す。
「聖女様……」
「……っ」
もう、止められなかった。
マチルダはその場に膝から崩れ落ち、肩を震わせて泣いた。
フェリシアンは戸惑いながらも視線を合わせた。
「聖女様にはお立場もありますから……その分お辛いでしょう。私に何かできることがあれば——」
「違うの……っ」
思わず声が強くなる。
違う。あなたの未来はそうじゃない。
もう王家に関わってはいけない。
けれど、その先が言えない。
ただ涙だけが溢れていく。
震える手で涙を拭いながら、マチルダはかろうじて笑みを作った。
「……私は幸せよ。だからあなたも、幸せになってね」
消え入るような声でそう言った。
歪な笑顔だった。自分でも分かるほどに。
フェリシアンは、返す言葉を見失ったまま彼女を見つめていた。
「さあ、帰りましょう。フェリシアン」
彼女は無理に明るい声を発し、背筋を伸ばして立ち上がった。
こうして二人は帰路についた。
しかし馬に乗ろうとした時、マチルダは少し先の小高い丘が目に入ってしまった。
「あそこからは、この地がよく見える?」
「はい。ですが足場が悪いので、あまりおすすめしません」
「構わないわ……」
(せめて最後に、この地を目に焼き付けておきたい)
何かに導かれるように、マチルダは一人で林へ足を踏み入れ、丘を登り始めていた。
フェリシアンは慌ててその後を追う。
急な斜面を、マチルダはドレスの裾を捲し上げながら進む。
彼は目のやり場に困ったのか、少し距離を保ちながらもマチルダを見守るように進んだ。
ほどなくして、二人は丘の頂へ辿り着いた。
護衛の姿はまだ見えない。二人だけの静かな時間が流れていた。
「綺麗……」
町を見下ろし、マチルダは小さく息を吐く。
隣のフェリシアンは額の汗を拭っている。
「……聖女様には驚かされてばかりです」
「勝手なことばかりしてごめんなさい。お目付役は疲れたでしょう?」
「いえ、ご一緒できて光栄でした。……なんだか初めて会ったような気がしません」
「……そうね。私も同じことを思ったわ」
満たされた静けさが、胸の中に広がっていた。
「帰りましょうか」
差し出された手を取り、一歩踏み出す。その瞬間。
「……っ!」
踵が石に引っかかり、靴が外れた。治癒魔法で抑えていた足の痛みが、一気に押し寄せる。
「う、あ……っ」
突然の激痛に視界が白く弾け、そのまま体が傾いた。
マチルダは咄嗟に彼の手を離してしまった。
「聖女様!」
フェリシアンは慌てて叫ぶ。しかしマチルダはそのまま斜面を滑り落ち、地面に叩きつけられた。
衝撃と共に、遅れてビリビリと痛みが押し寄せてくる。膝からは血が滲んでいた。
すぐさま駆け寄ってきたフェリシアンは、マチルダを軽々と抱えた。
「私がついていながら……申し訳ありません。処分は後ほど受けます。まずは手当を」
必死の声だった。彼の手で、そのまま平坦な場所まで運ばれる。
その距離の近さに、マチルダは痛みなど忘れてしまいそうになる。
そのままそっと座らされ、マチルダの傷口に手際よく布が巻かれていった。
「私の血には触れてはだめよ。神力が発動するかも」
「それでも、止血しないと」
「っ……ちょっと……!」
迷いのない手つきだった。滴れていた鮮血が、彼の指を伝う。
マチルダは息を呑んだ。彼女の血は、かつて枯れた花を返り咲かせたことがあった。
……しかし今は何も起こらない。
マチルダは顔を上げて、フェリシアンへ視線を移した。
(これでいい。これでいい……はずなのに……)
マチルダの胸の奥に一抹の後悔が溢れた。その瞬間、淡い光が辺りに広がった。
後悔――それこそが彼女の血と共に神力を発動する鍵だったのだ。
空気が一瞬で変わり、世界がここだけ切り離されたような静寂が訪れる。
フェリシアンの瞳が、徐々に大きく見開かれていく。
何かを思い出すように。
その顔つきが、ゆっくりと変わっていく。
「……マチルダ様」
彼の口から出たその懐かしい呼び方に、マチルダの心臓が大きく跳ねた。
左足に広がるあの痛みが、今は綺麗に消え去っている。先ほど負った膝の傷もない。
「まさか」
マチルダは呆然と呟いた。




