25、故郷
フェリシアンの故郷――アスベル領の邸宅に到着したのは、昼過ぎのことだった。
馬車が門をくぐると、すぐに使用人たちが出迎えに現れる。深々と頭を下げるその姿に、マチルダはわずかに身を強張らせた。
(王族に対して、あまり良い感情は持っていないと思っていたけれど……)
しかし向けられる視線に棘はなかった。それどころか、むしろ温かささえ感じた。
「ようこそお越しくださいました、マチルダ王女殿下」
フェリシアンの叔父であるロラン卿は、穏やかに微笑む。その声音に、張り詰めていたものがふっと緩んだ。
それと同時に、この場所にフェリシアンの父――アスベル伯爵の姿はなく、彼がもうこの地に足を踏み入れていないのだということを察した。
それでも今この場にいる者たちは、過去の悲しみに囚われず、前を向いていた。
その後、二人はフェリシアンの母の眠る墓地を訪れた。
静かな丘の上にあるそこは、風の音だけが響いている。
フェリシアンは用意してきた花束を、マチルダとともにそっと供えた。
(もうここには来られないと思っていた)
彼は静かに目を瞑る。
今彼が苦しみに溺れずに立っていられるのは、紛れもなくマチルダのおかげだ。
フェリシアンは目を開けると、長年の苦い記憶から解き放たれたかのように、心が軽くなった。
マチルダはそんな彼を、隣で静かに見守っていた。
献花が終わり、二人はふと墓石の脇に目をやった。するとそこには、すでに美しく整えられた花が供えられていた。
「……誰か来たんですか?」
フェリシアンが問いかけると、ロラン卿は静かに答えた。
「昨日、レオニス殿下がいらしていたよ」
「レオニス殿下が……?」
二人は目を見開いた。
「ああ、毎年この季節になると、お忍びで来てくださるんだ。こうして花を手向けてくださってね。……温かい方だよ」
しみじみとした口調だった。マチルダは開いた口が塞がらない。
(あのレオニスお兄様が? 信じられない……)
マチルダの胸の奥に、わずかな違和感が生まれた。
今朝のリチャードの件といい、今まで彼女が知っていた兄たちの姿は彼らの側面でしかなかった。
マチルダはその事実に複雑な気持ちになった。
墓地を後にし、フェリシアンはマチルダを近くの湖へと案内した。
栗毛の馬にまたがる彼の姿は、品よく洗練されていた。手綱を引く仕草一つ凛々しく、迷いがない。
マチルダはその姿に思わず見惚れてしまい、はっと我に返る。
「マチルダ様、こちらです」
差し出された手を取り、マチルダは後ろに乗る。
すぐ近くに感じる体温に、鼓動がわずかに速くなった。二人を乗せた馬は、ゆっくりと歩き出す。
「このあたりは、昔よく遊んでいた場所です」
フェリシアンの声が風に乗って届く。
「子どもの頃、皆で小舟を浮かべて競争したり、釣りをしたりしました」
「ふふ、素敵な思い出ね」
マチルダはそう返しながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
彼が過去を語ること。それ自体が、どこか嬉しかった。
やがて視界が開け、膨大な緑の中に美しい湖が現れる。
陽光を受けて水面がきらきらと輝いていた。
「すごく綺麗……」
思わず声が漏れる。
静かで、澄んでいて、どこまでも穏やかな景色だった。
「マチルダ様とここに来られてよかったです」
ぽつりと、フェリシアンが言う。
「こんな素敵な場所に連れてきてくれて、ありがとう」
そう言うと、彼は柔らかな笑みを見せた。
一見いつも通り。しかしふとした時に、彼は暗い顔をした。
(……やっぱり、少し元気がない)
マチルダがその異変に気付かないはずがなかった。
「……何か、悩んでいるの?」
マチルダは彼を見上げ、そっと問いかけた。フェリシアンは一瞬戸惑ったような顔を見せた。
もちろん問い詰めるつもりはない。マチルダは柔らかな口調で言葉を続けた。
「ジェイスに力を見てもらってから、少し様子がおかしい気がして……」
そう言うと、少しの沈黙が訪れる。
話すべきかと迷ったのち、フェリシアンは小さく息を吐いた。
「……実は、先日彼に聞いたのです。私は……以前、ひどい夫だったと」
風に揺れる草花の音だけが静かに響く。
マチルダは一瞬だけ言葉を失ったが、すぐにいつもの柔らかな表情になった。
「……今、私の目の前にいるのは、今のあなたよ」
まっすぐに彼を見る。たとえ以前の人生で分かり合えなかったとしても、今は違う。
「あの頃から、私もあなたも変わったわ」
輝く湖面を眺めながら、マチルダは静かにそう言い切った。
改めて言葉にすると胸が熱くなる。
マチルダは彼に向き直り、視線を逸らしそうになるのを必死にこらえる。
「だから……私は、今のあなたを……その……愛しているのよ」
「……っ」
言った瞬間、恥ずかしさでマチルダの頬が染まる。
彼女のその一言で、フェリシアンはまるで心臓ごと奪われたかのような感覚に陥った。
鼓動だけがやけに騒がしい。安堵と嬉しさはまだうまく形にならない。
いつのまにかマチルダの手を取っていた。しだいに力がこもる。
湖は凪ぎ、空の色を鏡のように映している。
時間が止まったかのようなその静けさの中で、彼の動きだけがほどけていく。
まばゆい陽の光の中、マチルダの前だけに影が落ちる。
二人は互いに引き寄せられるように、そっと唇を重ねた。




