7. ドライブ中毒者
長い長い旅の途中で、旅人は遠い月日を思い出す。過去は泉の中へと沈み、再び浮き上がることはない。交差点の信号の色に、明滅する下弦の月は赤く染まった。行ったり来たりの無言の応酬。霞の中に、存在はあるか。白い鉄の橋が僕らを見ている。細い管の中を泳ぐ遊覧船のくじらの背に乗り、街を見下ろすハッキング・ボットが、意識を奪い去る前に――。
長い、何か長い夢を見ていた気がする。ハイン・リードはゆっくりと瞼を持ち上げ、自分のベッドで眠っているアンドロイドシープデバイスの背中をぼんやりと見ていた。最近、どうにも思考がまとまらないことが増えた気がする。特に、バーチャル・スリープから目覚めた後は……。
ハインは黒い耳をぴこぴこと動かして眠る、小さな羊の背中をそっと撫でた。こんなふうに、昔はエレンが背中を撫でてくれたっけ。なぜかセンチメンタルに沈み出す心を、ハインは落ち着かせるために羊を抱いた。
―キュー?
ハインの動きで目を覚ましたのか、シープのロボが小さく鳴いた。ハインは彼の背中をぽんぽん叩くと「大丈夫だから。」と呟いた。
―コンコン
部屋のドアが叩かれる音がした。
「ちょっと、お兄ちゃん?大丈夫?朝食、食べられる?」ドアの向こうから聞こえてきたのは、妹セレンの声だった。
「あぁ、……今行く。」目覚めたくない。
ハインの心に、先ほどの夢の続きを求める気持ちが、じわじわと広がっていくのを感じていた。朝食、ということは、いつの間にか母さんが帰ってきていたのか、とハインは思った。いつもなら自分も同じくらいの時間に起きるというのに、今日はうっかり寝過ごしたらしい。なぜだろうか、と考える前に、ハインは大きくため息をついた。
ぐっと体に力を入れて、重たい頭を持ち上げる。ベッドの上に横たわっていた自分は、なぜか昨日大学から帰ってきたままの衣服で寝ていた。
「ん?……まぁいいか。」昨日の記憶がどうもぼんやりとしていて実感がない。
こんなふうに、全く着替えもせずに寝てしまうのは、ハインとしては初めてだった。
―コンコン
「ちょっと?ほんとに大丈夫?」妹の声が再度聞こえた。
ガンガンなる頭を、もう少しだけ枕に埋めていたかったのだが、さすがに家族を心配させると思ってやめることにした。なんとかベッドの下に足を下ろして座り、一度大きく伸びをしながら深呼吸をする。スペースの空いた肺に、埃っぽい空気が入ってくるのを感じていると、靄がかっていた頭も少しだけすっきりするように思う。
服を着替えるべきではあったが、それよりも家族を心配させる方が問題だよな、と思ったハインは、一度頭をぐしゃぐしゃと手で触った後で、よれた部分だけを少し直して部屋を出た。
「おはよう……。あんた、大丈夫?」ダイニングへと出てきたハインの顔を見て、母がびっくりしたようにそう言った。
「おはよう。……なんで?」
「だって、あんた、顔色悪いから。」ハインの問いかけに対し、母は躊躇うようにそう言った。
「……あぁ、ほんとに?」
「ほんとに。なんかすっごい青白いよ?今日。」セレンもルグブロー(黒パン)をスープに浸して食べながら同意する。
「……てか、昨日は何時に帰ってきたの?随分と遅かったようだけど。」唖然としているハインにそう言いながら、セレンは軽く首を傾げた。
「え?……あぁ、えっと、まぁ、いいだろ。ちょっと忙しかったんだ。」まずいと思って誤魔化しながらも、ハインは昨日自分がどうしていたのか、うまく思い出せないことに動揺していた。
「ふ〜ん。……ま、大学生なんて、そんなもんか。……エレンも帰り遅かったもんね。」セレンが母の方をチラリと見ながらそう言った。
「そうだっけ。」ハインはまだぼんやりとしている頭で考えながらも、テーブルの上の朝食を眺める。
いつも通りのルグブロー(黒パン)に、しなびたサラダ、そしてスープ。少し硬めの目玉焼きにウインナー、そして冷たいバーレイティー(穀物茶)。ハインはセレンの前に座ると、すでに朝食を食べている弟2人のことを横目に見た。
「あんたも早く、食べなさいよ。」
「風邪でも引いたのかしらねー。」セレンと母が、交互に言った。
―続きましては、ドライブ中毒についてコメンテーターにお話を――。
ついていたテレビからは、またドライブ中毒についての話が流れてくる。母が気にするのではと思ったが、当の本人は洗濯物を片付けていて気づいていない。それならいいか、と思いつつ、ハインもそのまま朝食を食べ始めることにした。
―えー、ドライブ中毒って、本当にあるんでしょうか。巷では都市伝説のような扱い方もされていますが、いかがお考えでしょう?
