29、聖女誕生
暗闇の奥に、一筋の細い光が差していた。
瞳を開けると、見慣れたはずの天井がやけに遠く感じられた。
「……よかった」
マチルダはそう呟いて頬を緩める。前回のような驚きはもうない。
三度目の人生、やるべきことはもう決まっている。
(……レオニスお兄様と話さないと。記憶があるはずだから)
あれから十年、時が戻った。
今のマチルダは六歳――小さな身体でベッドから降りた。その時だった。
「うっ……」
立ち上がったと同時に、左足が鞭で打たれたかのような感覚に襲われた。マチルダはその痛みに思わず倒れ込む。
(何……? これ)
太ももから足先にかけてビリビリと痛む。静まり返った部屋の中で、その痛みだけがやけに激しく主張する。
マチルダは困惑しながらも、徐々に冷静になる。
(これが……ジェイスが言っていたことね)
二度目の人生の最期、彼が涙ながらに言っていた言葉を思い出す。毎回うまくいくとは限らない。代償を払うこともある。
彼が恐れていたことはこれだったのだ。
マチルダは壁に伝い、足をさすりながらまた立ち上がる。その眼差しは強く、小さく笑う余裕さえあった。
「この程度で済むなんて……神は、ずいぶん私に甘いのね」
そう言い放つと、彼女は足を引きずりながらレオニスの元へ向かった。
(今世こそ……フェリシアン――あなたは自由になるのよ)
――――
五年の年月が経った。
マチルダは自身の血を使って何かできないかと試したが、何度試しても枯れた花を咲き返らせたり、不思議な現象を引き起こすことはなかった。
マチルダは、時戻りの神力はもう使えないのだと悟った。
しかし彼女には二回分の人生の記憶がある。そしてそれはレオニスも同じだ。
二人が手を組んだことで、偽りの神力でも周囲から一目置かれる存在になることができた。
十一歳になったマチルダは、レオニスとともに未来をなぞるように功績を積み上げていった。
事故は未然に防がれ、災厄は起こる前に潰された。その結果として、二人は聖女と王太子の地位を揺るぎないものとしていた。
「あの方が聖女様?」
「まあ、なんて神々しいの」
王宮で催された舞踏会では、令嬢たちが小さな少女に羨望の眼差しを向ける。
その少女こそマチルダだった。
神秘的な純白のドレスに身を包み、宝石の散りばめられた杖をついてゆっくりと歩む。
天井のシャンデリアの光が、まるで祝福するように彼女を照らす。
もう誰も彼女を『影の王女』などと呼ばない。
「東国のクーデターを予知しただけでなく、あちらの聖女様と同盟まで結んだのよ」
「その後も事故や天災を未然に防いだって……あんなに幼いのに素晴らしいわ」
貴族たちは口々に賞賛する。
マチルダは表情を変えずに、前を向いて歩いていく。
すると人の波が自然と割れ、一本の道ができていた。その先には派手な外套を翻して佇むレオニスがいた。
彼はこちらを見て目を細め、屈んで手を差し出した。
「すごい人気だな。さすが聖女だ」
「……お兄様の計画通りに動いただけです」
マチルダは周囲に聞こえないほどの小さな声で淡々とそう答えた。
そして杖を侍従に預け、その代わりにレオニスの手を静かに取る。
「三度目ともなれば、問題も次々解決していくな。簡単すぎて呆気にとられるぜ」
「……これで、ハッピーエンドですね」
「んなわけないだろ」
マチルダの感情のこもっていない声に、レオニスは大袈裟に顔を歪める。
「フェリシアンは? いつ会いに行くんだ」
そう言われてマチルダは立ち止まる。胸がぎゅっと苦しくなる。
この会場のどこにも彼はいない。それどころか、今世では彼の顔すら見ていない。
「彼はもう私の婚約者ではありませんから」
「それは俺が今世で、陛下をアスベル領から遠ざけたからだろ。おかげでアスベル夫人は存命だし、フェリシアンは王家と関わりなく領地でのんびり暮らしてるよ」
「それでいいんです」
「……よくないだろ。今は婚約者じゃなくても、聖女であるお前の立場なら会うことぐらいできる。陛下に毒されないやり方で、適当な理由をつけて今からあいつを婚約者にすることだって……」
「必要ありません。彼の人生に、最初から私は必要なかったんです」
強い口調でそう言い切った。マチルダの意思は固い。
