26、紫の花
二人は、来た道とは別の道を辿って邸宅へと戻ることにした。
馬の背に揺られながら、先ほどの余韻がまだ胸の奥に残っている。
互いに口数は少なかったが、不思議と気まずさはない。むしろ、その静かな時間が心地よかった。
やがてフェリシアンが手綱を緩め、ふと足を止める。
「このあたりに、見せたいものがあるんです」
そう言って先に地面へ降り立つと、マチルダへ手を差し出した。
その手を取った瞬間、指先に残る温もりに、先ほどの出来事がよみがえり、胸がわずかに高鳴る。
二人は並んで小道を進んだ。草を踏む柔らかな音と、風に揺れる葉のざわめきだけが周囲を満たしている。
少し歩いた先で視界が開けた。
「……ここは」
一面に広がる花畑……のはずだった。
だが近づくにつれ、その異変がはっきりと見えてくる。紫の花々は色を失い、ところどころ萎れて地に伏している。見頃を迎えているはずの時期とは思えない、どこか寂れた光景だった。
「今が見頃のはずだったのですが……」
フェリシアンの声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。
「先週雨がたくさん降ったから、きっとそのせいね」
マチルダはそう言いながら、胸の奥に小さな痛みを覚える。
彼がこの場所をどんな思いで見せようとしたのか、言葉にされずとも伝わってきたからだ。
「母が好きな花でした。あなたにも見せたかった」
フェリシアンはそう言って視線を落とす。
彼のその一言に、胸が締めつけられる。
せっかくの帰省なのに。思い出の花を、彼はきっと一番綺麗な姿で見せたかったはずだ。
その願いが叶わなかったことが、なぜか自分のことのように悔しかった。
「帰ったら、どんな名前の花か調べてみましょう」
マチルダはそう言って屈み、花へと手を伸ばした。
「茎に棘がありますよ」
フェリシアンが制止するが、ほんのわずかに遅かった。
「いたっ」
鋭い痛みが指先を走る。
反射的に手を引くと、人差し指の小さな傷から血が滲んでいた。
すぐさま彼がその手を取る。
「……すぐ手当てを」
「大袈裟ね。これくらい平気よ」
そう微笑むが、胸の奥では別の思いが静かに広がっていた。
(あの雨さえなければ……あなたと、ちゃんとこの花を見られたのに)
ぽたり、と。
指先から零れた血が一滴、地面へと落ちる。
その瞬間、地面一体に淡い光が広がった。
「……え?」
青白い光が花畑一面を包み込み、空気がぴんと張り詰める。風の音が遠のき、時間そのものが切り離されたかのようだった。
やがて萎れていた花々が、ゆっくりと起き上がる。
色を取り戻し、茎が伸び、花弁が開く。
まるで巻き戻されたかのように、景色が塗り替えられていく。
「これって……」
マチルダは息を呑む。
「花の時間が……戻ったのでしょうか」
フェリシアンもまた、その光景を見つめていた。
ふとマチルダが自分の指を見ると、先ほどまであった傷は跡形もなく消えている。
青白い光は、最後にマチルダとフェリシアンを包んで消えていった。
「これが私の力……?」
マチルダは呆然とその光景を見ていた。
十年の時を戻すには、例の宝剣が必要だ。しかしそこまでの規模でなければ、血を流すだけで力を発動できてしまった。
隣で、フェリシアンの視界が揺らいでいた。
呼吸が止まり、意識がどこかへ引きずり込まれるような感覚。
そして頭の奥に、断片的な光景が流れ込んできた。
激しい雨音。
黒い喪服に包まれた自身の姿。
手には、血に濡れた剣。
そして目の前に立つ人物……。
同じく喪服をまとい、どこか困惑したような表情でこちらを見ている。
灰色の髪に、特徴的な吊り目。見覚えのある顔だった。
(……レオニス、殿下……?)
「待ってくれ」
その声が、はっきりと耳に届く。
「誤解してる。俺は……」
言葉は、最後まで続かなかった。
自身の腕が勢いよく動く。止めようとする意識とは裏腹に、剣はまっすぐに彼の胸へと振り下ろされる。
そこで、すべてが途切れた。
「……っ」
フェリシアンははっと息を呑み、現実へ引き戻される。
彼はただその場に立ち尽くした。理解が追いつかない。
「どうしたの?」
マチルダが不安げに覗き込む。
「……いえ、その……なんでもありません」
そう答える声は、かすかに掠れていた。
(……今のは、なんだ)
胸の奥で、得体の知れない感覚がざわめく。
(なぜ私は、レオニス殿下に……)
無意識に、自分の手を見つめる。
そこには当然、何の血も付いていない。
それでも確かに残っている感触が、現実を否定していた。
咲き誇る花々の中でただ一人、彼だけが別の時間に取り残されたかのように、動けずにいた。
シリアス展開が続きますが、この作品はハッピーエンドです!信じて最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




