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31、思い出の地




 聖女としての最後の公務が始まった。

 マチルダは王太子の地方巡回の公務に同行し、三つの領地を五日間かけて巡る予定だった。しかし王太子レオニスの気まぐれで、辺境の地――アスベル領への訪問が急遽決まった。


「お兄様は一体何を考えているの……」


 レオニスとの口論ののち、仕方がなく乗り込んだ馬車の中で、マチルダは不満をこぼした。


(今更なぜ、フェリシアンがいるあの場所へ行かなくてはならないの?)


 だが既にもう王都からは離れてしまった。立場上、一人で帰るわけにもいかない。マチルダは唇を噛み締めた。

 ふと窓の外を見ると、豊かな緑の丘に羊の群れが見えた。


『すごい数の羊ね』

『ここは人間より、羊の方が多いんです』


 ふと、以前の人生で交わした何気ない会話が頭の中で蘇る。

 笑い合う二人。あの時は楽しかった。

 今はいつになく豪華な馬車に乗っているのに、なぜか以前の人生の時よりも乗り心地が悪い。同じ道を通っていても、道中に彼がいないと言うだけでこんなにも落ち着かない。


 窓の外では、こちらに向かって手を振る子供たちが見えた。マチルダは彼らに手を振り返す。


 彼のいるところに近づくほどに、ずっと抑えていた彼への気持ちが表れてくる。

 しかしマチルダはその気持ちを制するように足元を見た。

 公爵がくれた靴。青白い光は、彼女を痛みから救ってくれた。

 この先待っているのは、公爵と結婚する未来。マチルダにとって最善の明るい未来だ。

 その未来は悪くないのに、なぜか胸はざわつく。

 マチルダは深く息を吐いた。


「……ちょうどよかったわ。あなたに会えば、きっとこの気持ちに区切りがつく」


 静かにそう呟いて、マチルダは窓のカーテンを閉めた。


 


 馬車がゆっくりと速度を落とし、やがて静かに停まった。


「アスベル領へようこそお越しくださいました!」


 扉が開くと同時に、明るく張りのある声が響く。

 出迎えに立っていたのはアスベル男爵だった。


 深々と頭を下げながらも、その顔には隠しきれない喜色が浮かんでいる。かつての記憶にある冷酷な面影はどこにもなかった。


(……こんなにも違うの)


 マチルダは一瞬、言葉を失う。

 前の人生で見た彼は、常に苛立ちを纏い、周囲に心を閉ざしていた。しかし目の前の人物はまるで別人のようだ。


「遠路はるばる、感謝いたします。ささやかではございますが、歓迎の催しをご用意しておりますので――」

「いらんいらん。そんな気遣いは不要だ。軽く顔を出すだけのつもりで来たんだからな」


 後方の馬車から降りてきたレオニスは、そう言って軽く手を振り、男爵の言葉を遮る。

 そのやり取りを横目に見ながら、マチルダはふと別の気配に視線を向けた。

 

 男爵の後ろに立つ一人の美しい女性。

 柔らかな蜂蜜色の髪に、整った目鼻立ち。品のある穏やかな微笑み。

 その面差しはあまりにも見覚えがあった。


(……似ているわ)


 女性と目が合うと胸が小さく跳ねる。

 その人はフェリシアンと驚くほどよく似ていた。彼女はマチルダに向かって優雅に微笑んだ。


「妻のエレノアでございます。お会いできて光栄です、聖女様」

「……こちらこそ。会えて嬉しいわ」


 声は平静を保っていたが、内心はわずかに波立っていた。

 そしてマチルダはさりげなく周囲を見渡した。


(……いない)


 この場には、探している姿はどこにも見当たらなかった。

 胸の奥に安堵が広がる。


(会わないまま終わるなら、その方がいいわ……)


 そう思った時だった。

 遠くから蹄の音が近づいてくる。乾いた土を打つ、軽やかな音が。


「おお、やっと来た! フェリシアン! 殿下がお待ちだぞ!」


 男爵が振り返って声を上げている。


 視線の先には、こちらへと駆けてくる毛並みの良い栗毛の馬と、それに乗る青年。

 その姿を見た瞬間、マチルダは息を呑む。


(……っ)