「ここからは自分で歩けます。お兄様はどうぞ王太子妃候補でもお探しください」
マチルダは掴んでいたレオニスの手を離し、再び杖を持った。そして足を引きずりながらまた一人で歩き始めた。
その後ろ姿を、レオニスは渋い顔で見つめていた。
足を進めると、苦手な金切り声が近づいてきた。
この広間で一番豪華な真っ赤なドレスの少女――リリアナは目を輝かせてマチルダの腕を引く。
その勢いによろけ、足がビリビリと痛む。
「みんな見て! 私の可愛い妹よ! 聖女の姉だなんて、なんて誇らしいことなの!」
まるで取り巻きたちに宝石を見せびらかすように、リリアナはマチルダを無理やり連れて歩こうとする。
今までの人生とはまるで違った態度に、マチルダは呆れて言葉も出ない。
(自分の得になるものには媚びて、相変わらずだわ)
マチルダは無表情のまま、リリアナの腕を強く振り払った。
「いつかご自身の功績で、そのように誇れるといいですね」
冷ややかな口調でそう言い放つと、周囲は気まずそうに顔を見合わせて苦笑した。
リリアナは恥をかかされ、顔を歪めてマチルダを睨みつける。しかしマチルダはそんな彼女など気にもとめず、またゆっくりと歩き出した。
広間は笑い声も音楽も満ちているのに、どこか一箇所だけ空白があるように感じた。
先程のレオニスとの会話で、忘れようとしていた彼のことを思い出してしまったせいだろうか。
マチルダは広間を出て、薄暗い庭園のベンチに腰掛ける。
静かなこの場所で、マチルダは彼の痕跡を頭から追い出そうとゆっくりと目を瞑る。
(……私はうまくやったわ。ハーラディのように振る舞って、周囲に聖女だと信じ込ませた。何人も人を救った。この先も、レオニスと共に歩めばいい)
人生三度目にして全て解決できる見込みができた。
ハッピーエンドは、もう手を伸ばせば届くところまで来ている。
ただ――そこにフェリシアンがいないだけだ。
振り返れば、今この瞬間も傍で彼が微笑んでいるような気がする。しかし、そこにあるのは静寂だけ。
(彼のことは忘れましょう……)
そう思いながらゆっくりと目を開ける。するとそこにはリチャードがいた。
「隣いいかな?」
聞き慣れた明るい声が降りてくる。彼は今世でもマチルダを気にかけてくれている。
リチャードは隣に腰を下ろし、優しげに微笑んだ。
「顔色が良くないから、心配になったんだ」
「……少し疲れてしまって」
マチルダは目を合わせずに、無表情で淡々と答える。
もう以前のようにリチャードを頼り、笑いかけることができなくなった。
(どんな顔をすればいいのか分からない)
そう思うのは、彼の心の闇を――なぜ自分に優しくしてくれるのかを知ってしまったから。
彼女のそんな横顔を見つめながら、リチャードは自嘲げに口を開いた。
「私はなにもかも、レオニス兄上に取られてしまったみたいだ」
突然降ってきた彼らしくない言葉に、マチルダはゆっくりと目を見開く。
「王太子の地位も、マチルダの信頼も……兄上が全て持っていってしまった。正直悔しいよ……」
「それは……」
かける言葉がなくマチルダは口籠る。
「でもそれでよかったのかもしれない。君は全て知っているんだろう? 私の過去の過ちも罪も」
そう言われてマチルダはしばらく黙り込む。幼い日のリチャードの軽率な行動で、彼女の母は命を落とした。それは紛れもない事実だった。しかし、彼もまだ幼かった。
「あれは事故です。だから……」
マチルダは慎重に言葉を選ぶ。二人の間にゆっくりと時間が流れた。
「罪滅ぼしなんて、しなくていいんです。もう私の前でいいお兄様でいようとしなくたっていいんですよ」
マチルダにそう言われ、リチャードの瞳が大きく開き、しだいに潤む。
それを察せられまいと、彼は無理やり笑顔を作って勢いよく立ち上がった。
「ははっ、なんでもお見通しだ! さすが聖女様だよ。……だけど分かって欲しい。こんな私でも、妹を心から大事に思っている。昔からずっと……」
「お兄様……」
「なんだか、しんみりしてしまったな。私はもう行くよ。これからもレオニス兄上を支えてやってくれ」
リチャードはそう呟くと、無造作にマチルダの頭を撫でた。
その温もりは懐かしく、マチルダの胸の奥がじんと重くなった。




