30、婚約
時は過ぎていった。
マチルダの心にぽっかりと開いた穴は埋まることはなく、もはやその寂しさに慣れてしまっていた。
フェリシアンと鉢合わせしないように最善を尽くし、今世では一度も彼と話したこともなかった。
しかし王都にいると、どうしても彼の話を耳にしてしまう。
「ところで、アスベル令息との婚約はどうなったの?」
「ふふ、次の顔合わせで正式に婚約よ」
「まあ! よかったわね。あの方は結婚に消極的って噂だったから」
「外堀から埋めたの。これでもう断れないわ」
王宮の回廊で話す侍女たちの立ち話に、マチルダは思わず足を止めた。
「王宮はいつから、そのような無駄話をしてよい場所になったのですか」
彼女がそう声を上げると、侍女たちは固まり、狼狽えて頭を下げた。
「……聖女様! 申し訳ございません!」
「場をわきまえるように。次はありませんよ」
マチルダは凛とした声で去っていく。
足元が淡く光る。その足はもう引きずっておらず、杖もついていない。
(つい叱ってしまったわ)
マチルダはため息をつく。
場をわきまえない彼女たちにもちろん非があったが、マチルダにとってはそれだけではなかった。
聞き流せなかったのは、フェリシアンの話題だったからだ。
(あなたがどこかで生きているというだけで、私は幸せなはずなのに……どうしてこんなに苦しいの)
いつか誰かと結婚する彼を想像しては、考えないように思考を逸らす。
マチルダは自分の心の矛盾に気付かないふりをしていた。
そんなことを繰り返しながら、マチルダはついに二十歳になった。
レオニスとともに、リチャードとエミーナの接触を防ぎ、悲劇が繰り返されることはもうなかった。
しかしあと数年で一回目の時戻り前の年齢を超えてしまう。もう未来の出来事を先回りして、予言することはできなくなっていた。
そこで王太子レオニスは、そろそろ聖女を普通の王女に戻す頃合だろうと考えていた。聖女に神力がなくなったと公表し、普通の王女として貴族に降嫁させる。それがレオニスの計画だ。
「マチルダ、お前の降嫁先が決まったぞ」
その口調は軽い。
レオニスは前髪を掻き上げ、執務室のソファで足を組んでいる。
最近は国王の体調が優れず、彼が内政のほとんどを担っていた。
正面に座っていたマチルダは、持っていたティーカップをそっとテーブルに戻す。そして冷静に問い返した。
「……お相手は?」
「クローデル公爵だ。お前もよく知ってるだろ」
「ああ……クローデル公爵」
マチルダはそう呟いて、自身の足元に視線を下ろした。
彼から贈られたこの白い靴。
特別な魔法が込められたこの靴で歩くたび、足元は微かに光り、彼女の足の痛みを和らげてくれた。
(この靴のおかげで、もう杖を使わなくてもよくなったのよね)
「あいつはこの国一の治癒魔法の使い手だ。少々変人だが、三度目を生きるお前なら気にならないだろう」
レオニスはそう言って口角を上げた。
「……でもまあ、嫌なら断ればいい。他に心に決めた相手がいるならな」
彼はそう言って片眉を上げて意味深な表情を作った。
心に決めた相手――美しい碧眼の彼を思い出しそうになり、マチルダは目を伏せる。
しかし彼女はすぐさま余裕のある笑みを浮かべて口を開いた。
「クローデル公爵にはたくさんのご恩がありますから、お断りする理由なんてありません」
「……本気か?」
「ええ、本気です。……私は公爵と結婚いたします」
レオニスは目を見開いた。まるで彼女が違う答えを言うと思っていたかのように。
「……そうか」
レオニスの表情はいつになく真剣だった。
「では話を進めておく。今までの聖女としての務め、ご苦労だった」
彼は厳かな口調でそう言った。
マチルダは優雅に立ち上がり、膝を折って深い礼をした。
「感謝いたします。お兄様」
足元が青白く光る。もうほとんど足の痛みはない。しかし彼女の心の奥は、もう何年も前から誤魔化しきれない寂しさと痛みを負っていた。
マチルダ自身もそれに気付いていたが、もう見て見ぬふりをするしかないのだ。
「最後に付き合って欲しい公務がある。来週の地方視察の同行だ」
「分かりました」
「これが『聖女』としての最後の仕事になるだろう。神力がなくなったと公表したら、すぐに婚約発表だ」
レオニスは足を広げてソファの背に深くもたれかかる。疲労が溜まっているのか、その声は少し掠れていた。