 陽光を受けてきらめく金髪に、海のように美しい碧眼。

 記憶では繊細に切り揃えられていたはずのその髪は、無造作に束ねられている。そして馬から降りるその所作も、以前の記憶よりは遥かに豪快で粗野だった。

 それなのに目が離せない。そこにいたのは、確かにフェリシアンだった。

 

「……遅れて申し訳ありません」

「全く、お前はいつもこうだな。さあ、早く殿下に挨拶しなさい」


 男爵に耳打ちされ、フェリシアンは一歩前に出て跪く。


「お初にお目にかかります。アスベル家嫡男のフェリシアンでございます」


 彼の美しい顔が上がると、マチルダは一瞬だけ息が止まる。

 その美貌は記憶の彼よりも固い面持ちで、強い緊張が見て取れた。その事実に、密かに胸の奥が痛んでしまった。


(私を……知らない)


 分かっていたはずなのに。

 覚悟していたはずなのに。

 心臓が、壊れそうなほど強く打つ。

 それでもマチルダは、微笑みを崩さなかった。

 

 隣にいたレオニスは白々しく声を上げる。


「ほう、お前がフェリシアンか」


 レオニスは顎を手に当てながら、楽しげに言葉を続けた。


「噂は聞いているぞ。数多の令嬢たちに求婚されても、決して首を縦に振らない色男。おまけに見合いもすっぽかして、王都の女性たちの顰蹙を買っているとか」

「……っ、それは……」


 不意を突かれたフェリシアンは、わずかに言葉に詰まる。


「なんだ? そのようにする理由があるなら教えてくれ」

「……理由ですか。それは……その、相手の方の問題ではなく、私自身が……今ではない気がして……」


 その回答にマチルダは思わず声が漏れそうになる。

 彼の結婚観など聞いたことがなかった。


「こら、殿下に妙なことを言うんじゃない! はあ……申し訳ありません、いつまでも夢見がちな倅で……」

 

 男爵が苦笑しながら口を挟むと、レオニスは豪快に笑う。

 

「いいじゃないか。気に入ったぞ、フェリシアン」


 レオニスはフェリシアンの肩に手をやり、にやりと口角を上げる。


「私も巷では遊び人だなんて言われているが、実は独身主義なんだ。お前と同じだな」


 からかうような調子でそう言うと、場の空気が和やかになった。

 そして何気ない様子で言葉を続ける。


「では私は男爵と少し話がしたい。聖女は長旅で疲れている。ここからは少し席を外させる。いいか?」

「は、はい。もちろんでございます」

 

 男爵が大袈裟に相槌を打つ。レオニスは視線をフェリシアンに戻した。

 

「では、フェリシアン」

「はい」

「少しの間、聖女の相手をしてやってくれ」

「……私が、ですか?」


 フェリシアンは目を丸くして、明らかに困惑している。

 

(……何を考えてるの!)

 

 レオニスの突飛な発言に、マチルダは顔を歪めた。しかし家臣やアスベル家の者達がいる手前、王太子の発言に易々と抗議することもできなかった。

 

「このあたりは景色がいいのだろう? 妹にここの豊かな自然でも存分に見せてやってくれ」

「承知いたしました」


 フェリシアンはそう言って再び跪く。

 マチルダは恨めしげにレオニスを睨んだが、彼は気にも止めずに笑顔のままだ。


 フェリシアンは立ち上がり、マチルダへと向き直る。彼が少しずつ近づいてきて、心臓が飛び出しそうになる。

 

「では行きましょう。聖女様」

「……ええ」

 

 フェリシアンはマチルダに手を差し伸べると、ふんわりと微笑みかけた。

 マチルダは息を殺して、わずかに頷いた。

 胸の奥に、静かな痛みが広がる。


(もう『マチルダ様』と呼ばれることもないのね)


 覚悟していたその事実を、噛みしめるように受け入れる。そして彼女はゆっくりと、一歩を踏み出した。

 



 

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