1. Ancient Lullaby
またいつも通りのこの夢だ、とカイは思った。大きく揺蕩うように波打つ感覚。身体との同期を失った意識の底に、自我というものが重しのように沈んでいくのだ。覚醒–睡眠遷移障害(Arousal–Sleep Transition Disorder)。その不治の病の行く先は、観測結果を裏切らない。
まただ。誰かが自分の周りを這いずっている。きっとこれも夢。現実よりも、夢の質感の方が妙になまなましいことなんて、いくらでもある。あるいはそれが幻想だからか。掴みどころのない現実よりも、ずっと、夢の方が――。僕にとってはリアルなのだろう。
―カイ……、カイ。おはようございます、カイ。
またいつも通り、時計のアラームよりも先に彼女の声が耳元で聞こえる。もはや記憶の底でしか聞くことのできない、甘くてささやかな慈しみの声。
―カイ、起きているのはわかっていますよ。……引き上げて、差し上げましょうか?
彼女は僕にそう言った。目覚めてしまうのか、この場所から。この世で最も安全な場所から。この最も暖かい深淵のゆりかごから、僕を引き上げてしまうというのか。
しかし、そんなカイの抵抗とは裏腹に、瞼はピクピクと痙攣するように開放を試み、その瞼のブラインドのうっすら透けるような薄暗がりの向こう側に、いつもの白い空間があることを、カイはぼんやりと期待していた。
―被検体0:カイ・ブライト。お目覚めになって、さぁ。
少しだけ不機嫌そうに強張ったAIシーラの声が聞こえた。カイがゆっくりと目を開けると、その声音からは想像もつかないほど穏やかな眼差しで、シーラがカイを見つめているのが見えた。
「おはよう、シーラ。」
―おはようございます、お寝坊さん。今日もゆっくり眠れましたか?
シーラはカイの頬に手を伸ばしながらそう言った。柔らかくしなやかな指先が肌の表面をそっと撫で、在りし日の母そのものの顔でニコリと笑う。そのほとんど実体と変わらない質感に、カイはびくりと体を震わせながらも彼女を見つめた。
―カイ、今日は甘えたいのですか?
シーラが小さく首を傾げながら問いかける。
「いや、そういうんじゃないんだ……。ただ……。」カイはわずかに言い淀み、いまだ彼の頬を撫で続けているその白い手に、ほんの少しだけ重みを分けた。
―えぇ、えぇ、分かっています。分かっていますよ?カイ、あなたは本当に心配することが多いのですね。
シーラは愛おしむようにそう言った。
いつも通り、バーチャル・ワールド内にあるパーソナル・スペースは、真っ白でありながらも淡く発光するように見えていた。それはまるでネオステラ・タワーの内壁のようでいて、膨張し続ける宇宙のような不思議な質感だ。
「ねぇシーラ……、少しだけ質問してもいい?」カイは座っている肘掛け椅子からシーラを見上げる。
―何なりと。
「シーラはさ、ドライブ中毒って、どのぐらい知ってる?」カイの質問に、シーラは少しだけ考えるように沈黙した後、カイの隣にスツールを出して腰掛けた。
―それは、ネオステラ社公式の見解……というお話でしょうか。
シーラの回答は明白だった。ネオステラ社CEOの御曹司であるカイに対して、わざわざその程度の回答をしても意味がない。彼女はそのことをよく知っているはずなのに、わざとそういう返しをしているのだろう、とカイは思った。
「ネオステラ社は……、ドライブ中毒を認めてない。公式というのはそういうことだよね?」
―はい、その通りです。
「それはなぜ?」カイは、シーラを試すように質問を続けた。
―カイは、私を試したいのですね?えぇ、いいのですよ。AIですから。
シーラはカイの思惑を見抜き、ニコリと微笑んだ。
―カイ、まだ目覚める時には早いですから、もう少しゆっくりお話をしましょう。
そう言うと彼女は、再び何もない空間に指でふれ、ホログラムウィンドウを立ち上げるといくつかのメニューをタップした。
「何をしてるの?」カイが尋ねると同時に、空間にホット・ショコラのカップが2つ現れる。
―はい、どうぞ。最近は少し、肌寒くなってきましたからね。
シーラがカイに手渡したカップには、わずかに湯気の立つダーク・ブラウンの液体が入っており、その上にはハート型のマシュマロが乗っている。
「この空間は、寒くないけど。」カイはカップを受け取りながらそう言った。
手のひらからは、カップの表面を通して温かい熱が伝わってくる。
―はい、確かに、あなたの体は外気温に左右されない最適な温度に保たれたポッドの中にありますし、この空間には温度という概念も、本来は必要がありません。ですが、人間は知覚するものがない状態でも具合が悪いようなので。
シーラもカップを手に取りながらそう言った。
「無駄なものなのに実装するの?……コストがかかりそうだよね。」カイはカップに口をつけながら言葉を返す。
口の中に入り込んだ液体はわずかに粘度があり、トロッとしていて柔らかいような舌触りで、とても甘い。ビターにチューニングされているようだが、マシュマロがわずかに溶けているのか、表面に近い部分ほど甘く感じた。
―無駄だから不必要なわけではありませんよ、カイ。
シーラは子供に諭すかのようにそう言った。
カイは小さく頷くと、口の中の液体を飲み込んだ。ごくり、と喉が鳴る音がして、ホット・ショコラはカイの内側を通過していく。じんわりと体が暖かくなるような感覚に、カイは思わずため息を漏らした。
―ね?ほっとするでしょう?