司会のアナウンサーがコメンテーターに質問をする。確かにドライブ中毒は医学的に認められた病理ではない。状態として観測はできるが、患者の肉体は正常なのだ。姉の担当医によれば、単に寝ているだけに過ぎない。そのうち勝手に起きてくるでしょう、と。
―しかし、ネオステラ社が認めていないんじゃあねぇ。
―なぜ認めていないんでしょうね?だって、1万人も寝たままなんでしょ?
―だって認められないじゃないのよ〜。患者は寝てるだけなんだから。
複数のコメンテーターが何か好き勝手言い合っている。ハインもスープに浸したルグブローを齧り、バーレイティーで流し込んだ後、胸に支えそうな塊ごとごくりと全てを飲み込んだ。
そうしてなんとか朝食を終え、ハインはポラリス大学病院にやってきた。つい最近も来たばかりだが、今回は友達ではなく身内のためだ。セレンにも行くかと誘ってみたが、「今日はパス。」だと断られてしまった。というか、セレンはいつもパスだろう。
またいつも通りに面会の手続きを済ませ、今度は一般病棟へと向かう。何度も通っていたはずが、VIP病棟に気づかなかったのは、単に逆方向だからなんだと余計な気づきまで得てしまった。ハインははぁとため息をつくと、ガラッと病室のドアを開けた。
昏睡状態にある姉エレンの病室は、とても狭くて寒々しい。当然、カイの時ほど広くはないが、ほとんど同じような機械と管に繋がれた姉を見て、ハインはキュッとした息苦しさを感じていた。
「おはよう、エレン。」声をかければ、目覚めてくれるんじゃないかと淡い希望を抱きつつ、その期待はいつもあっさりと沈黙によって打ち砕かれる。
「ははっ……、まぁ、起きるわけねぇか。」ハインは力無くそう言うと、ベッド近くにある椅子に、腰を下ろす。
もう少ししたら、担当医が話をしにくるだろうが、今はまだ少し時間があった。起きている患者相手なら話し相手にもなるのだろうが、あいにくとエレンはもう何ヶ月も目覚めていない。暇つぶしに、ふとリンク・スフィアのウィンドウを立ち上げたハインは、カイの病室でのことを思い出していた。
「そういえば、カイが目覚めた時にはシープがいたな。」やや突飛な思考ではあるかもしれないが、あのロシュカとかいうぶっきらぼうな男が、なんのためにシープを持ってきたのかが釈然としない。
「カイは、ネオステラ社の御曹司……。」ニュース・サイトに並ぶ、ネオステラ社の会見インタビューの記事を眺めていると、どうも別世界の出来事のように思えてしまう。
本来であれば、ハインにとって、カイがネオステラ社の人間であれ、例えば市長の身内であれ、大した違いはないはずだった。それなのに、どうしてこうも不自然な形になってしまったんだろう、とハインは思う。当のカイはといえば、自分が事実を突いたあの夜以来、大学を休んで来ないことが増えていた。
「もっとちゃんと話したいだけなんだ……。」病室にはエレンしかいないのをいいことに、ハインは1人で言葉を漏らす。
あぁそういえば、とハインは思う。そういえば、バーチャル・ワールドでは身内に会えない、とカイラが言っていた。なぜ試そうとしなかったのだろう。ハインはリンク・スフィアのホログラムUIを操作して、バーチャル・ワールドのリンク・ノートから、エレンのユーザアドレスを探そうとした。