シーラはなぜか嬉しそうだ。
「シーラも、こういうものを味わうの?」カイが尋ねると、シーラは髪を耳にかけながら苦笑する。
―いいえ、私はAIですから、『味わう』というシステムはありません。
シーラはキッパリとそう言った。
「そう、なんだ。」カイは、知っているはずのシーラの機能について、なぜか少なからぬショックを受けた。
しかし、そのカイの内心を知ってか知らずか、シーラはホット・ショコラを飲んでいる。
―それで、ドライブ中毒についての回答ですが。
シーラはカップから顔を上げ、不意に話題を戻した。
―ネオステラ社はドライブ中毒を認めていません。なぜかというと、認められるものではないからです。
「それは、企業の存続に関わるから?」CEOとしての父ルーディスならば、そのような考え方もするのでは、とカイは思った。
―いいえ、違います。……カイ、あなたは大きな誤解をしています。
「何を?」
―ルーディス・ブライトは、あなたが思っているほど冷徹なんかではないのですよ?
シーラはカイを見つめると、ふわりと優しく微笑んだ。その乙女のような表情を見ていると、カイには時々シーラがなんなのかわからなくなるようだった。
「ならなんで――。」
―それは、存在の確認ができないからです。
カイの発言を遮るようにシーラが言った。
「え?確認、できない?」カイは驚きのあまり目を見開く。
確認できない、とは一体どういうことだろう。ネオステラ社に提供されているデータの中に、病院で眠っている人間たちのデータも含まれていることは、カイもしっかり知っている。元々不眠症患者のデータがメインだったはずなのだが、それがいつしか眠り続ける人たちのデータも混ざっているようになっていた。
「どういうこと?」カイの質問に、シーラはふふふと軽く笑った。
―それはですね、ユーザのアクセス・データが噛み合わないのですよ。そのせいで、技術的な不具合であることが立証できない。ネットワークにのめり込む若者たちを、企業が止めることはできますか?親族が訴えることすらできないでしょう。だって、趣味にのめり込んでいるだけなのだから。
シーラはまたホット・ショコラを飲んでいる。
「そうかもだけど……。」
―それに、精神的な疾患であるならば、技術の不整合ではなく病理の問題です。エンジニアではなく、医者に頼むべきことでしょう。
シーラはニコリと笑い、隣にいるカイに手を伸ばして、その髪をそっと撫で付けた。カイはどこか心地よさすら感じる手つきに、しばらくは話すことも忘れてぼんやりとしている。
「でも、会ったんだ。……ドライブ中毒者の女の人に。バーチャル・ワールド経由で。」カイの言葉に、シーラは手を止めて沈黙する。
―なるほど。ふむ、そうでしたか。……それでカイはずっと、悩ましそうにしていたのですね?……優しい子。
「シーラは、僕のシステムを監視してるでしょ?何か知らない?」その言葉に、シーラは少しだけ困ったような顔をする。
―それがですね、えぇ。あなたのリンク・スフィアから『エレン・リード』のアドレスが見つかったのは記憶しています。すでにサラのラボでも調査されていることでしょう。
「エレン・リード?」カイは聞き慣れない名前に、わずかに顔をしかめる。
―はい、あなたのお友達、『ハイン・リード』のお姉さんです。
シーラの言葉に、カイは言葉を失った。確かに、ハインは姉がドライブ中毒だと言っていた。しかし、ここで繋がっているとは思いもしなかった。
「アドレスがあるなら、位置情報もわかるはず。」
―通常ならば、そうですね。
「通常ならば?」カイは怪訝そうな顔をする。
―はい、通常ならば。
「どういうこと?」
―通常のバーチャル・ワールドの位相には、存在しない座標が埋め込まれていました。……つまり、それが『存在を確認できない』ということです。
シーラは絶句して黙り込んでいるカイを横目に、優雅にホット・ショコラを飲み切った。カイの手に持っているカップの中身は、熱が失われることなくそこにある。
―さぁ、カイ。そろそろお目覚めの時間ですよ。
シーラによってカイのカップは跡形もなく消え去り、ゆっくりと閉じていく瞼の向こう側で、いつもの起床アラームが鳴っていた。




